第二十八話 帰途(Return road)【最終話】

 訓覇と院長は揃って店内に入ってきた。院長はニコニコしながら語りかける。

「よ! チヅちゃん? こんなとこで何しとんの?」

「いやいや、院長! こっちのセリフですよ! 何で訓覇先生と一緒にいるんですか?」

「何で、くんちゃんのこと知ってるの!?」

「それもこっちのセリフですって! 何で先生が訓覇先生のこと知ってるんですか?」

 そのようなやり取りを見て、若林がぼそりと言った。

「やー、世間は狭いねぇ。恐ろしいね……。どこで誰が繋がってるか分かったもんじゃないね……」


 どうやら訓覇も学会に来ていたそうだ。そう言えば学会は秋から初冬に多い。真夏や真冬に学会があるということは少ない。また人事異動や就職で慌ただしい三〜四月もあまり多くはない。つまりはこの季節に集中するのだ。そして東京は学会に使用できるような大きな会場をたくさん擁しているので、土日は特に都内やその近辺のあちらこちらで学会を行っているのだろう。

 訓覇は病理医、院長は歯科医。

 ではなぜ、同じ医療従事者でも畑違いの両者が知り合いなのか。これも偶然とは恐ろしいもので、院長は卒後研修を歯学部附属の大学病院ではなく口腔外科のある総合病院で修了しているのだ。歯科医師の臨床研修は通常一年だが、院長は二年間の研修過程だったようだ。そしてそのうちの最初の一年間はスーパーローテートで歯科臨床研修医も医科の研修医と同様に一ヶ月ごとに様々な科を回ったようだ。そのとき同期の研修医としてともに過ごした仲らしい。院長はFacebookフェイスブックで訓覇が東京に学会に来ているのを知って、良かったら久しぶりに会わないかと声をかけていたらしい。

 そして当然ながら院長は、なぜ訓覇と知鶴、そして隣にいる見知らぬ女性が知り合いなのか疑問に感じていた。その経緯について説明すると、偶然すぎる奇妙な繋がりに店内にも関わらず大きな声で大きな動きのリアクションで驚きを示していた。

「まさか、訓ちゃんが、チヅちゃんと一緒だったなんてね!」

 いつの間にか、彼らはどこからか店内の椅子を二つ調達して、知鶴たちの横に座っていた。そして二人ともそれぞれ注文した珈琲をすすっている。

「そうなんて。俺が『ハックルベリー』、立河さんが『クランベリー』、隣にいる若林さんが『ジューンベリー』なんよ」

「そっか。それなら僕も入会できるな。『マキベリー』っていう果実あったろ?」

「よく知っていますね。院長。でも参加条件が独身ですから、妻子持ちの院長はアウトですよ」

 院長の氏名はまきりょうすけという。

 なお、マキベリー(Maquiberry)は、チリの南部パタゴニア地方に自生する、ホルトノキ科の植物である。その果実の直径は4~6mmとブルーベリーやアサイーよりも小さく、濃い紫色をしている。

「おいおい、僕が妻子持ちだってこと勝手にばらすなよ。『ジューンベリー』さんががっかりしとるやないか」

「してないです。うぬれないで下さいよ、院長!」

 若林は急にハンドルネームを呼ばれて驚いてはいたが、どう見てもがっかりはしていなかった。

 院長は間違ってもおとこではないし、若々しくて患者からの評判も高いが、ナルシストの傾向があるのが玉にきずである。

「仲良いんですね」

「いやー、仲良さそうに見えるけど、歯に衣着せないから大変なんです。僕いつも言い負かされちゃって、チヅちゃんには『はい』か『すみません』しか言えないんです」院長は頭をぼりぼり掻きながら言った。

「あの? 純奈さん、信じなくていいからね」

 若林はくすくす笑っている。

「じゃあ、僕はそろそろ聞きたいシンポジウム始まっちゃうからこれで失礼。訓ちゃん今度また飲みにいこう!」

 院長は、明らかに自分の分だけではない金額のお金を机にさり気なく置いて、辞去しようとした。

「おう! もう、行っちゃうのか。残念やな」

「いいじゃないか。若い綺麗な別嬪ぺっぴんさん二人に囲まれて。脈ありなら報告しろよ。あ、そこのチヅちゃんは、目の保養になることは保証するけど、口喧嘩になったら絶対に負かされるから、気を付けなよ! じゃあ!」

