第8話 赤い顔

 好スタートを切ったはずの京也だったが、いきなり苦戦した。何故か、自分の思うように手際よく計算が進まない。――この一週間、京也は理科と社会に掛かりきりで、自宅で算数の問題を一問も解いていなかった。普段の生活の中で、国語用の脳に比べて算数用の脳を使う場面は少ない。頭を慣らしておくために算数は毎日やらなければならない教科なのである。まして、辻大木戸の三十分の算数は、出題形式が昔から決まっている。基本的に大問が七つ。――第一問が計算問題で小問が三つ。第二問は所謂「一行問題」で小問が五つ。第三問以降は小問二つから成る応用問題で、後ろへ行くにつれ難易度が上がる。但し、第五問と第六問とで難易度が逆転することもある。ざっとこんなところである。初っ端の三問の計算問題に備え、今朝家を出る前に二、三問、ウォーミングアップをして来るだけで随分違ったはずだった。

 ようやく三問を終えた時、開始から十分近くが経過していた。小問にして十五問を残りの二十分余りで処理しなければならなくなってしまった。しかも終盤には難問が控えている。

 エンジンの掛かり始めた京也は、一行問題五問を三分足らずで片付け、応用問題に突入した。畑の中の道の面積を求める問題や数列の規則性を見つける問題、池の周りに木を植える問題や買った二種類の果物の単価を求める問題などが並んでいた。急所を掴み切れないものが幾つかあったものの、何とか最後まで解き終えることができた。見直しをする間もなく、監督員の一教科目終了の合図があり、国語に雪崩れ込んだ。

 第一問は長文読解である。京也にとって読んだことのない話が出題されていた。が、彼はそこに登場する主人公の男の子の名に見覚えのある気がした。正則から手渡された真澄の自習シリーズをパラパラとめくった時に目に入っていたのである。

 京也は文章を読み進めるうちに、知るはずもない遠い昔の田舎の小学校が見えた。木枯らしに吹き飛ばされそうな酷く身体の小さな老婆が、この主人公の男の子にとっては計り知れぬ程大きな存在なのだろうと思われた。京也は幼少の一時期、朝から夕方まで妙子の実家に預けられていたことを不図、思い出した。と同時にその時面倒を見てくれた祖母が自分の中ではそれ程大きな位置を占めていないように感じられた。

 第二問は、短文中の語句の意味を問うものだった。京也は自信を持って解答できたものが殆どなかった。

「敵はからめ手から攻めてきた」という一文の「からめ手」の意味を、ア.城の西門、イ.城の正門、ウ.入り組んだ道、エ.城の裏門、この四つの選択肢から選ばせる問題も、正解するための知識を持ち合わせていなかった。一見して「ウ」を選び、次の問題に進もうとした。が、「ウ」が他の三つの選択肢と異質であることを却って不審に思い、考え直した。すると、城の正面を見張る大勢の兵士達の裏をかいた敵の兵士達が、槍を携え大挙してその反対側から突き進んで来る――そんな場面が物語の挿絵のように浮かんだ。「ウ」を消して「エ」と書いた。

 第三問の漢字の読み書きも、特有のものが含まれ、京也は手を焼いた。「遊説」などという言葉は見たこともなく、そのままの音読みで「ゆうせつ」と答えた。

 続く理科と社会の十八分はあっという間に終わってしまった。この一週間の準備が役に立ったのかどうかも意識できないくらいだった。

 試験中ずっと下を向いていたせいか、京也は上げた顔に火照りを感じた。周りを見ると、皆、赤い顔をして半ば放心状態である。

「とにかく終わった」――そう思いながら、彼は解答用紙だけを机の上に残し、あとの物は鞄の中にしまい込んだのだった。(つづく)

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