納豆少女は匂い立つ
竜田スペア
Episode1
1
彼女は一年A組の教室の中で、一際異彩を、いや、異臭を放っていた。
それは昼休みのことだった。窓側の最前列に座った彼女は太陽の光を浴びて、一心不乱に手元の納豆をかき混ぜていた。わけぎかネギか知らないけれど、細切れになった緑色の野菜が入っている。加えて魚型容器の醤油だ。
見ている分にはまだいい。
けれど、匂いがいけなかった。閉めきっているせいか、鼻につく腐った臭いがこっちの方まで漂ってくる。私じゃなくても嫌な顔のひとつやふたつしたくなるだろう。
隣の席の娘が私を小突いた。
「ねえ。あの娘、なんとかしてよ」
「なんで私が」
私は、
「学級委員じゃない」
「それ、学級委員の仕事なの?」
「でも、他にいないでしょ。ね、お願い」
クラスメイトが両手を合わせて私を拝んだ。
私は安易に学級委員に就いたことを後悔し、立ち上がる。
昔から周りで何か揉めていると落ち着かない性格だった。問題を広げたくなくて、つい一番損な役回りを引き受けてしまう。学級委員も他の誰もやりたがらなかったから、引き受けただけ。私が積極的になりたがったわけじゃない。
誰も動かないなら、どうせ私がやることになる。ならば、早めに声をかける方がいい。
近くで見た納豆女は嫉妬してしまうくらいに細くて白くて綺麗な顔をしていた。
ふわっとしたショートカットで、ちょっと色が少し薄い。手元の納豆みたいな色の髪だ。こげ茶色のカーディガンがとても良く似合っている。
一見、人形みたいで大人しそうに見えるけど、相手の得物は納豆だ。油断できない。
「ちょっといい?」
「待って」
そいつは今まさに混ぜ終わった納豆を白ご飯にかけているところだった。
慣れた手つきでくるくると糸を絡めとり、私の方を向く。小首をかしげた。
「誰ですか?」
「高垣よ。学級委員の」
「
「……うん、よろしく。ところで、その納豆なんだけど」
「納豆がどうかしましたか? もしかして、欲しいんですか。構いませんよ。私、いっぱい持ってますから、ひとつ分けてあげましょう」
水戸は顔をほころばせて机の横に吊っていたスクールバッグから小さな発泡スチロールに入った納豆を取り出した。臭いの元が増えた。
私は慌てて胸の前で両手を振った。
「いらない! いらないから!」
「え?」
「弁当あるからね。納豆とか普通はお弁当で食べないし。嫌いじゃないけどさ」
「そうですか……。すごくおいしいのに。明日なら大根おろしも付けます。もしかして、生卵派でしたか? トロロやオクラのがいいですか? まさか、マヨネーズを入れる派ですか? 邪道! でも、嫌いじゃありません」
「そういうバリエーションは求めてない!」
あからさまに肩を落とす水戸。長いまつげが目元に影を作る。
なんだか悪いことをしてしまった気分になる。
「そのね、教室で納豆を食べるのをやめて欲しいの。臭うから」
「……臭いますか?」
「とってもね」
匂いを散らそうと思い、そばの窓を開けると強い風が吹いていた。
「次から気を付けます。今日はもうこのまま食べますけど構いませんか?」
「ええ、明日からはお願いね」
なんとか了解は得た。私は小さな達成感を胸に席へと戻る。
しかし、ちょっときつく言い過ぎたかもしれない。納豆を持ってきたのにも理由があるのかもしれないし、頭ごなしに否定したのは良くなかった。新しい環境になって、まだ友達もいないような段階で浮いてしまうのはつらいことだ。だいぶ落ち込んでいたようだから、これからはできるだけ仲良くしよう。
そんなことを考えながら、私は水戸の元を離れ、弁当の続きに戻った。
翌日から水戸の納豆は臭いがひかえめなタイプになった。
なんなの、この娘。
2
職員室に呼び出された私は先生にプリントの配達を頼まれた。
なんというか、すごく気が乗らなかった。
「水戸さんに、ですか」
「住んでるところが高垣さんの家のすぐ近くなんだ」
A4サイズの封筒を受け取る。
