Episode5
1
湊の最初の挑戦は失敗した。
私たちは丸一日かけて、黒いモヤの方へ向かった。町を出て、ひたすら歩き通した。
目的地の方を見ると、いつの間にかシャ毒菌に呑み込まれた山が縮んでいた。溶けかけたアイスクリームみたいにどろっとした物体が垂れて崩れている。このまま腐敗が進めば、いずれ真っ平らな沼になるだろう。
シャ毒菌の前線の五十メール手前まで近づくと、湊はロケット花火に小袋を付けて、その中に半パックほどの納豆を入れた。同じものを十は作った。
それを山に向けて火を付ける。
すると、ロケット花火は勢い良く飛んでいって、まだうっすらと地表の見える沼の中へと落ちた。持ってきたロケット花火の数だけ繰り返す。
こうして、シャ毒菌の中に強化納豆菌が紛れ込む。
私たちは帰り、町の中から結果を見守った。
十日経っても沼に変化はなかった。
その後に行った二回目、三回目の遠征もダメだった。
いまや湊の研究には、どこにも青空が見えないほどの暗雲が立ち込めていた。
2
町の皆は徐々に避難を始めた。
元々人の住んでいた場所ではなく、山の上に逃げるらしい。
しかし、そんな生活がいつまで持つのだろう。次の場所ではまともな生活は望めない。電気も水もなく、わずかに残ったオイルの火で冬の寒さをしのぐことになる。
沼の恐怖におびえながら神経をすり減らしていくなんて私には耐えられそうになかった。あるいは、すべてをあきらめて、終末を受け入れれば楽になれるんだろうか。
「あともう少し、もう少しのはずなのに……時間が、足りない」
うわ言のように湊がつぶやく。
彼女はずっと研究室でデスクに向かっていた。
もう湊には以前のような美しさは見る影もなかった。目の下には真っ黒なクマが、つきたてのモチのようだった肌は荒れ果ててしまった。数日も洗わないでいた服はシワだらけで、清潔感すらも失われている。
三日来なかっただけでこれだ。
このまま放っておけば、きっと倒れてしまう。
「そんなに根を詰め過ぎてもいい結果は出ないわよ。少し休みなさい。睡眠も食事もろくに摂っていないでしょう」
私はデスクに湯気の立つ椀を置いた。
「ほら、これ作ったから飲みなさい。少しは何か食べないとダメ」
「夢路。来てたんだ」
顔を上げた湊は幻でも見たような顔をしていた。
料理する前に一度、声をかけたけど、気づいていなかったようだ。
「家の片付けは済んだの?」
「うん。大したものはないしね」
「ふうん」
これから湊の家も掃除するつもりだが、こちらの方がよっぽど大変そうだ。
そこら中ホコリだらけだし、ゴミ捨てもろくにやってない。まとめて洗濯もするとなると、結構な大仕事になるだろう。
さっき渡した椀を両手で持ち、ふうと息を吐きかける湊。
「納豆汁だ」
だし汁で溶いた味噌に納豆とネギを入れたシンプルなものだった。
もう新鮮な食材はほとんど手に入らない。秋の野菜が少しだけ採れるけど、私たちに回ってくるほどの量はなかった。
その代わり湊の家には納豆がたくさんある。湊は納豆大好きだし、元々主食のようなものだった。保存食に手を付けずにできるものだと、これくらいがちょうどいいと思う。
「納豆汁なんて何ヶ月ぶりだろ」
湊はぼうっとした顔で納豆汁をすする。
「あつっ」
「もう。もっと注意して食べなさいよ」
「……気を付ける」
「どう? 食べられそう?」
「大丈夫。そういえばいつも納豆関係は私が料理してたけど、夢路は初めてかな。シンプルだけどおいしいね。体が温まるよ」
「味噌とだしと納豆の味よ。大したことはしてないわ」
「それでもおいしい」
少しだけ彼女の顔に生気が戻った気がした。
「納豆汁は祖母の好物だったんだ。祖母が作る納豆汁はもっと具材がいろいろ入ってて、納豆はひき割りだった。少しだけ一味を振って食べるんだ。こういうシンプルですっきりしたのも良いけど、祖母の納豆汁はいろんな味が混ざって、コクが出て、とてもおいしかった」
昔を懐かしむように目を細めた。
湊の両親の話を聞いたときも仲がいいと思ったけど、家族仲がいいのは血筋のようだ。昨日も母と避難するしないでケンカしていた私とは大違いだ。
「この家の元々の持ち主は祖母なんだ。古く見えないのはリフォームしたから。シャ毒菌の拡散で移り住んだのをきっかけに研究室を作ったり、二階を増設したりした。納豆でいうなら不相応なくらい豪華な薬味を足したようなものかな」
「ごめん、そのたとえはよくわかんない」
「元の建物と継ぎ足した部分、どっちがメインかわからないってこと」
「なるほど」
