Episode6
1
自転車を直した。
壊れたチェーンを外して新しいチェーンに変えるだけだ。
先生の作業は手早くて迷いがなかった。古いのを外して、新しいものに付け替えて、がちゃがちゃやって、はい、完成。
ペダルを回すとタイヤも一緒に回る。乗ってみるときちんと動く。
半年以上も壊れたままだったのが嘘みたいだった。
「これで終わり。次からはひとりでできるかな?」
「……難しいと思います」
呆気なく終わったけれど、素人だから簡単そうに見えるだけだ。私には使っている道具や部品のひとつひとつがどんな意味を持っているのかわからない。
「なら、調べなさい。学校の図書館に子供向けに書かれている本がある。自転車のメンテンナンスについても載ってるからよく目を通しておくといい」
「今度、時間ができたら行ってみます」
「君たちはもう大人だ。保護者の庇護を蹴って町に残るのだから、自覚は持っていた方がいい。もう君を守ってくれる人は誰もいないんだ」
「気をつけます」
先生が空を見た。
遠くの方から分厚い雨雲が流れてきている。
「もうすぐ、降りそうだね」
「そうですね」
雨は沼を拡散させる。
空気中に飛散するわけではないので、大した距離まで届くわけじゃない。けれど、水の流れによって運ばれたシャ毒菌は町の中まで浸透するだろう。そうなれば、たちまちは町は溶け始め、三日もかからず町は消えてなくなる。私たちも無事ではいられない。
「私が言うことでもないのかもしれないけど、気を付けて」
最後にそう言い残して、先生も山に避難した。
2
やはり翌日は雨だった。
視界がなくなるような大雨だ。
「夢路に頼みがある」
昼過ぎ、クーラーボックスを持たされた。
研究室の匂いがした。中身はすべて強化納豆菌が培養された納豆だった。
「これを町の沼側に置いて欲しい」
「それだけでいいの?」
力強く湊が頷く。
「この雨だ。町の全ては難しいけれど、やればやるだけ可能性は上がる。納豆菌がきちんと拡散すれば、シャ毒菌が町を腐らせるよりも先に駆逐することができる。その間、私たちは屋内に隠れていれば生き残れる」
部屋の中にいても雨の音が激しく屋根や壁を打つ音が聞こえる。
どう考えても外は大雨だろう。
「できるだけ流されにくい場所に置いてきて。それから」
「うん」
「日が暮れるまでに戻ってきて。それ以上は危ない」
「……うん」
町の中をうろついていると私がシャ毒菌と接触する可能性も上がる。
できるだけ早めに、しかし、広くに納豆をばらまかなければいけない。拡散するための移動手段が湊には必要だった。それが私の自転車だ。
「チャンスは一度切り。失敗すれば、私たちは沼に沈む」
「わかってるわ。あんたはもう休んでなさい。昨日から寝てないんでしょ。ひどい顔よ。こっちは私が必ずなんとかする」
「原理とかは聞かないんだ」
「聞く必要ないわ。聞いてもわからないもの」
レインコートを羽織って外へ出た。
3
私の足は寒さで震えているのだろうか。
それとも疲労で震えているのだろうか。
曖昧な感覚だった。でも、私はやり遂げた。できるだけいろんな場所に納豆を配って、やっと戻ってきた。湊の家に入ると、もう一秒も立っていられない。
地面に吸い寄せられるように私は倒れた。
体の下からぷぎゃと間抜けな鳴き声がした。妙に柔らかいものにぶつかったと思ったら、湊が先に寝転んでいた。彼女も私と同じくらいびしょ濡れだった。
弱々しい力で横に押しのけられる。
「何してるのよ。こんなところで寝たら風邪引くわよ」
「人のこと言えないと思うけど」
「私はいいの。頑張ったから」
「私も頑張った」
「知ってる」
どうせ、湊のことだ。休んでいろと言ったのに、私がいなくなったら納豆をまきに行っていたに違いない。そうでなくてはこんなに濡れる理由がない。
気持ちはわかるけど、頑張りすぎだ。
彼女に寄り添うと体温が伝わってきてほんのり温かかった。
「ねえ、湊」
「ん?」
「私、今度どこか遠くに行きたい」
「どこかって?」
「海とか遊園地とか、楽しそうなとこ。お気に入りのワンピースを着て、精一杯オシャレしていくの。そのときは湊も一緒に行こう」
「いいね。楽しそう」
「湊は何かしたいことないの?」
「……畑、かな」
「畑」
「とっても広い畑を作りたい。そこで大豆を育てて、納豆を作る」
またか。ここにきてまた納豆か。
まあ、それが湊らしいけど。
「見渡すかぎり、ずっと大豆畑が続いているととてもいい。いろんな品種の豆を育てよう。もっと納豆を普及させたい」
「それ、どこでやるのよ」
