Episode3

 1


 夏休みは遠出して遊びたいこともあって、私は自転車を修理しようと思い立った。自転車は前にチェーンが切れてからそのままだった。学校までは徒歩で十五分くらい。なくても通学はできるけど、あればずっと楽になる。

 チェーン以外は無事だからもっと使ってやりたかった。それに帰ったときにガレージを覗くと恨みがましいような目で見られている気がして忍びない。

 私はガレージで工具箱を開いた。

 昔、祖父が使っていたものらしい。バールやニッパーなんかはわかるけど、使い方のわからないものだらけだ。どれが自転車を直すのに使う道具なののだろう。そもそも工具箱に自転車の修理用の道具が入ってるものなんだろうか。

 改めて物置を漁ってみても、自転車関係とはっきりわかるのは空気入れとかパンク修理キットばかりでチェーンを直すのに使いそうなものは見当たらなかった。少なくとも、そういう文字は見かけてない。

 近くに自転車屋があれば良かったけど、店の人は遠くに行ってしまっていて、スプレーで落書きされたシャッターが閉まったままだ。

 とりあえず、わからないなりに自転車をいじってみたが、手と服が汚れるばかりで修復の見込みは立たなかった。

 一度、本屋か図書館で自転車の本を借りた方がいいのかもしれない。

 インターネットが使えなくなって以来、情報を得るのも一苦労だ。もっとも、私はパソコンもスマートフォンも使ったことがない世代なのだけど。

 暗くなってきたので、あきらめてシャワーを浴びようと思った。服を脱いで風呂場で蛇口を捻る。しかし、一向にシャワーヘッドからお湯が出てこない。以前より勢いが弱くなった冷たい水がちょろちょろと流れるだけだ。

 あれ、と思って確認するが、ちゃんと赤い方の取っ手を捻っている。

 風呂場から顔だけ出して声を上げる。

「母さーん」

「なにー?」

「お湯出ないんだけど」

「電力制限でしょ。今週から夜間は使用禁止よ。水も制限があるからあんまり使いすぎちゃダメ。ゆっくり浸かりたかったら川に行きなさい」

 シャンプーには温かい方がいいんだけどな。

 しかし、出ないなら仕方がない。気温は暑いくらいだし、自転車をいじって火照った体を冷やすには水を浴びるのも悪くはない。

 私はささっと水で体の汚れを流れ落とす。

 シャワーから上がると、蝋燭の灯りにカセットコンロを使って母が鼻歌交じりで料理をしていた。珍しく生の肉がある。いつもは缶詰や干物なので、肉を焼いているのは久しぶりだ。

 匂いを嗅ぐと空腹を意識してしまう。

「今日は鶏肉?」

「ええ。この前、養鶏場を閉めたからそれで配給があったのよ。卵用の雌鳥だから、硬いかもしれないけど、新鮮なお肉を食べられる機会はもうしばらくはないわよ」

「え? じゃあ、卵はこれからどうなるの?」

「今までよりは出回らないでしょうね」

「そんな」

 養鶏場が閉鎖するのは初耳だった。

 卵はいろんな料理に関わる必需品だ。私たちの食事の質はずるずると下がってしまうだろう。ただでさえ少ない楽しみが、また減る。そう考えただけで気持ちが沈んだ。

「それ、どうするのよ」

「他にもいくつか養鶏場はあるから大丈夫よ。今日も卵も貰ってきたのよ。それでさっきまで近所の人たちとケーキを焼いていたの。もう砂糖や小麦粉も少ないし、母さん頑張ったわ。夕飯の後に頂きましょう」

「ケーキって……好きだけど、後で困らない?」

「後っていつよ」

「そのうち砂糖とか小麦粉を使う料理を作りたくなったとき」

「そんなのいつになるかわからないじゃない。使えるときに使っておくのが一番よ。人の命は限りがあるんだから、出し惜しみはもったないわ」

 何かが致命的にズレているような気がした。

 私は無理やり話題を変える。

「母さん、自転車って修理できない? チェーン切れたんだけど」

「前にもそんなこと言ってたわね。あんまり使う時間も残ってないでしょうし、別になくてもいいじゃない。しばらくなくても大丈夫だったんでしょ」

「そんな……」

「ああもう、そんな顔しないでよ。一応、ご近所さんに使ってない自転車がないか聞いてみるわ。それでいいでしょう。壊れたのはどこかに捨ててきなさい」

 やっぱり話は噛み合わない。

 私は一度も新しい自転車が欲しいとは言ってない。ただ、自転車を直したいと言ったのに、当たり前のように代用品を用意しようと言う母さんへの違和感がこみ上げてくる。私と母さんじゃ、町が滅びると想定してる時期がかなりズレている気がした。

