II
朝綺の病気は、筋ジストロフィーという。遺伝性の疾患で、基本的に男児にだけ発現する。全身の筋肉に異常が起こる病気だ。筋肉はたんぱく質から構成されるけれど、筋ジストロフィー患者の遺伝子は、正常なたんぱく質を造ることができない。彼らの全身の筋肉は、次第に変性し、壊死していく。
筋ジストロフィーにはいくつかの型がある。中でも最も多いのはデュシェンヌ型と呼ばれるもので、朝綺もこの型だ。体のどの部位の筋肉から衰えていくかは個人差があるけれど、朝綺は体幹部から順に動かせなくなってきている。パソコンを操る指先はまだ元気だ。
全身の筋力を失っていく筋ジストロフィー患者は、いずれ心肺機能も衰えて、機械の力を借りなければ生命を維持できなくなる。根本的な治療法は、いまだ確立されていない。この難病を持って生まれた彼らは、たいてい二十代で亡くなってしまう。
一年くらい前、ぼくが目の前で亡くした利用者さんも、デュシェンヌ型の筋ジストロフィーを患っていた。彼は、ぼくと同い年だった。
その日の彼は、少し体調が悪い、おなかの具合がよくない、と言っていた。でも、気のせいかもしれない、とも笑っていた。彼はもともとおなかを下しやすくて、まあ便秘よりはいいよね、と冗談めかすことがあった。腹筋が弱った体には、勝手に出て行ってくれるほうが助かるから、と。それにウォシュレットで洗いやすいしね、とも。
あれは祝日明けの水曜日だった。その祝日に、ぼくが所属する劇団の公演があって、打ち上げももちろんあって、ぼくはくたくたになっていた。彼が一人暮らしをする家へ訪問する夕方のぎりぎりまでベッドで引っくり返って、ようやくのことで酒が抜けたようなありさまだった。
だから、注意力が散漫になっていたかもしれない。食事や着替え、トイレや歯磨きの介助でミスを犯したりはしなかった。でも、いつもと同じ仕事をしながら、いつもと同じだけ集中していたとは、決して言えなかった。集中していたら、彼の異変に、もっと早く気付けたかもしれないのに。
彼は、やっぱり体がだるい、と早めにベッドに入った。おやすみなさいと言い合って、夜間だけ使うマスクタイプの人工呼吸器を彼に付けてあげて、ぼくは部屋の電気を消した。ぼくも横になった。一時間おきにアラームをセットして起きて彼の様子を見るのが、夜勤の仕事だった。
異変は、最初のアラームのときには、すでに起こった後だった。ふしゅー、ふしゅー、と酸素を送る人工呼吸器の音が、あまりにも規則正しすぎた。その理由に思い当たった瞬間、ぼくは眠気も疲れも忘れて、彼の体を揺さぶった。彼は、もう息をしていなかった。
こんなときにどうすればいいのか、ぼくは固く訓練されていた。事務所に電話をかけながら、ひどく冷静に受け答えをする自分と、ぼたぼたと涙をこぼし続ける自分が、同時に二人ぼくの中にいて、ぼくを二つに割いていた。事務所が手配した救急車が来るまでの間、冷静な自分は膝を抱えて縮こまってしまって、泣きじゃくるぼくがびしょ濡れの声で彼の名前を呼ぶのを、黙って聞いていた。
彼の命を奪った直接の原因は、ノロウイルス感染症だった。免疫力が十分な大人なら、死に至るほどの重い病気じゃない。でも、彼は体が弱かった。ノロウイルスの症状は通常、感染から一日か二日で発現するらしい。ぼくが訪問したときにはもう、彼の体はノロウイルスに蝕まれていたんだ。
彼のトイレの介助をしたぼくも、ノロウイルスに感染した。彼のお通夜にもお葬式にも出ることができず、ついでに風邪までひいてしまって、仕事に復帰できたのは、彼を亡くした十日後だった。
「おにいちゃん、仕事、続けられるの?」
久方ぶりに朝綺のマンションへ向かうぼくに、玄関先の麗は、怒ったような顔で言った。ぼくが伏せっている間に、麗は家出してぼくの部屋にやって来た。広いだけが取り柄の古びたアパートに麗が居着くようになったのは、このときからだ。
「仕事は続けるよ。どうしてそんなこと言うんだ?」
「うなされてた。ごめんなさいって繰り返してた」
熱に浮かされた夢の中で彼に会ったせいだ。朝綺にも会った。藤原さんにも会った。夢の中で、ぼくも彼らも倒れ伏したまま動くことができずに、ぼくは無力感に打ちひしがれた。ぼくが彼らを助け起こさないといけないのに、体が動かないなんて。
ぼくは一つかぶりを振って、麗に笑ってみせた。
「心配かけて、悪かったな。大丈夫だよ。今日の夜は遅くなるけど、それでよかったら、ぼくが何か作るから」
麗は黙ってうなずいた。実家では家事をしたことがなかった麗は、この数日で洗濯機の使い方を覚えた。ぼくがほしいと言った食べ物や飲み物は、コンビニやドラッグストアで買ってきてくれた。後になって考えると、そんな簡単な買い物でさえ、引きこもりがちの麗にとっては冒険だっただろう。よくぞ家出なんかできたものだと思う。ぼくの変調を聞いて出てきてくれたのだから、兄として純粋に嬉しかった。
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