「砂漠ならいっぱいある。一度、沼になった土地はやがて水分がなくなって砂漠になる。だから、沼を越えればそこら中が砂漠」
「砂漠じゃ畑なんてできないでしょ」
「そこで納豆菌の出番。納豆の粘り気には保水性がある。タレをかけたとき、全部ネバネバが吸収するでしょう。多すぎなければ傾けても液体として流れることはない」
「そういえば、確かに」
「これを応用した樹脂を作れば、砂漠でも植物を育てられるような土地を作ることができる。まだ実用化前の技術だったけれど、父が資料を集めていた。近い将来、砂漠を緑化することは十分可能だと思う。私がやってみせる」
「できたらいいわね」
「うん」
まぶたが重い。
あんまりにも湊の体温が心地よくて、意識がぐらついてきた。
「……ごめん、ちょっと眠い」
「うん」
「風邪引いたら看病してね」
「うん」
「聞いてる?」
「聞いてる」
「ねえ、湊」
「何?」
「おやすみなさい」
「うん、また明日、夢路」
4
目覚める。
私はベッドに寝かされていた。何故か、私は湊のパジャマを着ている。飾りっけのないシンプルなやつで、仄かに納豆の匂いがする。
何があったんだっけと寝起きの頭を回転させ、すぐにすべて思い出した。
一体、町はどうなったんだ。
近くに湊はいない。
布団を跳ね飛ばした私は裸足のまま、外へと出た。
もう日は天高くまで登っている。地面や壁が濡れたような光沢があった。見渡す限りすべてが濁った半透明の物体に覆われている。
まさか、溶けかかっているのだろうか。
これが今にも終わる町の景色なのだろうか。
頭の中が真っ白になる。
「湊……」
無意識に私はその名前をつぶやく。
「私は父の残した強化納豆菌の資料は未完成だと思っていた。DNAの不安定な結びつきと増殖能力の貧弱さはどうにもならない」
近くから声が聞こえた。
「けれど、それはある意味間違いだった。強化納豆菌の不安定な遺伝子こそが父が目的としたものだった。強化納豆菌はそれだけでは完成しない。シャ毒菌とぶつかりその遺伝子の一部を取り込むされる形で完成する。私はその特性を伸ばすように準備し、環境を整えた」
湊はすぐそこにいた。
制服に白衣を羽織り、ふやけた地面の上に立って、町を見渡す。
「一度、夢路には話したと思う。確か、豆の品種改良のとき。私はいくつかの品種改良の方法を教えた。そのひとつに品種をかけ合わせて、新しい品種を作り出す交雑という方法があった。覚えてる?」
「黒豆の納豆食べたときだっけ? でも、交雑って?」
「納豆菌も近いことが可能だった。培養途中の納豆菌に他の菌を混ぜ、キメラのような納豆菌を作り出す。これが、強化納豆菌の真の目的」
私の言ったことが聞こえなかったのか、彼女は興奮気味に話し続ける。
「人とは連続性を持った生き物だ。知識を継承し、発展させることによって次の世代へとつなげる。足りないものは他で補えばいい。良いものがあるなら伝えていけばいい。そのことを夢路と先生は気づかせてくれた。不安定な状態の強化納豆菌はシャ毒菌と接触したことにより、遺伝子を取り込み、新たな菌となった」
湊の言うことはいつもわかりにくい。
頭の中がこんがらがりそうだ。
「もっと短くして」
「強化納豆菌はシャ毒菌を取り込むことによって、分裂速度の問題を解決した。同じ速度で増えるならば、納豆菌は負けない」
「わかったような、まったくわからないような……」
湊がいつもに増して納豆に心酔してることはよくわかるけれど。
しゃがんだ湊の指先が地面に触れる。
「つまり、私たちは賭けに勝ったんだ」
指先が半透明な物体をすくい上げる。長い糸を引き、太陽の光を受けて輝く。それには見覚えがあった。納豆の糸だ。町全体を覆っているのは増えて雨を吸った納豆菌だったらしい。
達成感と安心感が一緒になってやってくる。
私は大きく深呼吸した。やっと生きている実感を得た気がした。
「湊」
「何?」
「安心したら、お腹すいちゃった。朝ごはんしよう」
「うん、いいね」
私と湊が生きている。
今はそれだけで十分だった。
5
電源の入っていない冷蔵庫を開けるとまだたくさんの納豆が残っていた。強化納豆菌のそれではないし、湊はずっと量産していたようだ。まるで、死ぬつもりがない。
食卓に皿を並べる湊を振り返る。
「ねえ、今日はどの納豆を食べよう?」
と、私は尋ねた。
了
納豆少女は匂い立つ 竜田スペア @kuraudo
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