「院長っ!」知鶴は大きな声を上げる。

「そ、そういえば──」若林は院長を呼び止めるように声を出した。「知鶴さんから聞いたんですけど、院長のアドバイスを聞いて、今回の事件は解決したって……。ありがとうございます!」

 院長は振り向きながら答えた。

「いやいや、僕はほんのちょびっと助言しただけだよ。全然大したことない。本当に凄いのはチヅちゃんなんだよ。僕が職場でもどれだけ彼女を信頼しているのか想像できるだろう?」と言う院長は笑顔だった。そして、思い出したように付け加えた。「あ、そうそう! 訓ちゃんめっちゃいい奴だから、仲良くしてやってなっ!」

 そう言って、院長は颯爽さっそうと立ち去っていった。

 院長は、冗談を言ったり茶化したりもするが、こうやって本心では知鶴のことを評価してくれる人物だ。やっぱり嬉しい。


 賑やかな院長がいなくなり、若林と訓覇と知鶴の三人だけになる。

「何か、邪魔しちゃったようですまんね」訓覇はちょっと申し訳なさそうな顔をしている。バツが悪そうだ。

「訓覇先生は、学会は良いんですか?」知鶴は問うた。

「あ、俺はもう発表終わったし、今日何時に帰ろうかななんて思っとったとこやから。ほら、明日は平日やもんな」そう言いながら

 明日は月曜日だ。もちろん知鶴も明日から出勤である。

「先生って、三重県でしたっけ?」知鶴はしっかり覚えていた。

「そうそう。よう覚えとんなぁ。新幹線で名古屋まで行って、そっから近鉄線きんてつせんに乗るんよ」

「大変ですね」

「まぁ、でも、事件に比べたらずっとましだよ。生きていることのありがたみを改めて感じたよ。俺、医者のくせに変なセリフやな」そう言って訓覇は苦笑いした。

「……それは、私も同じです」若林がしみじみと言った。

 それはまったく知鶴も同感だった。何か一つ間違えれば、相馬のように何も悪くないのに殺されてしまう者だっている。生きるか死ぬかとは、ときに紙一重なのだ。


 気付くと、店内にはラジオがかかっていた。

 ときどき流れるサウンドロゴは『Fabulousファビュラス-FMエフエム』と言っていた。少しの間だけ傾聴してみると、しくも、知鶴がオフ会初日の行きの車内で、交通情報を聴こうと思って偶然切り替えたラジオで流れていた番組と同じものかもしれない、と感じた。正確には、オフ会の初日は土曜日だったから曜日は異なるが時間帯は同じだ。しかも流れて来るラジオパーソナリティーの声は通称『クマケン』と名乗る男性のもののようだ。これもあのときと同じだ。

 外の料理店に取材するコーナーはもう蒼依のピンチヒッターが担当しているのだろうか。そのコーナーは事前に収録されていたものを流していたようだが、もう事件から二ヶ月も経過していては、もう蒼依の収録分も放送されてしまったことだろう。それか代役の収録したものに差し替えられただろうか。

 知鶴は『Fabulous-FM』のリスナーではない上、蒼依のことも知らなかったが、ラジオからあの美しく可愛らしい声が聞けなくなると思うと無性に悲しくなってきた。

「蒼依さんは、復帰できますかね」

「どうやろうな……。少なくとも鎌形さんは極刑か、ひょっとして情状がまれて更生の余地がまだあると判断されれば無期懲役もあるかもしれん。蒼依さんは──、俺も法律のプロやないからはっきりしたことは言えやんけど……。おそらく、刑務所の中に転ぶかしゃに転ぶかは五分五分といったところやろうな。丸森を襲ったのが衝動的だったこと、その動機に酌むべき要素があること、前科がないこと、そして本人から反省の気持ちがあれば執行猶予つきになるかもしれん。懲役三年執行猶予五年といったところかな。もちろん、美穂さん、オーナー、丸森も何らかの刑に処されると思うけど、どうなるやろうな……」