中身がぎっしり詰まっていて、それなりに重たい。
五月に入ってから水戸の出席日数がは目に見えて減っていた。新年度は始まったばかりだし、卒業に必要な日数にはまだまだ余裕がある。けれど、このままのペースでは留年してしまうのは明らかだった。
ただ、休みがちなのは水戸に限ったことではない。皆、雰囲気から終わりが近いのを察していて、やり残したことを片付けようとしている。
「先生も律儀ですね。もうすぐ町が沼に呑まれるっていうのに」
「毎日休まず登校している高垣さんもね」
先生が穏やかに微笑む。
この人は死ぬ最後の一瞬まで働き続けているだろうなと思った。
「こっちが地図」
印刷されたばかりのそれに目を通すと水戸の家は私の家よりも少しだけ学校から遠い。通りがかったついでに渡すわけにはいかないので少々面倒だ。
しかし、こういうのを断れないのが私の性分だった。
「わかりました。届けておきます」
「お願いね、高垣さん」
帰り道を自転車で駆ける。
町は静かだった。人通りは少なく、穏やかな空気が流れている。私が中学生だった頃はもっとにぎやかだったような気がする。やはり変わってしまったのだろうか。
今、この世界は滅びつつある。
その始まりは私が生まれるよりも前の話だ。
とある湖から未知の細菌が発見された。たくさんの工場から流れてくる化学物質が交じり合って細菌は誕生したといわれている。それは木々や金属だけでなく、生きた生物すらも腐らせる。ありとあらゆるものを呑み込み、溶かして、底なしの沼へと変えるのだ。
専門家でもない私は細菌について詳しいことはわからない。
けれど、それがどれだけ恐ろしいものかはわかる。
当時の人間も手を尽くしたが、拡散は止められず、だんだんと細菌の沼は広がっていった。
発見されてすぐの頃、研究者たちが各々の施設へと持ち込んだりしなければ、もう少しマシだったかもしれない。しかし、研究はすべて失敗し、各所の研究施設と件の湖を中心として日ごとに沼は大きくなっている。
重いために雨や風で急激に広がることはないが、生命力の強いその菌は簡単には排除できない。少しでも残っていれば数日で膨大な規模に膨れ上がる。
人間たちは排除をあきらめ、できるだけ沼から遠くに避難した。避難する気力もお金もない人たちは集まって町を作った。
私の住んでいるのは後者で、もう逃げ場はどこにもない。
この静かで退廃的な生活にも、いずれ終わりが来るだろう。
資源は減り、道具もどんどんと使えなくなっている。車は動かないし、携帯電話も通じない。食料や衣服はまだまだあるようだけれど、それがいつまで持つのかは私も知らない。
ずっと遠くに山を覆うようにして黒いモヤが広がっているのが見えた。
心がざわめく。
あの黒が私たちの町へと流れてきたなら、一夜のうちに人間は腐って滅びる。無力な私たちはただ終わりのときを待つしかない。
「あ」
自転車に嫌な衝撃が走った。
バランスを崩して、私はこけた。
倒れた自転車の車輪がからからと空転する。
「痛たぁ……」
よそ見をしていたら石ころにでも乗り上げたようだ。
膝を擦りむいた以外に怪我はなかったが、自転車の方はまずい。チェーンが切れている。
まだ新しいしし、今まで壊れたこともなかったのに。
どうにも今日はついてない。
私は深くため息をつき、自転車を押しながら水戸の家に向かった。
3
インターホンを押して待つこと二十秒。
薄汚れた一軒家から出てくる人間はまだなかった。
よくよく考えてみれば面と向かって渡す必要はないのではないか。私と水戸はただのクラスメイトでそんなに親しくもないし、今日来たのだって家が近いから配達を頼まれたからだ。プリントは郵便受けに入れておけば、きっとそのうち気づいてくれる。
そう思って、帰ろうと肩から落ちかけていた鞄をかけ直していると、インターホンのスピーカーから声がした。水戸の声だ。
『はい、どなたですか?』
「高垣よ」
