Episode4
1
夏休みも半ばに差し掛かった頃にはもう休日に飽き飽きしていた。
意外なことだが、私は思ったよりも学校が好きだったのかもしれない。言われるままに何かをしていれば余計なことを考えずに済む。没頭するものを見つけられない無趣味な人間に、だらだらと続く休みは過ぎたものだったのだろう。
暇を持て余した私は今日も
インターホンを鳴らすこともなく、靴を脱いで彼女の家に上がる。もはや、その家は私の別荘も同然で、咎める人はないし、私だって遠慮しない。いまや湊の家はどこよりも落ち着ける場所になっていた。
湊はいつも通り奥の研究室にいた。
たくさんのシャーレに納豆を乗せて、それぞれに薬品を垂らしている。
「お邪魔してるわよ」
「うん、おはよう」
顔を上げずに白衣の湊が挨拶を返す。
シャーレの中の納豆はそれぞれ粒の大きさが違う。極々小さいものから大きいものまで様々で、大豆だけではなくいろいろな豆を使っている。中でも黒豆を使った納豆が目を引いた。糸を引いているから納豆には違いないだろうけど、他とは色が違って異様だ。
「今日は何をしてるの?」
「常温での発酵の時間と強化納豆菌の量の関係を使用する豆で比べてる。どれだけの速度で増えるか、どの豆を使うのがいいかを割り出したい」
どうもこの強化した納豆菌はシャ毒菌を食べて増殖するらしい。
普通の納豆菌の栄養源はタンパク質だ。特に大豆と相性が良く、適正な温度であれば一晩で納豆ができあがる。その納豆菌を変化させて、シャ毒菌を捕食するように変化させたのが強化納豆菌なのだと湊は言っていた。
シャ毒菌の分泌液はとても強いアルカリ性を示す。
人間にとって、いや、多くの生物にとって強アルカリは危険だ。もし、非常に強力なアルカリ性の液体が体にかかれば、皮膚はただれ、内側へと浸透し、やがては骨だけにしてしまう。
その危険な強アルカリにも納豆菌は強い。
以前、実験を見せて貰ったことがある。シャ毒菌を想定したアルカリ性の液体に強化納豆菌の付着した納豆を入れると、豆は溶けてなくなるが、液体は粘度を増す。納豆菌は液体の中でも生き残るのである。
「今のままではどうしてもシャ毒菌の増殖に納豆菌が追いつかない。このままではたとえ強化納豆菌が機能しても、その間にシャ毒菌はもっと増える。納豆菌は空気に触れなければ増加しないから、埋もれてしまうと意味がない」
「それは困るわねえ」
「おそらく、まだ強化納豆菌は未完成なのだと思う」
湊は目を細めて試験管を揺らす。
「父の研究資料の後半の部分は持ち去られていて存在しない。私が再現できたのはメモとして残っていたところまでで、まだ強化納豆菌のDNAは安定しない。何か、何かもうひとつ、必要なものがあるはず」
「もうひとつ、ね」
「それが何かわからない限り、また失敗する」
私はわかった振りをして神妙に頷いてみせた。
それからしばらく湊の隣で作業を見ていたが、彼女のやることは単調で飽きてくる。研究が佳境で相手にされないのは予想はできていたので家から持ってきた文庫本を開く。短編を三つほど読み終えても湊はずっと納豆をいじることに没頭していた。
「ね、ね」
「何?」
「これ、食べられるの?」
糸を引いた黒豆を指さす。
見るからに真っ黒で私の知る納豆とは全然違う。
「大丈夫。今日はお昼これ食べる?」
「え、いいの?」
「もちろん。黒豆だといつもの大豆の納豆とはまた違う味がする。私はわさび醤油で食べるのがいいと思う。黒豆は味が濃いから、さっぱり食べるのがいい」
するすると解説が出てくる。
黒豆の納豆もサイズが様々だ。茶色い大豆の納豆よりは少ないが、それでも三種類ほどがシャーレに分けられている。いつもは甘く煮たものしか食べないだけに、納豆にするとどんな味になっているのか非常に気になる。
