第6話 黒い波

 年が明けて小学校では新学期が始まった。

 京也は、国語と算数については教科書の残りを終えていた。一方、理科と社会は手付かずだった。選抜試験まであと一週間である。これから、理科は教科書下巻の約半分を、社会は上巻下巻丸ごと二冊を読まなければならない。理科はともかく、社会は教科書を読むより、自習シリーズの目ぼしい所を拾い読みした方がよいのではないかと迷っていた。元々は、教科書を読み終えてから自習シリーズに目を通そうと考えていたが、それでは間に合いそうにない。そこで、京也は真澄に相談してみることにした。

 相談の結果は京也を失望させるものだった。――よく分からないという。「自分で思うようにやったら?」と括られた時の、姉の無表情で大きな目だけがいつまでも頭の中に残った。そして、散々迷った挙句、受験要領の出題範囲に記載された「教科書」の三文字を信じることにした。

 一週間はあっという間だった。明日に試験を控え、京也は夕食後いつもならそのままテレビを観続けるところ、すぐに机に戻った。右手に黄色の蛍光ペンを持ち、社会の教科書に並ぶ文字を上から下へ、右から左へと追っていた。どうせ学校では使わない教材である。どんなにマーカーを引いても構わなかった。

 下巻も残り三分の一というところで、正則が部屋に入って来た。

「もうよせよ」――意外な一言だった。

「まだ、社会の教科書が全部終わってないから……」

 京也は、振り返って正則を見上げた。

「もう遅いし、明日は朝早いんだから、もう終わりにして寝ろよ」

 正則の口調はやさしかった。が、京也にはそれがありがたくなかった。子供なら、親からもう勉強しなくてもよいと言われれば、喜んですぐにやめるだろう。しかし、この時の京也の中では小さな反発心が芽生えていた。

「でも、試験範囲だから終わらせないと……」

 京也は教科書を見つめながら言った。

「もう、いいんじゃないか、ん?」

 やや語気を強めた正則を京也は振り返った。父親の眉間のしわに機嫌の悪くなる前兆を感じ取った京也は、理不尽な板挟みに遭いながら、視線を紙面に戻した。

「じゃあ、この『雪国の人々の暮らし』の所が終わったら寝るよ、あと一頁だから」

 これを聞いた正則は譲歩せざるを得なかった。

「あいつ、真剣だよ――」

 子供部屋を引き上げ、妙子にそう言った彼の口元には笑みが浮かんでいた。


 一月十五日。成人の日で学校は休みである。元々朝は苦手な京也だったが、この日は自分で床を出た。着替えて顔を洗い、牛乳とトーストの食事を済ませると、七時十五分の電車に間に合うように妙子と家を出た。

 二人は江戸橋から都営地下鉄一号線に乗り、三田で下車した。妙子は、事前に正則からK大学の場所を教えられていたものの、心許なかった。が、そんな心配は無用だった。駅の外に出ると、それらしい親子が黒い波を形成していたのである。それも一つや二つの波ではない。あちらから、こちらから、湧いて来ては一つに合流していく。その様は壮観だった。

 京也は、今朝家を出て来る時、正則から「たくさん受けに来るだろうけど、呑まれるなよ」と言われていた。ところが、この黒い波の現象を京也は愉快に感じた。こんなにも大勢の人間が皆同じ動きをしている。それが新鮮で可笑しかったのである。

 後に聞いた話によれば、この日の受験者は約九千名だったということだから、三箇所の受験会場で按分したとして、六千名の親子が三田界隈に集合していたことになる。(つづく)

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