『……高垣?』
「あなたのクラスメイト。溜まったプリントを届けに来たの」
『あー……ああ、なるほど。高垣さんですね、はいはい。ちょっと今手が離せないので、中に来て貰えますか。入ってまっすぐの部屋にいますので』
絶対私のこと覚えてないだろ、と思っているうちに音声が切れる。別に直接会う必要もないが、今更、郵便受けに突っ込んで帰るのも気持ち悪い。
私は水戸が何をしているのか気になるのもあって、水戸の家に入ることにした。
「お邪魔しまーす」
玄関の戸を開けるとむっと強烈な臭いが押し寄せる。納豆の臭いだ。
廊下を進むごとに臭いは強くなる。突き当りの部屋に入るとむせ返るほど強烈な納豆の匂いがした。中はレストランの厨房みたいになっていて、水戸は魔女みたいに大鍋をかき混ぜている。鍋の中身は絶対納豆だと思った。
「なんなの、ここ?」
「納豆用のキッチンです」
「自分で納豆作ってるの? 何で?」
水戸は霧吹きで煮豆に何かを吹き付けながら答える。
「家業なんですよ。先祖代々納豆を作ってまして、前は工場でやってたものの、沼が近づいて危なくなったのでこっちに来て、また手作業に戻ったんです。今、茹で上がった豆に納豆菌を混ぜてます。納豆菌は温かいうちに混ぜた方がよく発酵するので、すみませんが、すぐにお茶は出せません。発酵室に入れるまで待って貰えますか」
「お茶くらい別にいらないわよ。すぐ帰るし」
鍋の中を覗くと大量の煮豆があった。ふやけているのか、大きく見える。
でも、納豆っていうにはあまり糸を引いていない気がする。
「あんまり粘ってないけど」
「菌が増えないと粘りません。発酵させたらネバネバになります」
「ふうん……」
納豆は人によって好き嫌いが激しい。見た目が明らかに腐ってるってだけで無理って人もいるし、臭いや粘り気が生理的に無理って人もいる。人を選ぶ食べ物だとは思うけど、私は納豆のクセになる味が嫌いではなかった。
「混ぜ終わったらそこの容器に少量ずつ入れていきます。空気と触れてないと発酵しません。だから、こうぎっちり詰め過ぎないようにします。逆に乾燥させ過ぎてもいけませんので、上からフィルムを被せます」
「難しいのね」
「そうです。気まぐれな子なんです」
水戸は私が見ているのにも構うことなく、発泡スチロールのパックに納豆を入れ始めた。
納豆を見る彼女の目はとても優しくて、本当に納豆が好きなんだとわかる。まあ、そうでもなければ学校を休んでまで納豆を作る女子高生は頭がおかしい。……いやいや、普通に考えて、そんなに納豆が好きなのもおかしくないか。
「ねえ、水戸さんは学校来ないの?」
水戸は露骨に嫌そうな顔をした。
「たまに行ってるじゃないですか」
「たまにって、もう二週間も来てないじゃない。来ないと私がプリントを届けに来ないといけなくなるかもしれないのよ。それに納豆作ってるより学校で友達と過ごす方が楽しくない?」
「私にも都合がありますし、こうして納豆作るのも楽しいですよ」
「え、楽しいの?」
試してみませんか、と水戸が言うので、私もスプーン片手にパックに煮豆を詰めてみることにした。何事も挑戦だ。
ふたりで黙々と納豆を移し替える。
大きな鍋と煮豆と発泡スチロールだけの世界。
淡々とした作業に二の腕が痺れ、脳が大豆色に染まる。
そりゃあ、鍋いっぱいの豆だ。これをすべて小さなパックに分けようと思えばふたりがかりでもなかなか終わらない。
「……ねえ」
「なんですか?」
「普通につまんないんだけど」
「もうすぐ終わりますから、頑張ってください」
なんだろう。
体のいい労働力に使われている気がする。
それから十分ほどかけて、納豆を移し替え、それを冷蔵庫みたいな黒くて長方形の装置に入れた。中はサウナみたいに熱かった。これが発酵室なんだそうだ。
「あとは一晩寝かせて発酵させるだけです」
「すぐにはできないのね」