「そっか……」

 法律にうとい知鶴は、罪の重みを改めて感じた。

 殺人事件なんて、世の中の多くの人がそれと無縁の世界で生きるように、知鶴もまた数ヶ月前まではそうだった。所詮は推理小説かスクリーン越しの世界の出来事だった。それが突如として知鶴たちの眼前で繰り広げられたのだ。しかも隔絶された閉鎖空間で背筋も凍るような連続殺人事件。犯人がきっと参加者の中にいると考えられるという状況下でいつ終わるとも知れない『死』のオフ会をともにした。あのときの知鶴は必死だった。自分でも信じられないくらいの精神状態で闘ったと思う。事件の解決に至ってはまさに奇跡であり、火事場の馬鹿力によるものと形容するのが近い状況だったかもしれない。

 その忌まわしい記憶がふっと知鶴の中に舞い込んできた。事件から少し時間が経ち、ようやく気持ちの整理がつき始めた時分に、冷静になって事件の側面とそれによってもたらされるだろう後遺症をまじまじと見つめたことによって、知鶴は急に悲痛な感情に支配された。今までのフラッシュバック現象とは若干様相が異なっているように思われる。無意識のうちに、知鶴の頬に冷たいしずくしたたるのを自覚した。

「ち、知鶴さん?」若林が知鶴の異変を察知して心配そうに声をかける。そして知鶴は急にふと我に返った。

「いや、目にゴミが入っちゃって……」と言いながらも、自分でもかなり苦し紛れの弁解だと知鶴は思った。

 訓覇はその胸中を察したのだろうか。彼もまた悲しげな目で知鶴を見つめていた。


 それからしばらく、三人はたわいもない話をした。しかし知鶴はよくその内容を覚えていない。大まかには、各々の出身地の話とか、職場の話とか、知鶴の勤務先の院長にまつわる話とか、そんなところだ。本来ならペンションでのオフ会で交わされる予定だった会話が、ようやく二ヶ月越しに実現した形となる。しかし詳細についてはどうだったか。知鶴の心の中は、依然として悲しみが渦巻いていた。その悲しみそれ自体と、それを払拭しようと頑張って作り笑顔を見せて話を合わせようとする知鶴の必死な努力と、それを察して少しでも明るい雰囲気作りを心がけようとした訓覇と若林の気遣いで、その会話の記憶が薄れてしまっていた。事件時に全神経を傾注して働かせた、小さな違和感をも見過ごさない観察眼と記憶力はどこへやら。そのギャップに我ながら内心じくたる思いであった。

 気付くと、FMラジオは今日も音楽の特集を組んでいたようだ。知らなかったが、今は人権週間らしい。十二月十日の世界人権デーに先立ち、十二月四日〜十日の一週間が人権週間だという。神聖しんせいかまってちゃんの『ズッ友』という歌が流れていた。キャッチーなメロディーでとても耳に残る歌だ。洋楽をよく聴く知鶴にとってもどこか心地良い曲だと思った。

 世界人権宣言第二条第一項に差別撤廃の条文が記載されている。人種、皮膚の色、性別、言語、宗教、財産、門地などによって差別を受けてはならない、というものであるが、性的指向を理由とする差別も例外ではないという。まさしく今がLGBTの権利を見つめ直す機会ではないか、と思った。

 皮肉なことにチャットグループの名は『ミックスベリー』。言うまでもなく多種多様なベリー類の果実の入り交ざったものを指すわけであるが、それがボウルに容れられている様は、捉えようによっては人種の坩堝るつぼ的な表現でもあるような気がした。様々な個性の人間が一つのグループ内に集う。性的マイノリティーの人間であってもマジョリティー同様に分け隔てなく付き合う。『ミックスベリー』は、ハンドルネーム『シルバーベリー』と『ヒマラヤンブラックベリー』が同一人物であるため実質十三名で構成されていた。奇しくも、日本では十三人に一人がLGBTと言われているので、『ミックスベリー』のメンバーの中にLGBTが一人いるということは、ごくごく自然な現象であるのだ。


