Episode2

 1


 最初に水戸の家を訪れて以来、私は数日おきに納豆を食べに行くようになった。納豆を食べに行く日だけは水戸も学校に登校してくる。

 相変わらず、水戸は昼も納豆を食べているし、私以外の人とはほとんど喋らない。一部のクラスメイトとは仲良くはなっているようにも見えるが、私に納豆を食べさせたときほどの強引さはなかった。

 放課後になると私のところまで来て、ひかえめに服を引っ張って家に誘う。

 私にだけなついた猫みたいで、ちょっと面白い。

 何度か家を訪れたときに気づいたのだけれど、水戸はどうしても私に『おいしい』と言わせたいようだった。それに気づいてしまうと、悪戯心がざわめいて、どんなにおいしい納豆を食べても絶対言ってやらないぞ、なんて気持ちになってしまう。

 そして、七月。

 初めての水泳の授業の日も水戸が登校していた。

 授業では近くの川で泳いだ。もう水も貴重になっているようだった。プールを使って水不足になるのもバカらしいし、エアコンを付ける余裕もない。その点、町の近くの川では一年中綺麗で冷たい水が無料で流れている。これを使わない手はない。

 水戸は泳ぐのはあまり上手くなかった。

 ひとりだけ流されそうになっていたので、先生が付きっきりで泳ぎを見ている。

「ねえ、ユメ」

 水から上がると、クラスメイトの鈴谷が私を呼んだ。

 鈴谷とは中学からの付き合いで、私をユメと短い愛称で呼ぶ。逆に私は彼女のことをスズと呼んだ。

「今日、遊びに行かない?」

「遊びってどこに?」

「知り合いがライブやるんだって。公民館のホールで」

「ライブかあ。公民館かあ」

 仕事をしなくなった人たちはだいたいが趣味に没頭する。音楽だったり、芸術だったり、はたまたスポーツだったり。未来がないから、好き放題はっちゃけるってわけだ。

 みんなアマチュアなんだけど、ここではプロがいないから誰だってスターになれる。

 私はまだバタ足がおぼつかない水戸の方を見た。

「今日はいいかな」

 水際に座って足を水につける。

 冷たい水の流れる感触が気持ちよかった。

「もしかして、水戸さん?」

「うん」

「最近、仲いいよね」

「話してみると結構面白いよ。この前なんて納豆のパスタっていうのを作って貰ったんだけど、これが意外とおいしいの。納豆だからヘルシーだし」

「はいはい。じゃあ、また今度ね」

 ちょっと呆れたような言い方で鈴谷は話を打ち切った。

 向こうでは息を切らせた水戸が水から上がって、平たい岩の上で伸びていた。





 2


「おいしいですか?」

 その日は厚切りの食パンに納豆をかけた珍妙な料理だった。

 いつも通り、水戸とふたり、キッチンでパンを端からかじる。チーズとからしマヨネーズ、そして、納豆が口の中で融合し――――。

「……いや、これはないわ」

 たまに古い料理本で見ることがあった納豆トーストだけど、これは水戸の出した納豆料理の中でも唯一食べきることができなかった。味よりも先に納豆とパンという組み合わせに嫌悪感がこみ上げてきて咀嚼していると気持ち悪くなる。いつもは問題なく受け入れられる納豆の匂いがパンと一緒に食べると何故かダメだ。

「やっぱり、納豆はご飯と合わせるのが一番じゃない?」

「そうでしょうか。私はそれほど悪くはないと思うのですが」

 水戸が頬に手を置いて考えこむ。

「作り方が悪かったのでしょうか。まだ納豆トーストはいろいろ改良の余地がありますね。しばらくはご飯に戻りましょう。そもそも納豆の製法を見直すべきでしょうか。発酵の時間を変えて納豆菌の数を変えてみるのはどうでしょう」

「そんなこと聞かれても私じゃわかんないわよ」

 しばらく納豆トーストを食べながらブツブツつぶやいていたけれど、納豆にそれほど詳しくない私には理解できないことばかりだった。水戸の納豆好きは心から感服するというか、呆れるというか、とにかくすごい。

「本当に納豆が好きね」

「当たり前じゃないですか。納豆の粘りはアミノ酸の塊。つまりは旨味成分が凝縮されたものなんです。独特な匂いが苦手でなければ好きになって当然です」

「……それにやたらと詳しいし」

「父が納豆菌を研究していた科学者だったんですよ」

 水戸は近くの棚にあった写真立てを指さす。そこには若い白衣の男性と彼と同じ年くらいの私服姿の女性が写っていた。水戸の両親だろう。背景は大きな白い建物だ。雰囲気が物々しくて、なんとなくここが研究所なんだろうなと思った。

