第13話 三度目の……

 この日はT大学での最後の日曜テストだった。

 京也はもう一人で行こうと思えば行けないこともなかったが、妙子に甘えた。

「さっぱりしたじゃない」

 妙子は大手町の連絡通路を歩きながら、前日床屋に行ったばかりの京也の頭に目をやりながら言った。

「うん……」

 京也は気のない返事をした。床屋に行くといつも刈り上げられてしまう。テレビに出て来る人気の男性歌手は皆、肩に届こうかというロングヘアである。自分が似合うかは別として、京也はそんな髪型に憧れていた。しかし、正則がそれを許すはずがない。昭和一桁の彼の中では、長髪は不良の代名詞だった。

 一度刈り上げてしまえば、落ち着くまで二週間は掛かることを思うと、京也は床屋に行く時期が近づいて来るのが憂鬱だった。店の扉を開けた時に漂う、乾燥した甘ったるい匂いを考えるだけで鼻がむず痒くなる。順番を待つ間、所々ひび割れのある黒いソファに座らされると、大人向けの雑誌が背の低い棚の中へ無造作に詰め込まれているのが目に入る。店主は、額と頭皮の境が判らぬほど禿げ上がり、頭のてっぺんから煙がくすぶり立っているような縮れ毛を見せている。時折店内に目を配りながら、剃刀を皮ベルトのようなものに擦り付けて何度も往復させている。その音が恐ろしかった。

「池田君」――京也の担当は店主の妻である。やさしく名前を呼ばれると、これから自分はあの人の手に掛かって勝手にされてしまう、そんな思いに襲われる。細い目を更に細くしていくら笑顔を見せられても、眉間の右側にぶら下がった黒いほくろが今にも落ちて来そうで、気になって仕方なかった。

 ところが、京也は今回の床屋にさして悲観的でなかった。この一週間、彼は辻大木戸に通う生活のペースに慣れてきたのか、無意識のうちに勉強にリズムが出て来た。学校帰りのバスの中で「今日は先ず算数のあの問題をもう一度やって……」などと考えたり、自宅では「夕飯までにあとこの二問が終われば……」とペースを上げたり、自分の中で小さな目標を所々で設定してそれを一つ一つクリアしていた。刈り上げたばかりの耳の周りが落ち着かなかろうが、到底馴染めないものばかりの店内であろうが、そんなことは二の次となってしまったのである。

 シートに腰を下ろした京也は、時折明るく差し込む外の景色を楽しみながらも、手元では漢字演習を広げていた。妙子は隣でその様子を見て取ると、「あたしは見ても分からないわ」という顔をして中吊り広告を見上げた。

 本郷三丁目を発車すると、京也は漢字演習を閉じて鞄にしまい、茗荷谷の駅で下りるのにちょうどいい停車位置となるドアの所まで移動した。振り返ると、妙子は座ったまま彼の方を見ていた。

 T大学の構内に入り、辻大木戸の腕章を付けた若い男性に挨拶をすると、教室の案内掲示を横目で見て階段を上って行った。三度目の三〇五教室である。一番前の、ほぼ中央の席に鞄を下ろした。席に座って振り返る京也に妙子は黙って頷いて教室を後にした。

 テストが始まった。京也の一教科目は算数である。ペース良く二十五分で全問解いた。残りの五分で計算間違いがないかだけを見直した。続いて国語に入った。往きの丸ノ内線でおさらいしておいた漢字十問を確実に押さえた後、最初の長文読解に戻った。今回の出題は説明文だった。いつもより字数指定の抜出し問題が多かった。本文中の該当箇所に傍線を書き入れ、一文字一文字鉛筆で丸く囲みながら字数を確認した後、手際よく解答用紙のマス目を埋めていった。その後の理科は水の変化、最後の社会は日本の工業についての基本的な出題だった。

 今回もあっという間に過ぎた一時間三十六分だった。京也の顔に火照りはなかった。解答用紙の回収、部数の確認が終わると、試験監督員から離席を許された。周りの子達は一斉に席を立ち、お手洗いに行ったり、母親を探しにうろうろしたりしていた。京也は自分の内側に座っている子を通路に出した外は席を動かなかった。社会の自習シリーズを開いてテストで気になった所を確認していた。(つづく)

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