私に願いを

「通知表が良かった奴も悪かった奴も、遊ぶだけじゃ無くしっかり勉強するように」


 早く……。


「ねぇ」


「勉強三割遊び七割。それぐらいが丁度良い」


 早く、早く、早く……。


「ねーってば」


「んじゃ、夏休みになったからといって危ないところには行くなよ? 元気に新学期を迎えるように。んじゃ号令を」


 来たッ……!


「お~い」


「起立、礼!」


 一学期最後の終礼を終え、俺は机に上げていたカバンを引っつかんで、一目散に廊下に向かって駆け出す。


「よっしゃー帰ろうぜ、修司!」

「すまん、川瀬かわせ。先帰る」


 窓際から廊下に向かう途中、川瀬に話しかけられるが、立ち止まることなく俺は通り過ぎる。


「……? 今朝から、あいつどうしたんだ」


 俺は走っていた。ありったけの全速力で。

 町並みが高速で俺のそばを過ぎっていく。

 町並みは過ぎていくのだが――


「ねえー、なんで私から逃げるのさ」


 隣に居るこの女だけは、何故かぴったりと俺にいてきていた。

 それも浮遊しながら。


 浮遊しているというより、滑っていると表現した方が近いか。

 怪談とかで良く聞く幽霊と違い、足があるのだが、全く動かさずにくっついてきている。


「なんでって、お前、幽霊じゃねぇか……!」

「そんな怖がらなくて良いよ、私は良い霊だから」


「良い霊だとか悪い霊だとか、幽霊な事には変わりないじゃないか! 周りの奴もお前のこと見えていないみたいだし」

「そりゃ、だって幽霊だし」

「なるほどな! だから俺は逃げてんだよ!」

「あー、なるほど」


 なんだこの会話。

 自分が幽霊っていう自覚はあるのか?


「でもでも、怖い幽霊って夜出るものでしょう? 今は昼間だし、安心してってば」


 一体どんな理由だ。

 呆れて横を見ると、幽霊女は俺の横を併走しながら、へらりと笑う。


 こちらは息絶え絶えなのにも関わらず、向こうは一切の疲れを見せていない。

 全力で走り続けたので、体力の限界が近い。だが、俺の自宅はもう目と鼻の先だ。


「残念だったな、幽霊ガール。これでおさらばだ」


 俺はオレンジ色の一軒家が見えた瞬間、鍵をズボンのポケットから取り出し、勝利宣言をした。


「そんなことし――」


 何か言いかけていたようだが、俺は無視して玄関に飛び込む。

 すぐさま鍵を二重に掛けると、安心から途端に疲れがやってきた。

 扉に背中を預け、息を整える。


「なんなんだ一体……」

「実体がないから、家に逃げ込んだって無駄なのに」


 声につられて顔を上げると、玄関の向こうで待ち構えるようにして幽霊女が立っていた。


「わあああ」


 驚きでひっくり返りそうになり、扉に頭をぶつけてしまう。


「お願いします。安らかに成仏して下さい」

「いやいや、とって食べたりしないから」

「なら、なんで俺んちに勝手に入ってきたり、付きまとったりするんだ」

「えっと……、お邪魔してます?」

「違うでしょ!」

「お願い。落ち着いて私の話を聞いてほしいの」


 真剣な眼差しが、俺へと向けられる。

 落ち着く落ち着かない以前に、俺に選択権は無いようだった。


「私の名前は立花優菜たちばなゆうな。この制服を見れば分かると思うけど、神楽坂かぐらざか高校の二年生だよっ。あ、今はもとかな」


 LINEとかだったら、語尾に顔文字でも付きそうな抑揚で、幽霊女は自身をそう名乗った。

 俺以外誰も居ない予定だった家の居間に幽霊女と二人きり。

 逃げようにも逃げられない。


 茶を出そうとしたら、当然ながらいらないというので、席から立ち上がる理由を失って、そのままちゃぶ台に向かい合う形で俺たちは座っていた。


「私のことは、下の名前で呼んでいいよ」

「んじゃ、幽霊で」

「いや、なんでそうなるのかな」

「じゃあ、ゴースト」

「もう好きに呼べば良いよ……」


「俺の名前は――」

「柏木修司君でしょ?」


 名乗り上げる手前、言葉をかぶせられる。


「なっ――!?」


 なんで知ってるんだ?