「新しいのじゃなくてもいいんだけど」

「そう? 多分、無理して直さなくても変わりを見つけた方が早いわよ?」

「……そうね。でも、どこにも余ってないかもしれないから、直し方知ってる人がいたら教えて欲しいの。それくらいはいいでしょ」

「構わないけど、変なこと言うのね」

 そう言って珍しい生き物でも見つけたような目で私を見た。

 母さんは変わってしまった。いや、母さんだけじゃない。遠くにあった黒いモヤが近づくたびにクラスメイトも母さんの友達も、養鶏場の人だって刹那的になっている。一瞬の快楽のためにわずかな未来を食い尽くしている。

 モノはもう新しく造られないのだから、いずれ足りなくなるだろう。

 電気も水も、ありとあらゆるなにもかもがだんだんと少なくなっている。きっと近いうちに生きるのに必要なものが枯渇する日が来る。

 はたして、それは沼が町を飲み込むのとどちらが早いのだろう。

 私は先の見えない未来に押し潰されていくような気がして、息苦しかった。





 2


「じゃあね」

「うん、またね」

 鈴谷たちと話を打ち切って水戸の横に並び、イチョウ並木の坂を下っていく。

 校門を出てすぐの並木道は秋になると木々と道が黄金色に覆われてそれは綺麗なのだそうだ。しかし、まだ葉は青々と茂っている。その光景を目にするにはあと数ヶ月かかるだろう。

「むぅ」

「どうしたの? そんな顔して」

 帰り道を歩く水戸は眉の間にシワを寄せ、難しい顔をしていた。

 そんな顔も絵になるのだから美人はずるい。

「いえ、何でもないです。気にしないで下さい」

「気になるわよ。言いなさいよ」

 問い詰めるように見つめると、水戸がため息をついて口を開いた。

「はあ……。ただ、高垣さんは友達が多いなと思っただけです。私なんかといていいんですか。さっきも誘われたんじゃないんですか」

「大丈夫大丈夫。たまに向こうでも遊んでるし」

 水戸が学校に来る日はそう多くない。

 三日に一度くらいで、残りは納豆を作ったり、研究してたりするらしい。

「水戸さんももっと友達作ればいいじゃない」

「意地の悪いことを言いますね。人類との対話ほど苦手なことは他にありません。こんな納豆狂いと友達付き合いしてくれる変人は高垣さんくらいですよ」

 納豆狂いの自覚あったんだ。

「……ちょっと待って。私、変人なの?」

「自覚ないんですか?」

 どうなんだろう。

 水戸を変人とすれば、それと友達やってる私もやっぱり変人なんだろうか。

 最近は水戸といると家にいるよりも落ち着くし、からかっていろんな反応を引き出すのが楽しい。母さんのことで思うところはあるにしても、一緒にいると友達と遊ぶのとは違った安らぐような時間が過ごせるのは間違いない。

「とにかく、私は納豆のことで忙しいのでこのくらいがちょうどいいのです。だから、高垣さん。これからも納豆食べに来てくださいね」

 別のことに頭を使っていた私は深く考えることなく頷いた。





 3


 水戸の家に着くと玄関の前に小さなダンボールがたくさん積み上げてあった。

「なにこれ?」

 水戸は雑な手つきで箱を開け、中を確認すると苦虫でも噛み潰したような顔になった。

 なんだろう、と私も覗き込んでみる。

 中身はパックに入った山程の納豆だった。一体、誰が納豆を水戸に送りつけたのだろう。ここには文字通り腐るほど納豆がある。配給にしたってこれは多すぎる。

「私が贈ったものなんですけど、まとめて送り返されたようですね」

 理解の追いついていない私を見かねたように水戸は言った。

「送り返されたって、なんで?」

 パックをひとつ手に取ってみる。

 私がかつて作業を手伝ったのと同じパックだった。中身はもちろん納豆で、配給されたって返品されるわけがないと自信を持っていえる出来だ。

「いつもこれを配って町の人たちに研究に協力して欲しいとお願いしてたんです。ずっと断られてましたけど。最初は会ってくれた人も次第に私を避けるようになったので、仕方なく手紙と納豆を贈るようにしました。けれど、それも無意味だったようですね」