「豆もいろいろあるのね。黒豆だけでもこんなに色んなサイズがあるなんて知らなかった」
「品種改良の成果だね」
壁掛け時計を確認した湊は装置を片付け始める。
すでに昼近くだった。
「人間はより良い種だけを選んで栽培したり、品種をかけあわせたり、あるいは、薬品で突然変異を起こしたりして新しい品種を生み出してきた。この中には納豆のためだけに作られた品種もある」
「へえ、納豆のためだけに品種改良って、他にも湊みたいな人がいるんだ」
「当然。納豆は文化。私も納豆のためにできる限りのことをする。早く研究を完成させないといけない。残された時間はあまりにも少ない」
自身に言い聞かせるように湊は言った。
そうやって焦る湊を見るたび、胸の奥の方がざわついて落ち着かなくなる。私は居ても立っても居られなくなって、席を立った。
「ご飯の準備してくるね」
「うん、お願い」
2
八月末、電気が止まった。
3
夏休み明け、初めての登校日。
流れる汗をぬぐいながら、まだまだ青いイチョウ並木の坂を登る。残暑が厳しい日が続いていたが、朝はまだマシだ。エアコンが使えなくなってしまったから、余計に暑さに対して意識するようになっていた。
校門を過ぎたあたりで、学校の雰囲気が夏休み前と違うことに気づく。知らない大人たちが学校の中を歩き回っていた。
イベントでも企画されているのだろうか。
まあ、なんだろうと私には関係ない。
私はさっさと教室に行って、クラスメイトたちと久しぶりの再会を喜んだ。皆はしっかり夏休みを楽しんだようで、肌の色が黒くなっている。
湊は登校していなかった。
「最近は毎日川で泳いでたなあ。エアコン止まってたしね。あとは花火でしょ、カラオケでしょ。ああ、カラオケって言っても、機械なしで勝手に歌ってただけなんだけど」
鈴谷が指を折りながら夏休みの思い出を語る。
私は頬杖をついてその話を聞いていた。
「ねえ、ユメは何してた?」
「ずっとみな、こほん、水戸さんちで納豆食べてた」
「どこも行かなかったの? 夏休みの間中ずっと?」
「行こうと思ったけど、動くの暑いじゃない。楽しいのとは違うけど、水戸さんちにいると落ち着くんだよね。こう、ずっと浸っていたくなるっているか」
「それ、すごくおばさんっぽい。むしろ、お婆さん?」
「うるさい。だいたい自転車が壊れてるのが悪い。遠出する気も起きないわよ。ねえ、直せる人知らない? これからも使いたいんだけど、もう自転車屋ってどこも閉めてるでしょ」
「うーん、私の周りにはいないかなあ」
「やっぱり?」
「一応、知り合いに聞いてみよっか?」
「お願い」
大きな鐘の音が鳴る。
きっとチャイムの代わりだろう。時間も始業と一致する。すぐに先生もやってきたので、私たちは蜘蛛の子のように散って、自分たちの席に座った。
先生は教壇に立つと出席簿を片手に挨拶を始める。
「みんな、久しぶり。元気にしてたかな。夏休みだからって自堕落な生活をしていた人もいたかもしれないけれど、多くの人が遅刻欠席せずに出席できているのは素晴らしいと思う。これからも生活のリズムを守って……守って……」
言葉が途切れる。
思いつめた表情で先生は首を左右に振って、クラスを右から左まで見渡した。
「皆に言わなければならないことがある」
少しだけクラスがざわめく。
「今日をもってこの学校を閉校する。閉校と言っても出入りは自由に行っても構わない。ただし、授業や部活動はなし。各自で使いたい施設があれば、職員室にいる私か他の先生のところに来なさい。家庭科室でも音楽室でも好きに使用していいよ」
それが何を意味するのか。私にはすぐわかった。認めたくない気持ちと暗い確信がせめぎあい、混ざって心の中身をぐちゃぐちゃにかき乱す。