 夕暮れ時になり、訓覇もそろそろ帰る時間が近付く。

 もうクリスマスが近付いているこの季節。日の入りの時間も早く、太陽は低いところから高層ビル群を照らし、街に長い影を落としていた。

「今日はありがとうございました」知鶴は頭を下げる。

「ありがとうございました。しかもごちそうまでしてもらっちゃって……」若林もつられるように訓覇に礼を告げた。

「いやいや、お金置いてったのはマッキーやから」と、慌てて訓覇は答えた。『マッキー』とは院長のあだ名なのだろう。

「じゃあ、院長先生によろしくお伝え下さい」と若林は言って、今度は知鶴に頭を下げた。

「二人はどうやって帰るん?」訓覇は尋ねた。ちなみにここは渋谷だ。

「私は地下鉄で帰ります。半蔵門線はんぞうもんせん東西線とうざいせんで浦安までね」と若林は言った。

「私は山手線やまのてせんとうとうじょう線でふじみという駅まで行きます」

「そっか。二人ともばらばらなんやな。俺は品川駅しながわえきやから山手線が良いのかな?」訓覇は三重県から来たので、首都圏の鉄道網にはそこまで造詣が深くないのだろう。

「たぶんそれがいちばんシンプルな帰り方ですよ」と若林は伝えた。

「荷物をホテルまで取りに帰らないんですか?」知鶴は率直に尋ねた。

「ああ、今回学会会場はしん宿じゅくやったんやけど、泊まったビジネスホテルは品川駅の近くなんよ」

「なるほど」

「じゃあ、お二人ともお気を付けて。本当にありがとうございました」若林は手を振って、あくまで笑顔を振りまいた。


 訓覇と知鶴は渋谷駅の山手線のホームへと向かう。土地勘のない訓覇は、迷路のような渋谷駅構内では知鶴についていくしかないようであった。

 途中、LGBTの権利団体が署名活動を行っていた。国際的にもLGBTに対する認識は、大きくばらつきがある。北米、中南米、ヨーロッパ諸国では同性愛を合法としているのに対して、アジアやアフリカ諸国では同性愛を違法とする国も多い。イスラム教国家の一部では死刑とする国だってあると聞く。

 日本におけるそれについては法的な関係性の規定はないと言うが、世間的にそれを歓迎しているかと言えば、否と言わざるを得ない。最近になってようやくLGBTという言葉が定着してきたが、まだまだ壁は厚い。

 東京は2020年にオリンピック/パラリンピック大会を開催する。より一層グローバル化が求められる中で、日本の社会情勢はどのように移ろいでいくだろう。

 知鶴はそんなことを考えながら、権利団体の署名へと向かった。山手線のホームとは方向が違ったが、何も迷わせる要素はなかった。一緒にいる訓覇も同じだった。何ひとつ知鶴に問うことなく、ついていった。

 知鶴自身はLGBTではない。しかし、いち国民として無力な知鶴が、今後一人でも病院の飛び降り自殺や九月のオフ会のような惨劇の犠牲者を生まないためにできることは、今はこれくらいしかなかった。それが知鶴の中でのしょくざいと言っては烏滸おこがましいし語弊があるかもしれない。しかし些細なことでも出来ることがあればやりたいと思った。訓覇と知鶴は銀鏡恵深とオフ会で死した者への冥福を祈るように、署名をした。


「私、先生にひとつお礼言わないといけなくて」署名をし終わって再び渋谷駅構内に向かう途中、知鶴は急に立ち止まって訓覇の方を向いた。ずっと言わなければいけないと思っていたことだったのだ。

「なんかな?」訓覇の関西弁の口調は慣れない知鶴には最初多少きつく感じられたが、この時の彼の応答の仕方には若干のにゅうさを帯びていた。

「あの、後藤さんのCPRのときフェイスシールドありがとうございます」

 知鶴は頭を下げた。CPRとはCardiopulmonary resuscitationの略で心肺蘇生法のことである。お互いに医療従事者なので、医療用語の略称でも通じるのだ。