「そうですね。水につけておく時間も必要ですし、煮るにも発酵するにも時間がかかります。その後、熟成させたりもするので、一日じゃできませんよ」
家業らしいけどよくやるものだ。
水戸は満足気に笑い、調理器具を流しに片付けていく。
「せっかくなのでうちの納豆、食べていきませんか?」
「そんな、いらないわよ」
「自家栽培の青ネギ、我が家に代々伝わる秘伝のタレもありますよ。炊きたての暖かいご飯に乗せて食べるとすごくおいしいんです。粘りにギュッと旨味が凝縮されていて、舌の上でほどける瞬間がたまりません」
ちょっとした労働の後にその響きはやばい。
くぅ、とお腹が鳴る。
「…………えっと」
私は顔が真っ赤になるのを感じた。
「用意しといた方がいいですね」
「し、仕方ないわね。そこまで言われたら断るのも悪いものね」
「そうですねえ。高垣さんは納豆作りをたくさん手伝ってくれましたしねえ」
子供でも見るような母性に満ちた瞳が向けられる。
だって、しょうがないじゃない。
もう学校も終わってもうすぐ夕方だし、私はここまで自転車を押して来たんだし、ずっと煮豆をカップに入れて腕の筋肉を酷使したし。これでお腹が減ってないわけない。だいたいお腹の音も水戸しか聞いていないからセーフだと思う。
水戸に手を引かれ、横の部屋に移る。
四人がけのテーブルがあって私は半ば無理やり座らされる。
「小粒、大粒とひき割りのどれにしますか?」
「どれでもいいけど、何が違うのよ」
「粒の大きさが違うとご飯の絡み方、タレのつき方が変わります。食感だけではなく、味の濃さも全然違いますよ。私はその日の気分で選んでます。朝昼晩で変えたり、おかずや薬味で選んだりと組み合わせにこだわったりとか」
このまま話させるとすごく長くなりそうな予感がした。
「よくわかんないから、水戸さんが選んで」
「では、小粒で」
上機嫌で水戸は冷蔵庫からさっき詰めていたのと同じ種類のパックをふたつ取り出す。手際よく、茶碗にご飯をよそうと私に手渡した。
「はい、どうぞ」
これが水戸が作った納豆。
さっき私が手伝ったのと同じ作業を経て、できた納豆だ。
そう思うと得も言われぬ感動が胸のうちにあった。
水戸がテーブルに薬味を並べるので、早速ネギを加えて納豆をかき混ぜる。いい感じに粘ってきたら、タレとからしをかけてまた混ぜる。完成したら、真っ白なご飯に少量を乗せ、冷たい納豆の食感と温かいお米のギャップを感じながら頂くのだ。
箸に糸を絡め、最初のひと口を味わう。
悪くない。
これならいくらでも食べられそうな気がした。
「おいしいですか?」
「まあまあね」
答えながらも箸が止まらない。
納豆を食べたのは久しぶりだった。口の中で絡まるからしとタレ、そして、大豆の味が心地良い。柔らか目のご飯との相性もバツグンだ。
納豆とはこんなにもおいしいものだっただろうか。
「……まあまあ、ですか」
落胆した風に水戸がつぶやく。
そして、真剣な表情で私を見つめる。
「高垣さん」
「何よ」
「ご飯粒が頬に付いてます」
「あ、うん」
「それと明日もうちに来て下さい」
「なんでよ」
「納豆を食べるためです」
「はい?」
「一番の納豆を高垣さんに食べさせてあげます」
どうしてそんな提案をしたのだろう。本当にこの娘は何を考えているのかわからない。
しかし、悪い話じゃない。
おやつ代わりに納豆を食べられるし、水戸も思っていたよりも付き合いにくい人間ではなさそうだ。もしかしたら納豆作りを手伝わされるかもしれないけど、もう一度くらいならやってみてもいいかもしれない。他の作業もどんなことやってるのか気になるし。
私は茶碗が空になるまで考えた末、ひとつの取引を持ちかけた。
「いいけど、条件があるわ」
「条件? なんですか?」
不安げに私を見つめる水戸。
「明日は学校に来ること、いいわね?」
こうして、私と水戸の奇妙な付き合いが始まった。
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