III

 朝綺は高校卒業以降、一人暮らしをしている。実家はさほど遠くない場所にあるけれど、ご両親と顔を合わせることはほとんどないらしい。昔から折り合いが悪かったんだ、と朝綺は言う。一緒に住んでいたころは口論が絶えなかったそうだ。


 口論の原因を訊いてみた。朝綺がまだ、どうにかしてつかまり立ちができたころだ。朝綺は、キャスター付きの椅子にドサリと腰を下ろして、肩をすくめた。


「歩かせたがるんだよ、うちの親。訓練すりゃ予後が延びるとでも思ってんじゃねぇの? そんなわけないのにさ。おれとしては、筋肉を傷めたら復活しないんだから、あんまり無茶したくないんだよね」


 朝綺はもともと、大げさなくらいに表情も身振り手振りも豊かだった。それが次第に、肩をすくめられなくなって、腕を広げられなくなって、肘で上腕を支えて手を振ることさえできなくなった。表情も、いくらか緩慢になった気がする。軽やかな口調だけは、幸い、まだ変化がない。


 月曜の午後、結局、麗も朝綺のマンションへの訪問について来た。ぼくと入れ替わりで帰っていく先輩ヘルパーの女性も、すっかり麗の顔を覚えている。麗はいつも彼女と目を合わせずに挨拶をして、朝綺が掛けた椅子のそばに、膝を抱えて座り込む。そしてトートバッグから問題集とボールペンを出して、黙々と勉強を始める。


 朝綺は決まって、ぼくが来てすぐにトイレに行きたがる。母親に近いくらいの世代とはいえ、女性のヘルパーさんには、トイレや入浴の介助を頼みづらいらしい。


「おれだって、若い男の子なの。女性の前では格好つけたいんだよ。イメージってもんがあるだろ? おれ、こんなイケメンだしさ」


 確かに朝綺は秀麗な顔立ちをしていて、ぼくなんかより、よほどお洒落だ。髪型にも服装にもこだわるし、髭の剃り残しなんて言語道断で、出掛けるたびに写真を撮りたがっては、気に入る写りになるまで何度でもやり直す。筋ジストロフィーの症状で、衰えた筋肉の代わりに脂肪が付く「仮性肥大」を本気で嫌っていて、食事内容を気にしている。マッサージで脂肪がどうにかならないか、と相談されたこともある。


 キャスター付きの椅子が、自宅内での車椅子代わりだ。朝綺を椅子ごとトイレまで連れていって、体を浮かせてやりながら、下を脱がせる。便座に座らせた後、ぼくは外に出て扉を閉める。朝綺は自力で排泄できる。用を足した後は、ウォシュレットの水と送風でお尻を綺麗にするから、ぼくの手は必要ない。


 極力、見ないようにする。それでも、肌の色は目に付いてしまう。朝綺のところに泊まると言った麗の言葉が、頭の中で反響した。あれは麗が衝動的に言い出したことなんだろうか? それとも、朝綺との約束なんだろうか?


 二十一歳の朝綺の体が女性を欲して反応するのは当然のことだ。いつだったか、早朝に突然、朝綺に呼び出されたことがあった。何事かと驚いて駆け付けたら、夢精の処理に困って思わず呼んだのだと、朝綺は赤い顔でそっぽを向いた。その日の午前中の担当は、女性のヘルパーさんだった。


 麗と朝綺の仲を反対したくはない。でも、この恋の結末は目に見えている。朝綺の死という形で、麗は恋を失うんだ。ひょっとしたら麗は朝綺の後を追ってしまうじゃないか、とも思う。暗澹たる未来図だ。想像したくもない。ぼくは最近、時が経つのが怖い。


 洗濯物を畳みながら待つうちに、朝綺に呼ばれた。下を履かせて、椅子に移乗して、パソコンデスクの前に連れ戻す。


 と、朝綺が声を潜めて笑った。


「麗ちゃん、寝ちゃったんだ。ここに来たら、よく寝てるよな。昨日の晩は、相変わらず眠れなかったんだろ?」

「そうみたいだね。ぼくも規則正しい生活を送ってるとは言えないから、麗にも迷惑をかけてる」

「気の合わない親と一緒にいるよりは、優しい兄貴と一緒にいるほうが、絶対いいって」


「学校には復帰できないままだよ。せっかくの十代の時間を、外に出ずに過ごすのは、もったいない気がする」

「学校なんか通わなくったっていいよ。高認の勉強も受験勉強も頑張ってるじゃん。誰にも頼らずに勉強してる高校二年生が、すでに国立大の入試問題も解けるんだろ? すごいよ、麗ちゃんは」

「うん、麗はぼくと違って賢いから。だけど、麗を本気にしたのは朝綺だよ」


 ぼくの言葉に、朝綺は目を細めて、小さく顎を引いた。


 たぶん、麗は本物の天才だ。集団行動をするのが苦手なのは、その才能の代償かもしれない。人とコミュニケーションをとれないわけじゃない。少なくとも、ぼくや朝綺に対しては、きちんと表情を見ながら、誤解のない話し方をすることができる。


 麗が学校に通わなくなった直接の原因を、ぼくは知らない。なぜ両親との仲がおかしなことになったのか、それもよくわからない。ぼくという逃げ場があったことは、言葉は悪いけれど、麗にとって不幸中の幸いだった。そして朝綺と出会ったことは、この上なく残酷な幸運だった。