「何の、大したことあらへんよ」事も無げに訓覇は言う。

「いや、あのとき、後藤さんの人工呼吸を私がしようとした時、彼が毒を盛られて殺されている可能性も考慮して、渡してくれたんですよね?」

「まさか、そこまでの機転は利きやん。買い被りやな。たまたま感染防護具を持っとったから渡しただけやよ」

 それは真実なのか謙遜なのか分からなかったが、知鶴にとってはどちらでも構わなかった。そしてもう一つ、言わなくてはいけないお礼があった。

「あと、鎌形さんに証拠の提示を求められたとき、ヒントをくれてありがとうございます。しかも訓覇先生が言ってくれると思ったのに、最後まで私に真相の語り部役を委ねてくれましたよね」

「ああ、そんなこともあったっけな」と訓覇はうそぶいてみせる。

「そうですよぉ! 覚えてないんですか?」と知鶴は言いながら、これは訓覇の照れ隠しなのだろうと、勝手に推察する。とにもかくにも、訓覇の機転によって守られたのは事実なのだ。知鶴は続けた。

「今度、一度ゆっくり話しませんか?」知鶴にはちょっとずつ気持ちの変化が芽生え始めていた。

「どした?」

「いや、訓覇先生、オフ会でまだ自己紹介も何もしてない頃、『宴会のとき、一緒に話そう』って言ってくれたじゃないですか。今更だけど、まだそれが実現できてないと思って──」知鶴は少しはにかみながら言った。あの時はナンパ野郎などと勝手に評して、心の中で毒づいてしまったが、真の内面は使命感と優しさに満ち溢れているのだと思う。院長の太鼓判も押されている。ちょっと道化師的で残念なところもあるかもしれないが、それもある意味ご愛嬌だ。

「そうやったな。覚えててくれたんやな。ありがとな。嬉しいよ。でも俺もそうそう東京に用事ないからな……」

「それなら私がそっちに行きます!」

 知鶴は思わず大胆な発言をしていた。自分でも不思議なくらいに。

 訓覇はしばらく考えているようだった。このときの訓覇のしんちゅうを察することはできる。心優しい彼のことだ。殺人事件をきっかけにして関係を深めることに、複雑な思いを感じているかもしれない。それはそうだ。不謹慎な話かもしれない。しかし、知鶴は事件後から心境の変化が起こっていた。陰惨な事件であったものの、人と人との絆の強さ、深さ、そして大切な人を守ることなら自己を犠牲にできる献身的な優しさに心打たれるようになっていた。そう、無意識のうちに知鶴は優しさを渇望していたのかもしれなかった。しかもその気持ちは、事件後も風化することなく、むしろ精錬されるように知鶴の胸中で際立っていった。不安になり、思わず知鶴は再度訊いてみた。

「やっぱり、ダメですかね……?」

「いんや。そんなことない。『マッキー』が、立河さんは、口喧嘩になったら絶対に負かされるから、って言っとったもんで……」

「それは院長の冗談ですから、話半分に聞いて下さい」知鶴はムッと膨れた。

「そっか。じゃあ、三重に来たら、松坂牛まつさかうし美味うまい店紹介したるよ。あ、それともよっいちとんてきの方がいいか?」

「どちらでもいいです。お任せします」

「じゃあ、いつでも連絡してくれ!」そう言うと、二人はちょうど渋谷駅の山手線の改札に到着していた。そして内回り、すなわち品川方面の電車がホームに入線してきたようだ。

「ありがとうな!」訓覇は笑顔で手を振る。そして急ぎ足で階段を駆け上がる。今更ながら訓覇のスーツ姿は似合っていると思った。

「こちらこそありがとうございます。またよろしくお願いします!」そう言って、知鶴は頭を下げた。『さよなら』という言葉は敢えて使わなかった。


 太陽が沈んで、外は少しずつ暗くなり肌寒さを感じていた。いつもなら、耐え難いほどの空虚と孤独に襲われる知鶴だったが、今日はどこか心の中が温かく、あかりともっているようだった。

 アナウンスや乗降客で駅ホームは賑わっていたが、先ほどの権利団体による呼びかけの声だけは、掻き消されずにりんとして、知鶴の耳まで伝わっているのが印象的な夕暮れだった。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ミックスベリー殺人事件 銀鏡 怜尚 @Deep-scarlet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