私は居ても立ってもいられずに立ち上がった。
「先生」
「なんだい、高垣」
「再開の予定はないんですか」
「ないよ」
返答には一瞬の迷いもなかった。
ついにそのときが来たのだなと思った。
「町は滅びるんですか?」
「滅びる、か。まあ、そのうちそういうこともあると思うけど」
「学校に知らない人がたくさん来ていました。あの人たちは郊外の、きっともうすぐ細菌に飲まれる地域から移動してきた人たちなんでしょう。どんどんと沼が迫ってきていて、住処を追われた人がこの町に避難しているんです」
「高垣、その話は後にしよう。他の生徒もいる」
「……はい」
先生の制止がかかっても、頭の中までは止まれない。
最初にそんな気がしたのは食料の配給について聞いたときだった。そのときはもしかしたらくらいの気持ちだった。でも、今なら確信できる。滅びの日に合わせて分配されてるんですよね。近いうちに滅ぶのがわかっているから、全部バラまいていたんだ。あるものは使いきらないともったいないんだから、誰だってそうする。
先生は何も言わず、申し訳なさそうに私を見ていた。
「ねえ、先生。一年後ですか。半年後ですか。それとも、一ヶ月? 私たちはいつまで生きられるんですか。先生、答えて下さい」
ずっと先だと思っていた。
学校へ行って、友達と遊んで、湊と納豆を作ったり食べたりするような何でもない日常がずっと続くと思っていた。このくだらなくて退屈な世界が、せめて私が大人になるくらいまで続くと、何の根拠もないのに漠然と思っていたんだ。
失われると気づいて、初めて日常の愛おしさに気づいてしまう。
「大人はずるいです。もう自分たちは終わるからって、私たちも巻き添えにして終わらせるんですか。あるかもしれないこれからを無視して何もかも消費して……私たちが子供だからって何も伝えず、何も選ばせず、私たちの幸せを守ったつもりですか。それが大人のやり方ですか」
「高垣……」
きっと先生は悪くない。それがこの町の普通だったし、私も以前は何もなすことなく朽ちるように滅ぶことを受け入れていたはずだった。なのに、今はそれが許せない。
ここにいても口から出るのは意味のない八つ当たりだけだと思った。
「帰ります。今までありがとうございました」
私はバッグをつかみ、教室を出た。
「ユメ!」
後ろから鈴谷の声がした。無視した。
走る。後ろも見ず、息が切れてもひたすら走った。
走りながら、町の外を見た。
沼がすぐそこまで迫っている。
忌々しい黒。
思っていたよりずっと近かった。
どうして気づかなかったのだろう。
どうして気づかないふりをしていたのだろう。
私はダメだ。ダメ人間だ。テストの前日になって初めて机に向かうような劣等生だ。
それが付け焼き刃のような努力であっても、倒れるときは最後の一瞬まで力を振り絞りたくなってしまった。
今になって思う。
私は心のどこかでいずれ来る未来を、滅びを否定して欲しかったんだ。だから、決してあきらめないあの子と一緒にいて満たされたような気がしていた。そばにいることで自分は他の誰とも違って、まだ湊の側だって思っていたかっただけなんだって。
止まらない足は自然に彼女の家へと向かっていた。
「湊!」
乱暴に扉を開ける。
制服を着た湊が玄関にいた。今から学校に行くつもりだったか。
勢いに任せて、飛びついた。
湊は目を白黒させる。
「……夢路?」
「納豆菌、完成させよう。私も手伝うから。いっぱいいっぱい、協力する。だから」
「わかってる」
彼女はゆっくりと頷いた。
「最初から、やめるつもりで始めたりしない」
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