「父と母がいなくなった後に私の面倒を見てくれたのは祖母なんだよ。こんな広い家に私とふたりじゃ広すぎるっていつもぼやいてた。私より大豆に詳しくて、よく動く人だった。庭いじりが趣味でね。今は雑草だらけだけど、家の裏はネギだけじゃなくて大豆を自家栽培してたんだ。たまにそれで豆腐や納豆を作った。見渡すかぎりの大豆畑を作りたいっていつも言ってた」
「元気な人だったのね」
「うん。でも、あるとき、病気になって手術をしたんだ。完治はしたけれど、定期的な投薬が必要になって、その薬にはひとつだけ許せない問題があった」
「……どんな問題なの?」
納豆汁を見つめたまま湊が答える。
「納豆を食べると効果がなくなる」
普通の人からすれば何も重大なことではない。納豆を食べられなくなっても大体の人は困らないし、ちょっと残念に思うくらいだ。
けれど、湊は違う。
彼女は家族ぐるみで納豆を作り続け、食べ続けてきた。父親の研究のこともある。湊にとって納豆は他人には理解しがたいほど大切なものだ。
「私はその薬のことが私は未だに忘れられない。納豆は栄養価が高く、免疫力もつく最高の健康食品だってずっと両親は言っていた。けど、この世に万能なものなんてなかった。納豆ですら及ばないところがあるなんて幼い頃の私は思ってもみなかったんだ」
「湊……」
今にも消えてしまいそうなほど、湊が儚く見えた。
「少し寝る。納豆汁、ありがと」
湊は残っていた納豆汁を一気に飲み干した。
空になった椀をデスクに置いて、湊は研究室を出て行った。
3
ずっとふたりで研究室にこもっていた。
日に日に湊の口数は減り、食事のときくらいにしか何も喋らなくなっていた。睡眠と食事は無理やり取らせているけれど、心労まではどうにもできない。今にも壊れそうになりながらも湊は戦う。私はただ影のように彼女を支えるしかなかった。
「沼が近い」
ある日、湊が研究中に口を開いた。
「大きな雨でも来れば、もう町は持たない」
「そうね」
もう町の人はほとんど移動して、残っていない。
私も母さんに最後まで一緒に行くようにと言ったが、突っぱね、最後にはケンカ別れして家を出た。以来、ずっと湊の家に厄介になっている。最後の挨拶に来た鈴谷から避難したと聞いたから、もう母さんの顔を見ることもないだろう。
「どうしても最後のピースが埋まらないの」
湊はじっと、耐えるようにうつむいていた。
「不完全な納豆菌、メモの空白、足りない時間、そもそも物量が……答えが見えない。ダメ。これじゃあ、きっと強化納豆菌は完成しない。だから……」
「だから、私にあんたを置いて逃げろって言うの?」
「……うん」
懇願するような目で私を見た。
「私はここに残って最後まで研究を続ける。もしかしたら、それは上手くいって私は納豆菌を完成させるかもしれない。でも、町を救うことはできないだろう。シャ毒菌の規模はあまりに巨大だ。効力を発揮する頃には町はすべて溶けてしまう。本来、夢路は関係ない。まだ家族もいる。だから、山に行って。生き延びて。お願い、夢路」
「……嫌よ」
「ここにいたら死ぬんだよ!」
「バカ! アホ! 納豆! 納豆バカ!」
気づいたら、大声で叫んでいた。
呆気にとられた表情で湊が固まっていた。
「なんであんたはそう自分勝手なのよ! 自分のことで勝手にやるのはいいわよ! でも、私にまで押し付けるな、バカ! 私はあんたが、水戸湊が納豆菌で世界を救うところを見に来てんのよ! これまでだって、これからだって納豆で世界を救うバカなんているわけがないじゃない! その世紀の瞬間を見逃せって、あり得ないでしょうが! この期に及んでひるんでどうすんのよ、バカ! 脳みそ腐ってるのか!」
何故、私は怒っているんだろう。とにかく、怒らなきゃいけない気がした。
他の誰も怒らないなら、きっと湊があきらめてしまう。それだけは許せない。私は私にかすかな希望を与えて、投げ出してしまう湊が許せないんだ。
そこまで考えると、私もすごく自分勝手な気がしてきた。
もうすぐ私の身も危ないこともわかるし、湊が私のことを思って言ってくれるのもわかる。わかるから、このどうにもならない世界がすごくもどかしい。
「ごめん。ちょっと言い過ぎた。でも、私は行くつもりないから。湊の研究が成功するのをこの目で見たいっていうのは本当だから」
「……それは、不可能」
「なんで!」
「遠征では十分な設備はなく、納豆を広範囲にばらまくのも難しい。それが町なら私の家があり、道路も整備されている。シャ毒菌と雌雄を決するなら、町の中以外あり得ない。けれど、準備した人間は助からないだろう」
「ねえ、それって……どういうこと?」
