第5話 通知表

「ただいま……」

 終業式から帰った京也は、居間に入るとすぐに鞄から上履きと通知表を出した。

「どうだった?」

 妙子は眼前の息子の浮かない顔つきで成績の予想はついていた。

「図工が一つだけ、『ふつう』だった……」

 京也は上目遣いで妙子の顔色を窺いながら、済まなそうに答えた。

 彼が通う区立松江南小学校の通知表は、各教科を幾つかの項目に分けたうえで、それぞれについて、「よい」、「ふつう」、「もうすこし」の三段階で評価する。京也のこの二学期の成績は、全三十弱の項目のうち、図工の一項目が「ふつう」で外は全て「よい」である。一学期は、全ての項目が「よい」だったから、成績は下がったことになる。一方、行動面では「発表力」に『〇』がついている。この欄は、「発表力」、「注意力」、「積極性」の三項目がある。一学期の京也は「積極性」に『×』がついていたが、今回は何もついていない。彼の浮かない表情の理由の一つは、その下の所見欄にあった。

 ――教室でも、ようやく京也君らしい明るさが見られるようになり、発表力を始めとして抜群の能力を発揮しています。その反面、つまらない計算ミスやうっかりの書き間違いが目立つようになりました。……

「全部『よい』だった子はいたの?」

「倉持。渡す時に、先生が皆の前で立ち上がって、あいつの通知表を両手でバッと開いて見せてた……」

 京也は、苦虫を噛み潰したような顔で妙子の質問に答えた。倉持は二期連続で全項目「よい」なのである。

「他には?」

「オール『よい』はクラスで一人だけ。だけど、平野って女子が同じ成績だった」

「前からできる子なの?」妙子は聞いたことのない名だと思った。

「最近、目立ってる。同じ班だよ。女子では中野より良かったみたい。『あたし、池田くんと同じだあ!』って騒いでたよ……」

 屈辱だった。平野が自分と同じ成績だったのも面白くはなかったが、それより何より、自分が倉持に負けたのをクラス中に言いふらされたのも同然だったからである。

「でも、先生が平野に言ってた――同じじゃないって。黒板に山と平地と崖の絵を描いて、テストで八十五点以上取ればその項目は『よい』になるけど、平野のは崖っぷちの『よい』で、池田は頂上の方の『よい』だって――崖の所に『85』って、それから山頂の所には『98』って書いてた」

 京也は自身を慰めるかのように力なく付け加えた。

「治木先生らしい説明だね。この前、保護者会に行った時に、偶々かどうか分からないけど、図工の――何て先生だっけ?……ああ、そうそう、遠江先生が教室に入って来て、――授業中ふざけていることが時々あります、って言われたよ。もったいないって。だから、きっと今回は一つくらい下がると思ってたよ。いくら上手な絵が描けたって、授業中の態度が悪ければこういうことになるんだよ。入試では面接試験もあるんだから。男子校は余り関係ないのかもしれないけど、気をつけるんだよ」

「はい……」

 妙子の説教はこれで終わった。もっとも、その後仕事から戻った正則には、所見欄のことでこってり搾られた。学校では全部のテストで楽々満点を取れるくらいでないと、辻大木戸の選抜は受からないのだろう、京也はそう思った。


 その夜、子供達が布団に入ると、妙子はテレビの音量を下げた。しばらくの間、正則と妙子は刑事物に見入っていたが、画面がCMに変わったところで、妙子は独り言のようにぽつりと言った。――「京也、どうだろうね」

 正則は黙ってCMに目を向けている。妙子の声はCMの音量に負けて彼の耳に届いていない。

「ねえ――」彼女は先程より少し声を上げて正則の顔を見た。

「えっ?何だよ――」正則は大きな目を見せた。

「京也、どうかなって――」

「どうかなって、何が?」

「辻大木戸の試験よ」

「ああ、選抜試験か。最初だからな、――国立や私立の小学校に通ってるデキる子達がたくさん受けに来るだろう?いくら京也が小学校で一番だからって、そう簡単にはいかないだろうよ。『一般』には勿論入るだろうけど、多分、理科と社会で……算数と国語はいい所まで行くと思うんだ。まあ、今回はダメとしても、五年一期で会員に受かれば……真澄は最後の最後、六年三期だったからな。結局会員でいたのは三ヶ月だけで、それまでずっと一般生だったんだから。今考えてみれば、学校の成績も京也みたいに良かった訳じゃないし、あんなものだったんだよ。親の俺達も初めての中学受験で分かってなかったんだな……」

 正則は自らを納得させていた。妙子は夫の言葉の裏に、今度は絶対に失敗しないという静かな意気込みと、息子に対する計算された期待を感じた。

「そう言えば、同じクラスでは倉持君って子が、今回も全部『よい』だったみたい。京也、相当口惜しそうだったわよ。保護者会の時の、『お母さん、彼は主要四教科では学年に敵なしだよ』って先生の話は京也に言ってないから。でも、今日通知表を貰った時に、治木先生が同じ『よい』でも頂上と崖っぷちがあるっていうような話をしたんだって。きっと、京也は教室でも同じように口惜しそうな顔をしていたんだろうね……」

「まあ、あいつも大人しそうで、かなりの負けず嫌いだからな。男なんだから、それくらいでいいんだ」

「そうね、あんなにやさしい子なのに、ああいう激しい所もあるのよね。今日は特にそうだったわ……」そう言って妙子は目を伏せた。(つづく)

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