IV

 ぼくが夕食を作っている間に、麗は起き出して、再び朝綺の椅子の足下で数学の問題を解き始めた。麗と朝綺が笑い合う声が聞こえる。何某かの公式の形がとても美しいらしいのだけれど、ぼくには意味がわからない。


 筑前煮にクッキングシートの落し蓋をして、ぐつぐつと音を立てて煮える様子を、ぼんやりと見つめる。藤原さん、ぼくの煮物を気に入ってくれていたな。そんなことを思っていたら、ポケットのスマホがメールの受信を知らせた。事務所からの連絡だけはバイブレーションのパターンを変えているから、すぐにわかる。


 メールを確認すると、手が空いたら藤原さんの奥さんに電話してほしい、との指示だった。携帯電話の番号が併記されている。ぼくは朝綺に断りを入れて、玄関で電話をかけた。コールを聞く間、スニーカーに両足を突っ込んで、布地の踵を潰しながら足踏みをする。


 もしもし、と電話の向こうに女性の声が現れた。藤原さんの奥さん本人なのか、一瞬、迷う。普段の快活な印象とは程遠い声音だった。ぼくが名乗ると、ああと嘆息して、彼女の口調に少し力がこもった。ご連絡ありがとうございます、と告げる声は、確かに奥さんのものだ。


「何か、あったんですか?」

「いいえ、そうじゃないんです。病状は相変わらずで。木曜の訪問の件で、お話したかったんです。病院のほうに来ていただけませんか? 面会時間は午後一時からになるので、朝からお昼まで来ていただいている普段とは違う時間帯になってしまうんですけど」


 ぼくは頭の中でスケジュールを整理した。木曜は夜勤が入っている。でも、午後は自由が利く。


「木曜の午後一時におうかがいします」

「ありがとうございます。病院の場所はご存じですよね? 一度、主人が風邪をこじらせたときに、一緒に行っていただいた病院で」

「はい、わかります。でも、ぼくがおうかがいして、何かお役に立てますか?」

「小説を読んでほしい、と。司馬遼太郎の新選組を朗読してほしい、と主人が言っているんです」


 藤原さんは歴史小説が好きで、ぼくにもたくさん勧めてくれた。あるとき藤原さんは、いいことを思い付いた、と、ぼくに司馬遼太郎を朗読させた。ぼくが所属する劇団は若手ばかりで、歴史ものの舞台公演はやったことがない。ぼくは初めて歴史小説を声に乗せてみて、腹の底から熱くなるのを感じた。声に出して読む歴史小説のダイナミズムに、ぼくは魅了された。


 それは藤原さんも同じだった。ぼくの声と口調が歴史小説に合うと誉めてくれた。あれ以来、たびたび藤原さんは、ぼくに歴史小説を朗読してくれと言う。ときどき奥さんも一緒に聴いてくれて、ぼくはくすぐったくも誇らしかった。


「わかりました。新選組ですね。練習して行きます」

「よろしくお願いしますね。それと……人工呼吸器、やっぱり、付けないことにしましたので。木曜日は、まだ、大丈夫だと思いますけれども」


 気丈な声が、最後には震えていた。ぼくは目を閉じる。近藤勇が敵方へ出頭した日の土方歳三を思った。藤原さんが涙を流していたシーンだ。新選組局長である近藤が敵方の前に姿を現せば、捕らえられて処刑されるのは目に見えていた。新選組隊士たちとともに残された副長の土方は、敬愛する近藤を、どんな気持ちで見送ったんだろう?


 通話を終えて、スマホをポケットにしまう。力が抜けて、ぼくは玄関でうずくまった。背後に、筑前煮が湯気を立てるキッチンがある。炊飯器のスイッチを入れないといけない。キッチンの向こう側の部屋では、麗と朝綺が、くすくすと笑い合っている。時が止まればいいのに、と思う。朝綺も藤原さんも生きている今のままがいい。


 ぼくは天井を見上げた。眼鏡越しの白い天井が、熱く滲みそうになっている。ぼくは両眼に力を込めた。泣くまい、と念じた。



【了】

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不条理カウントダウン 馳月基矢 @icycrescent

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