 受け取りすらしない。

 明確な拒絶だ。

「なんで……?」

「まだ人類がシャ毒菌と戦っていた頃の話です。当時、父のプロジェクトは陸の孤島のようなこの地に残された最後の希望でした。残った物資と人員をかき集めて研究が進められたと聞きます。けれど、知っての通り、父は失敗。強化納豆菌は完成しませんでした。町はいまだにシャ毒菌の脅威にさらされ、生きる場所を制限されています。膨大な投資をただ浪費しただけ。それが私の父に対する大人たちの評価です」

「でも、それは親のことで水戸さんとは関係ないじゃない」

「カエルの子はカエルですよ。現に私は父の遺志を継ぐつもりですからね。まだこの歳ですし、父にできなかったことを私にできるわけがないと思う気持ちもわかるでしょう?」

 自嘲気味に水戸が笑う。

「両親が死んだときの遠征でたくさんの人が巻き添えになりました。多分、この町に家族がいた人もいたでしょう。こういうのは理屈じゃないんですよ。それに……いや、これ以上はやめておきましょう。納豆がまずくなります」

 巨額の富をつぎ込んで失敗した水戸の両親。

 それを思い出させるように研究を続ける水戸。

 私はこの町に漂う息の詰まるような停滞感の理由がわかった気がした。

 大人たちは大きな失敗を経て、来たる終末を受け入れたんだ。あまりにも強大な絶望に敗北して、もう立ち上がれなくなってしまったんだ。

「……中に入りましょう。この納豆をどうにかしないといけません」

 私がひとつ、水戸がふたつのダンボールを抱えて、納豆用のキッチンまで運ぶ。隅に空っぽの冷凍庫を開けて次々に納豆を放り込む。

「冷凍して大丈夫なの?」

「氷点下でも納豆菌は生き残りますよ」

 なんでも、納豆は冷凍すると殻(?)にこもって休眠するらしい。また温度が上がると起き上がって発酵を始めるとか。納豆菌すごい。

 私はさっきの話について考えながら、水戸を手伝った。

 冷凍庫の余った隙間にいっぱいまで水を入れたペットボトルを詰めて、スイッチを入れる。夜間は電力制限で動かないけれど、開け閉めしなければ冷気は漏れない。一度凍らせればこのままでも数ヶ月は持つとのことだ。

「じゃ、納豆にしましょうか」

 そして、何事もなかったかのように普通の冷蔵庫から準備していたらしい納豆と薬味を取り出す。私はまだもやもやした気分だったけれど、もう彼女のは切り替えていた。

「今日はよく発酵させたひき割り納豆です。しらすに生卵、擦った山芋を付けて匂いと粘りの強い組み合わせにしてみました。人を選びますが相性ばっちりです」

 今度こそは自信があると言わんばかりの顔だ。

 この娘は本当に強いなと思った。

 子供の頃に親を失ってから、ずっとひとりだった彼女には味方と呼べる存在はいなかったのだろう。父親の失敗で不興を買った水戸の幼少期を想像すると胸がちくちくと痛む。その痛みを乗り越え、まだあきらめない水戸がまぶしく見えた。

 もう子供のような意地を張るのはやめだ。

 私は白米と一緒に納豆を食べ、素直な感想を口にする。

「おいしい」

 水戸が信じられないと言わんばかりに目を見張る。

「今、なんて」

「おいしいって言ったの。卵ととろろがどろっとして納豆が粘ってして口に入れただけで胸いっぱいにきっつい匂いが押し寄せてくる。やっぱり、癖のある味と匂いがあってこそ納豆よ。しらすもちょっと生臭いけど、いい感じでアクセントになってる気がするし」

「おいしそうに聞こえないんですけど」

「とにかく! 私はこれが一番好き!」

 真実であると伝えるように一心不乱に茶碗の納豆ご飯をかき込んだ。

 その間、水戸はにやける顔を両手で隠しつつ、ずっと私が食べているところを見ていた。それも一分足らずのことで、私はすぐに完食してしまう。

「どうでしたか?」

「おいしかったって言ってるでしょ」

 笑みを抑えようとしているが、やはり抑えきれていない。頬が引きつっている。

「ありがとうございます」

「なんであんたが礼を言うのよ」

「なんとなく、そういう気分だったものですから」

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