 これは一体――


「いや、そんな驚かなくても……柏木君のお友達と先生がそう呼んでたし」

「ふむ……。それはさておき、目的はなんなんだ? 金か? 金ならないぞ」

「いや、お金持ってても意味ないし……」

「確かに」


 冷静に考えて、金目の類は不要だろう。


「それじゃ、俺を呪い殺す気か!?」

「もう、そんなんじゃないよ。柏木君のお願いを叶えることが目的」

「お願い? 普通逆じゃないのか? 未練や願いがあるから成仏出来ないんだろ?」


 自分をつけ回す理由がイマイチ納得いかず、つい詰問きつもん口調になってしまう。


「うーん、自分の未練はあんまりないけれど、いて言うなら恩返し?」

「恩返し?」

「生前ね、良くしてくれた人がいたの。だから、誰かにその分恩返ししたいの」

「じゃあ、そいつにすれば良いだろ」


 なんで俺なんだ。


「その人、この街から越しちゃっててさ。それに私の方も、この街から遠くへは行けないから会えないの」

「遠くへ行けない? 地縛霊じばくれいってやつか」

「そんなとこ」

「今まで何してたんだ?」

「昨年の夏に死んじゃってから、丁度一年かな。ずっと町をふらふらしてた」


 そう、か。

 幽霊にも色々と事情があるんだな。


「その話はさておき、何かある?」


 言葉にきゅうした俺を見かねてか、立花はそう訊ねた。


「何かってなに?」

「お願い事」


 どうやら、お願いをしないと本当に成仏しないらしい。


「んー……」


 ——お願い事、ねぇ……。


「成仏して下さい」

「それはちょっと酷いんじゃないかな!?」


 流石に冗談が過ぎたか。

 だが、急に願いなんて聞かれてもそうそう出るものでも無い。

 待てよ……本当に何でも良いのか?


「んじゃ、金で」

「お金?」

「一兆ぐらい」

「小学生かっ!」


 立花は眉をひそめた。


「そういうのはダメ、私ができること限定で」

「じゃ、無い。帰ってくれ」


 ぴしゃりと言い退けると、立花は俯いた。


「強いて言えばそれが願いか」

「帰るところ……ないし……」


 明るかった口調も、急にしおらしくなってしまう。


「それでふらふらしてるのか」

「うん……」

「はぁ」


 ため息一つ。こういうの駄目だな……俺。

 あぐらを崩して、俺はゆっくりと立ち上がった。


 俺が座席から立ち上がると、立花は俯いた顔を上げずに、視線だけをこちらに向けてきた。その視線に俺は耐えきれず、玄関へと向かっていく。


「夕飯を買ってくるだけだ。変なことしなけりゃ家に居ていい」

「えっ……?」

「それと、幽霊が寝るのかどうか知らんが、寝るんならリビングだ。布団が余ってるから、必要なら後で準備する」


 俺は玄関先へと続くドアのノブに手を掛けて振り返る。


「夜中は俺の部屋には入らないこと。わかったな」


 立花はコクリと肯いた。


「あの、急に、どうして」

「住み着かれるより、落ち込んでる奴を外に追い返す方が寝付きが悪そうだしな」

「えっと、ありがと」

「気にすんな」

「あのっ……」


 踵を返して、リビングから出ようとしたところで呼び止められた。


「行ってらっしゃい!」


 それはもう、満点の笑顔だった。

 一年もの間、俺以外に話す人が居なかったんだなと改めて思うと、心がちくりと痛んだ。


「ああ、行ってきます」

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