第三章 反照(四)

 千奈津ちなつの右足の傷は順調に回復し、退院日が水曜日で確定した。

 本人の話によると、もうほとんど痛みはなくなり、松葉杖さえあれば普通に歩けるそうだ。そうは言うものの、エレベーターのない校舎内の移動は不便だろうし、通学や日常生活にも支障があるだろう。とりあえず期末テストを乗り切り、終業式を迎えるまでの三週間はバックアップするつもりでいた。

 ――事件に関する情報収集は、実はあれからほとんど進んでいない。

 警察との窓口になっていた平野が捜査から外れたこと、山根との約束もあって伊丹いたみに関する調査を中止したことも影響しているが、それ以前に期末テストが目前に迫り、千奈津に授業内容を教え、自分が勉強するのに忙しく、時間を割く余裕がなくなった。

 しかし、忙しいからといって何もしないわけにもいかず、二人の被害者のうち同級生だった御器所ごきそ菜央なおについて少し聞き込みをしてみたが、結論から言うと大した情報は得られなかった。

 御器所は文系クラスで接点がなかったため、級長を指名して教室の外に呼び出し、話を聞いてみた。だが、御器所は二年に入ってから一度も登校しておらず、顔を合わせたこともなかった。代わりに、昨年、クラスメイトだったという女生徒を紹介してもらったが、あまり有益な話は聞けなかった。

 御器所は周囲と馴染めず、部活動にも参加しないまま一年の三学期から少しずつ早退や欠席が増え、三月に入ってからはほとんど学校に来なくなったらしい。また二人とも傷害事件どころか、四月に亡くなっていることも知らないようだった。

 去年に三年生だった七瀬ななせについては、つてがなかったのでまだ手を付けていないが、以前に佐藤と国生こくしょうから聞いた話によると、同じように不登校となり、皆が知らないところで事件に巻き込まれ、そして命を落としたのだろう。

 学校に来なくなった御器所・七瀬と比べれば、仁科にしなや千奈津の方がまだ人とのコミュニケーションが取れている方だ。だが、それは言葉を換えると、犯人が次第にターゲットの対象範囲を広げているとも言える。

 今、BC事件の真犯人は何を考え、何をしようと企んでいるのだろうか。


 千奈津の退院日、学校が終わってから病院に迎えに行き、タクシーを呼んで千奈津と同乗し、千奈津の家へと向かった。千奈津が松葉杖を突いて車から降りると、門前で待っていた佐藤と山根が拍手で出迎えた。

「退院おめでとう!」

「橘さん、おめでとう!」

「……ありがとう」

 佐藤から花束を受け取った千奈津は、少しはにかんで頭を下げた。

「色々と心配掛けて、ごめんなさい……」

「もう、千奈津はすぐ謝るんだから。ほら、早く中に入ろう」

 俺たちに見守られながら、千奈津は自分で松葉杖を突いて家の中に入り、俺たちも後に続いた。この家にこれだけの人が集まるのは久し振りだと思う。事故から一年間、ずっと一人で暮らしてきた空間が、にわかに明るく華やいだ雰囲気に包まれる。

 さっそく俺と山根が持ち寄った材料でカレーを作った。二人とも料理をするのは中学校の調理実習以来だったが、普段から自炊をしている佐藤の指導の下、それなりに仕上がった――と思う。

 テーブルに四人並び、わいわい話しながら夕食を食べた。ムードメーカーの佐藤と山根がそろうだけで、こんなに明るくなるのかと改めて思い知る。俺にはできないことで、二人が来てくれたことに心から感謝した。

 食事が終わり、飲み物の準備をしていると、佐藤がかごに盛り付けられたクッキーをテーブルの上に置いた。

「お菓子を持ってきたから食べてみて」

「すごーい! もしかしてこれ、佐藤さんが焼いたの?」

 山根が尋ねると、佐藤は照れながら頬を指でかいた。

「えへへ。もともと家族用に作った物だから、山根君たちの口に合うか分からないけど」

「いただきます!」

 山根はさっそく四角く丁寧に焼かれたクッキーを手に取り、美味い美味いと言いながら食べ始めた。その様に笑いながら、俺も一つつまんで口に運んだ。

「…………」

 ――口にした瞬間、一週間前の記憶が蘇った。

 クッキーの中にスパイシーな匂いが幾つも混ざっているが、その中に一条の手紙に付着していたものが、確かに含まれている。そうか、あれは香辛料だったのか――。

 かみ砕いたクッキーを飲み込むと、佐藤に尋ねた。

「なあ、佐藤。このクッキーって何が入っているんだ?」

「……もしかして、まずかった?」

 少し不安そうな表情で佐藤は首をかしげた。

「いや、そんなことない。美味しいよ。ただ、ちょっと変わった香りだと思って」

「ああ、よかった」

 佐藤は大げさに胸を撫で下ろすと、嬉しそうに俺を見上げた。

「これね、スパイスクッキーと言って、色んなスパイスを入れてあるんだ。えーとね……」

 指を折りながら、佐藤はクッキーに入れた香辛料の名前を並べた。

「黒コショウ、ジンジャー、カルダモン、コリアンダー、クローブ、――かな?」

「…………」

 頭の中で何度も繰り返し、脳裏に刻む。コショウとジンジャー(生姜しょうが)は分かるが、残り三つが分からない。あとで調べてみよう。


 その後、手紙に付着していた香りは「クローブ」だったことが分かった。

 これがきっかけで、事態が急転した。



※第四章以降は、Kindleストアの『ヴィーヴルの眼』でお楽しみください。

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ヴィーヴルの眼 水谷 悠歩 @miztam

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