「あれ? でも、納豆作りが家業って言ってなかったっけ?」

「そっちは母さんですよ。納豆菌を研究している過程で、納豆を作っていた母さんに出会ったんです。まるで、納豆と醤油のような運命的な出会いだっと聞きます。きっと裏で神様が糸を引いていたのでしょう、納豆だけに」

「ごめん、そのたとえは意味わかんない」

 立ち上がった水戸は写真立てを手に取りに優しげな視線を落とす。

 その横顔はいつもよりもずっと大人びていた。

「ですが、出会ってすぐにシャ毒菌が発見されました」

「シャ毒菌……?」

「この世界を食い尽くそうとする憎き細菌ですよ」

 黒いモヤを思い出す。

 あれはシャ毒菌というらしい。そういえば、そんな名前だった。

「やつらは納豆菌と違い、豆だけでなくすべてを腐らせます。それも跡形もなくです。危険性が認知されてからは父もシャ毒菌の研究を始めていました。納豆菌を使ってシャ毒菌を駆逐しようと考えていたのです」

「納豆菌って納豆を作るときのあの納豆菌?」

「ええ、納豆菌、バチルス・サブチリス・バリエタス・ナットー。枯草菌の一種で熱や紫外線に強く、他の細菌が死滅してしまうような過酷な環境でも生き残ったりします。そんな粘り強い納豆菌でシャ毒菌に対抗するのが父の最後の研究でした」

 最後という言葉と悲しげな水戸の表情が引っかかった。

 もしや、と思ったけど、一度気になったら聞かずにはいられない。

「そういえば、家業って言っていたけど、両親は? 私、家に通うようになってから一度も見たことがないんだけど、ライブ?」

「ライブってなんですか。父と母ならもう死にましたよ」

 水戸が引きつった顔で笑う。

 きっと両親とはとても仲が良かったんだろう。

 こんな世界だ。両親がいない子も少なくない。むしろ、こんな時代に両方がきちんとそろってる方が珍しい。私だって片親だ。父親はもうとっくに他界している。

「付いてきて下さい。私たちの研究を見せてあげます」

 それから彼女は私を家の奥へと案内した。

 ランプを付けてもまだ薄暗い部屋の中には小さな机、本がいっぱいの棚、横に長い大きな冷蔵庫があった。理科の実験で使うようなビーカーや試験管もそろっていて、ここは父親から引き継いだ研究室なのだと推測できた。

 水戸は冷蔵庫から一本の試験管を取り出す。

 その中には半透明の濁った液体が入っていた。

「対シャ毒菌用の最終兵器、強化納豆菌です」

「うん……えと、キョウカナットウキン?」

「はい。強化納豆菌」

 強化ってなんだ。

 強化された納豆菌ってなんだ。

「シャ毒菌は非常に生命力の強い菌です。これを残らず死滅させるのはとても難しいことです。そこで考えたのがシャ毒菌を餌に増える強力な菌の開発でした。加速度的に増加するシャ毒菌に対抗するにはこちらも菌を使うのが良いと考えたのです」

 他に父の研究を活かせる部分はありませんからね、と水戸。

 私は改めて、試験管の中身を見てみた。それほど特別な液体には見えない。

「ちょっとよくわからないけど、これでシャ毒菌をどうにかできるの?」

「……そのはずでした」

 試験管を持った手にわずかに力がこもる。

「私が小さかった頃に父と母さんたちの研究団は完成したはずの強化納豆菌を持って、シャ毒菌に立ち向かいました。しかし、強化納豆菌は想定していた効果を発揮できなかったのでしょう。結果、父たちは沼に沈み、二度と帰ってくることはありませんでした」

 死んだ両親のことを語っているというのに彼女の目には力強い光を宿っていた。

「だから、私は両方継いだんです。納豆作りも、納豆菌の研究も。父が失敗した研究を私は完成させ、この世界を納豆で救うのです」

 こんな今にも滅びそうな世界を救うなんて、できるのだろうか。すでにたくさんの人がシャ毒菌に挑み、破れてきた。彼女の父親だって同じだった。どう考えたってもう終わりだ。

 残された日々を静かに楽しむくらいが私たちにできるすべて。

 私は幼いときからずっとそう思ってきた。

「どうにかできるのかしらね」

「できます」

「私たちはまだ子供よ」

「でも、やらなきゃいけません」

 そう言って、水戸は柔らかく笑うのだ。

「私はまだこれからをあきらめきれるほど納豆を食べ尽くしていませんから」

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