「成功しても、私は死ぬ」
言葉に詰まった。
嘘だと言い返せない。何故なら、湊の両親の死が先にある。両親もきっと近い方法を考えたのだと思った。彼らが資料を残したなら、湊も同じ考えに行き着くのは当然のことだ。そして、湊には協力者もないし、物資もない。逃げきることなど最初から頭にないのだろう。
うまくいけば、結果は変わるのかもしれない。
しかし、その世界にはもう、湊はいない。そして、私がここに残れば私も死ぬ。湊は私を道連れにすることを望んではいない。何が最善か、私にはわからなかった。
気まずい沈黙が研究室に漂う。
このまま、ずっと時が止まってしまうかのように思えた頃、ふと玄関の扉を叩く音がした。拍子が規則正しく、几帳面な印象を受ける。
湊が席を立つ。
「……出てくるね」
「うん」
私はひとり、部屋に取り残された。
ひとりになっても考えはまとまらない。自分の小ささが嫌になる。
少しでも彼女の研究について学んでみれば良かった。私がもし、役に立つことができたなら、少しは何かが変わったかもしれない。
けれど、もう全部遅い。私の短い人生は後悔ばかりだ。
「夢路、来て。お客さんが来てる」
湊が玄関から私を呼ぶ。
「私に? 誰?」
「先生」
「なんで先生が来るのよ」
玄関に行くと、本当に先生がいた。少し痩せた気がするけど、学校で教科のほとんどを教えてくれた私たちの学級担任の先生に間違いない。
先生は片手で古びたバッグを持ったまま、もう一方の手を上げてにこやかに挨拶した。
「おはよう、高垣さん」
「避難しなくていいんですか。沼に巻き込まれますよ」
無意識に攻撃的な口調になっていた。
ダメだってわかってるのに感情が上手くコントロールできない。
「高垣さんはどうなのかな。お母さんや鈴谷さんも心配していたけど」
「私は」
湊を見る。不安げな表情。
やはり答えは変えられない。
「ここに残ります。何を言っても無駄ですから」
「うん、思ったより元気そうで良かったよ」
にこりと笑い、目を細める。
そして、バッグを見せつけるように持ち上げた。
「クラスの子に聞いた。自転車の修理の仕方を知りたいんでしょう。ここに道具がある。私が教えるよ。こう見えても子供の頃は自転車っ子だったからね」
確かにずっと前、鈴谷にそんなことを言った気がする。
「今更、自転車なんて……」
「そうだね。随分と遅くなってしまった」
先生はずっと遠くを見るように目をしていた。
「必要ないなら帰るよ。けどね、私は教え子に教えられることがあるなら、最後まで教えたいんだ。たとえ、教えることに意味がないと言われてもね」
「真面目なんですね」
「もう変われないんだよ。自分を変えるには私は年を取り過ぎた。変わろうとするとすごくエネルギーが要るだろ。このままでは朽ちるとわかっていても、朽ちていくのが楽なんだ。私じゃ変化の痛みにもう耐えられない。堕落するだけなら楽なんだけどね」
「よく……わかりません」
「大したことじゃない。私は教師になってから死ぬまで教師ってだけだよ。もしも、まだ私を教師と認めてくれるなら、最後の授業を受けてはくれないかな」
「先生は私たちを連れて行くために来たんじゃないんですか?」
「私の生徒が危険なことをするのは心配だけど、君たちが選んだ道なら仕方ない。あとはできる限りの範囲で自分の仕事をするだけだ。ふたりと心中するつもりもないけどね」
先生も私と同じでずっと平和な日常が続く世界を求めていたのだろう。
もう私以外の誰もシャ毒菌を退けられると思ってないし、湊が成功すると信じていない。
きっと自分の役割を演じて生きることでしか日常を確かめられないんだ。私が湊に依存しているように先生は仕事に没頭することで正気を保っている。
私が言えたことではないが、いびつな生き方だ。
「腐敗……変化……もしかして」
突然、何事かをつぶやいていた湊が振り返った。
「夢路」
「……何よ」
「自転車、直そう」
両肩が強い力でつかまれる。
「ひとつ、思いついたことがある」
「もしかして、強化納豆菌に関すること?」
湊は力強く頷いた。
「最後の賭けだ」
「それは、ふたりとも生き延びられる方法なのね」
「うん」
自信と好奇心に満ちた目だった。
出会ってすぐの頃のような情熱が彼女からあふれている。
「バカ。私は最初から死んだって逃げるつもりないわよ」
「自転車はお願い。私は研究室に戻る」
「はいはい。こっちは任せなさい」
私は先生と自転車を取りに自宅に向かった。
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