不条理カウントダウン
馳月基矢
I
日曜の夜に事務所から電話が入って、月曜午前中の藤原さん宅の訪問が明日はキャンセルになった、と告げられた。藤原さんが入院したらしい。胸に、さっと嫌な予感が差した。
「体調が思わしくないんですか?」
藤原さんは病院嫌いだ。よほどのことがない限り、病院に行こうとはしない。電話の向こうで、所長が声を潜めた。
「肺炎だって。
嫌な予感が冷たく凝り固まった。
「誤嚥性? でも、食事介助には十分気を付けていましたし、藤原さんの奥さんだって、介助の知識はあるのに」
「うん、ヘルパーさんも奥さんも、みんな気を付けてたはずだよ。藤原さん自身もね。それでも、長い時間をかけて、気管のほうに食べ物の欠片が蓄積しちゃってたんじゃないかな? 気管切開をして人工呼吸器を付ければ、一応は、回復も可能らしい。だけど、あの藤原さんのことだから、ね」
所長は語尾を濁した。ああ覚悟しなきゃいけないんだな、と、ぼくはスマホとは反対側を向いて息の塊を吐き出した。
用件のみの短い通話を終える。疲れに似た重たいものが、ぼくの両肩にのしかかった。
藤原さんは四十九歳で、ぼくより二回りも上だけれど、とても話しやすい人だ。頭が切れて、ユーモアがあって、博識で、素敵な本も音楽もたくさん知っている。藤原さん宅へ訪問する月曜と木曜は、朝が極端に早いことを除けば、楽しみですらあった。
ぼくはヘルパーだ。体の不自由な利用者さんの自立生活を支援する事務所に籍を置いている。大学を卒業してすぐ、この仕事に就いた。人と接する仕事をしたいと昔から思っていたし、十代の情熱の大半を注ぎ込んだ演劇を続けられる職場を探してもいた。仕事はシフト制で、夜勤もあって、生活は不規則だ。でも、自分が自分でいられる時間が確保できることは、ぼくにとって何よりありがたい。
藤原さんとの付き合いは、そろそろ二年半になる。今ぼくが訪問している利用者さんの中で、二番目に付き合いが長い。
藤原さんは脊髄損傷で、首から下が不自由だ。若いころ、競泳用プールで、飛び込む角度をしくじってしまったらしい。さばさばとした藤原さんは、たまに事務所に顔を出して、同じく脊髄損傷で電動車椅子生活を送る所長と、お互いの事故当時の状況をからかい合っている。聞くからに痛々しい話で、ぼくとしてはとても笑えないのだけれど、彼らのコミュニティではこれくらいのブラックジョークが日常茶飯事だったりする。
その藤原さんと、きっと、まもなく会えなくなる。
ぼくは過去に一度、利用者さんとお別れしている。それはあまりにも突発的なできごとで、ぼくは覚悟する余裕すら与えられず、ただ震えながらマニュアルどおりの処置を施して救急車を待つばかりだった。病院で彼の死亡を告げられたのは、隣県に住む彼の家族ではなく、ぼくだった。
今回は、あのときとは違う。少しだけ余裕がある。明日はともかく、木曜には藤原さんと会える。仕事がキャンセルになっても、できることなら、お見舞いに行きたい。
「おにいちゃん」
呼び掛けられて、ぼくはハッとした。妹の
「ああ、ごめん、電話終わったよ。ドライヤー、使ってどうぞ」
麗は右手を口元に持ち上げて、親指に噛み付いた。子どものころからの癖だ。右手の親指の爪は削れて、半分も残っていない。つねに血をにじませていて、痛いに違いないのに、麗はその癖をやめない。
「おにいちゃん、さっきの電話、何? 明日の仕事、キャンセルなの?」
「うん。利用者さんが入院しちゃってね」
「ちょっと聞こえてた。肺炎?
麗は張り詰めたまなざしをしている。十七歳。綺麗になったなと、不意に思った。あどけなさは残っているけれど、兄の欲目を差し引いても、麗は美人だ。
「朝綺じゃないよ。午前中に訪問する先の、藤原さん。深刻かもしれないって、今の電話で聞かされた」
「そう。そっか、朝綺じゃないのね」
麗は大きく息をついて、親指をくわえながら、うつむいた。安堵に緩んだ麗の顔を、ぼくは見なかったことにする。
「朝綺のところには、いつもどおり行ってくるよ。夕食は、作って置いて行くから」
利用者さんの中で、朝綺は特別だ。ぼくは大学時代から彼を知っている。学園祭で演劇部の公演を観に来てくれた、車椅子の利発な少年。整った顔立ちで、ちょっと生意気な口を利く彼が、朝綺だった。朝綺はぼくが書いた冒険ものの脚本を気に入って、終演後にわざわざ声をかけてくれた。
当時十五歳だった朝綺は、今では二十一歳だ。進行性の病気を患っている。かつては自力で車椅子を転がしていたのが、今では電動車椅子を使っている。身の回りのことも、ほとんどの場面で介助が必要になった。
朝綺と親しくなったことがぼくをヘルパーの道に進ませたと言っていい。朝綺はおもしろい男だ。よくしゃべるし、とても賢い。テンキーで操作するパソコンを起ち上げれば、朝綺の精神と思考は自由に駆け回る。毎日、通信制大学の課題なんかあっという間にやっつけて、ティーンエイジャー向けのSF小説を書いては、ぼくに見せてくれる。おれが死んだら公表して、と、けろりとして笑いながら。
麗が顔を上げた。
「晩ごはん、いらない。あたしも行くから。朝綺のところ」
ぼくは中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。そのまま手を下ろせないのは、どんな顔をすればいいかわからないからだ。
「麗、ぼくは仕事なんだよ。麗を朝綺に会わせたことがある、って事務所のほうにも言ってあるけど、こんなにしょっちゅう麗を朝綺の家に連れて行ってるなんて知れたら……」
「おにいちゃんには関係ないの。あたしは、彼氏の家に行くだけ。食事介助も、介助じゃなくて、ただ一緒にごはん食べてるだけで、そんなの、付き合ってたら普通でしょ?」
ぼくは息を呑んだ。二の句が継げない。
麗が朝綺のことを好きらしいというのは、最初に会わせた日から、すでに感じていた。学校に通わない高校生の麗が笑うのを、あの日、ぼくは久しぶりに見た。
だけど、彼氏だとか付き合っているだとか、ハッキリと口に出されるのは衝撃が違う。離れて暮らす両親に何と言おう? 地元で学校に通えなかった麗は、ぼくと同居するようになってもやはり引きこもったままで、両親は不安がって頻繁に連絡を寄越す。麗は恋をして、たまに明るい顔を見せるようになった、と報告してもいいのだろうか?
麗の恋を否定したくはない。朝綺はいいやつだ。ぼくの親友でもある。でも、一人のヘルパーとして、懸念せずにはいられない。朝綺の進行性の病気は、近い将来、彼の自由を完全に奪う。そして、短い寝たきり生活の後に、朝綺の若い命はついえる。その運命を知りながら、諸手を挙げて麗の恋を応援することはできない。
ぼくは何も言えずにいる。麗は、大きな目をキッパリと見開いて、震える声で宣言した。
「あたし、明日の晩は、朝綺のところに泊まるから」
顔が赤いのは、風呂上がりのせいではなかっただろう。麗は一瞬、泣き出しそうに口元を歪めて、足音高く自分の部屋へ引っ込んでいった。
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