 朝綺が麗の寝顔を見つめている。こんなに穏やかな目をする男だったかな? 胸がチクリとした。妹を悲しませる存在のくせに、妹の心を奪った朝綺が憎らしい。


「麗ちゃん、おれのベッドを使えばいいのに。床の上で膝を抱えて寝てたんじゃ、体が痛くなるだろ」


 そうだな、と、ぼくはうなずいて、麗の肩を揺さぶった。うっすらと目を開いた麗に、ベッドで寝るように告げる。麗は、寝ぼけた猫みたいに這って行って、ベッドによじ登った。布団にくるまって、右手の親指をくわえて、丸くなる。


 麗が不眠気味なのは知っている。朝綺に出会うまでは逆で、毎日寝てばかりだった。麗は自分で自分のバランスを取れない。力になってあげたいのに、ぼくには、その方法がわからない。


「頑張りすぎなんだよ、麗は。根詰めて勉強しすぎてる。受験まで、まだ時間があるんだから、そこまでやり込まなくていいのに」

「飛び級とか、優遇措置とか、あればいいのにな。麗ちゃんも、おれも。麗ちゃんの学力なら、今の時点でも十分、専門的な研究にだってついていけるだろ? おれはさっさと卒業したい。生きてるうちに、本当は修士号くらい取りたいんだ」


 大学を二十二歳で卒業して、大学院の修士課程は二年間。二十四歳になるころ、朝綺の体は、どうなっているんだろう?


 麗が投げ出した問題集は、ページが開かれたままだ。数学Ⅲなんて教科は、文系のぼくには縁がなかった。余白という余白に、ボールペンで数式が書き込まれている。こんな複雑な計算が、麗の進みたい道の先で何かの役に立つんだろうか。


 ぼくは問題集を閉じて、くたりと横たわるトートバッグの上に重ねた。トートバッグの口から朱色の分厚い本がのぞいている。大学入試の過去問集だ。麗は医学部医学科を志望している。


「研究医になりたい、か」


 筋ジストロフィーの治療法を確立するための研究をしたいのだ、と、朝綺と出会った日の夜、麗はぼくの前で宣言した。


 朝綺の右手の人差し指と中指が、椅子の肘掛の上でタップダンスをしている。朝綺は、まつげを伏せてそれを見つめながら、頬に浅いえくぼをつくった。


「二〇一四年十一月、筋ジス患者から造った人工細胞で、遺伝子異常の修復に成功。マウスを使った実験で、遺伝子を修復された人工細胞が正常なたんぱく質を発現することが確認された。その実験をやったのが、麗ちゃんが将来的に志望してる研究所だ」


「うん。二〇一五年の五月には、別の研究機関で、筋肉の損傷を修復する効果の注射薬が筋ジストロフィーにも有効らしいと確認された。マウスの実験で成功した、っていう段階らしいけどね」


「うらやましい話だな。おれ、マウスになりたいよ。定期的に注射してりゃ、寿命が延びるかもしれないんだろ? 機械に繋がれるよりも自由の利く状態で、麗ちゃんを待ってられるんだ」


「麗を待つって?」


「麗ちゃんがえらい学者になって、筋ジスの完璧な治療法を確立する日をね、待つんだ。遺伝子改変操作がうまくいって、この体ごと造り替えることができるなら、注射なんか必要なしで、自力で筋肉の損傷を修復できるようになる。そしたら、おれ、必死でリハビリやるぜ。もう一回、立ちたいし歩きたいし、麗ちゃんを抱きしめてみたいし」


 さらりとした朝綺の口調に、ぼくの心臓は跳ねた。床に膝を突いて、朝綺の顔をのぞき込む。


「まじめに訊くけど。朝綺は、麗と付き合ってるのか?」


 朝綺は視線だけをそらした。薄いえくぼが消えて、唇が力なく動く。


「好きだよ。おれは麗ちゃんのことが好きだ。だけど、付き合うなんてさ、つらいよ。おれ、文字どおり、まったく手出しできないんだぜ」

「麗が、今日の晩はここに泊まると言ってた。そういう約束なのか?」


 唇を半端に開いたまま、朝綺は少しの間、沈黙していた。目を閉じて、声を出さずに笑う。色素の薄いまなざしが、ぼくを見た。


「麗ちゃんが望んでくれることを、おれは拒絶しないよ。体は動かない。でも、心まで、がんじがらめになっていたくはない。兄貴としては、おれのこと許せない?」

「許せない、殴ってやりたい、と言いたいところだけど。わからない」

「おれが普通の体なら、応援してくれた?」

「ああ。もちろん応援した」

「その答えで十分だよ。ありがとう」


 朝綺は今、嘘をついた。十分なはずがない。朝綺と出会って麗が変わったように、麗と出会った朝綺もまた、変わった。ときおり苦しそうな目をして嘘をつくようになった。


 筋ジストロフィーを患う自分の運命を、かつて朝綺は受け入れていた。若くして訪れる死について、達観して醒めたことを語っていた。それが変わったんだ。今の朝綺は、運命に怯えている。死に抗おうとしている。


「特効薬の臨床試験、早く始まればいいのにね」


 ぼくは思わず言ってしまって、無神経だっただろうかと、口をつぐんだ。朝綺が、今度はハッキリと笑った。


「ほんとだよ。倫理問題がどうこうとか、うるさいこと言わねぇから、さっさとおれの体で薬の効きを試してくれ、って感じ。やっぱり長生きしてみたい。あー、でも、これ症状軽くなったら、補助金減るよな。おれ、どうやって生計立てよう?」

「SF小説の出版、考えてみたら? おもしろいよ、朝綺の小説。死んでからじゃなくて、生きてるうちに公表しなよ」

「ええっ、どうするかなぁ?」


 悩むようなことを言いながら、朝綺は目を輝かせている。書きたいものも、やりたいことも、朝綺には、本当はたくさんあるんだ。

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