第10話 及第点

 週明けの月曜日、京也は学校から戻っていつものように子供部屋に入ると、机の上に長形の窓付き封筒が膨らみを持って無造作に置かれていた。――選抜試験の結果が届いたのである。

 茶封筒のセロハンの窓からは、京也の書いた住所と氏名の複写ではなく、印刷された細かな活字が左右逆に薄らと覗いている。京也は封筒には触れず、その横に鞄を置いて隣の居間の妙子の許へ行った。彼女は正則とテレビの時代劇を観ていた。

 そうだ、今日は父さんの帰りが早い日だったんだ……京也はそう思いながら、二人の顔を見た。声を掛けられるのを待っていたが、正則にテレビの画面から視線を移す気配はない。妙子はテレビに顔を向けながらも、正則の様子を横目で見て取ると、棒立ちの京也を見上げた。

「デキる子はたくさんいるんだね」正則に言っているようだった。

「あれ――見てもいいの?」

 京也は、封筒の中身を確認したいというより、この場にいてはいけないような気がしてそう訊いた。

「あら、まだ見てないの?よく見た方がいいよ」

 京也は子供部屋に戻り、椅子に腰掛けた。封筒の中身を全て取り出して三つ折りを広げると、住所と氏名が複写された紙面が内側から現れた。その下の欄には、合計得点と各教科の得点が赤のサインペンで、順位が万年筆のブルーインクで、それぞれ書き込まれている。――合計二〇〇点、算数六十六点、国語六十八点、理科三十四点、社会三十二点、一二一六位。京也は、順位よりも点数を見て「会員」には入っていないな、と思った。と同時に、居間で見た正則の横顔が目に浮かんだ。もはや「からめ手」のことなど何処かへ行ってしまっていた。

 間違いが多いな――解答用紙をめくりながら、そう思っていると、妙子が部屋に入って来た。

「がんばって早く上にあがらなきゃダメだよ」

 妙子の表情は険しかった。

「一般生でしょ?」

「当たり前じゃない、その成績で会員の訳ないよ」

 同封されていた、「一般」とスタンプのある入室申込用紙は、明後日の申込みに備えて既に抜き取られ、妙子のバッグの中にあった。

 結局、その日の京也は、正則から選抜試験の結果について何も言われずに終わった。


 入室申込みの当日、妙子は受付開始時刻の午前九時より一時間以上早く中野に到着した。辻大木戸の本部までは駅から歩くこと七、八分――その道程には彼女と同じような年格好の女性が先を急ぐのがちらほら見えた。

 「一般」の場合、会員と異なり、これから日曜日に通う会場は早い者勝ちである。辻大木戸は、中野にある本部の建物以外に固有の校舎を持たず、大学や専門学校の校舎の一部を日曜日だけ借りている。これは会員も一般も同じである。この四年三期においては、会員の会場と一般の会場がそれぞれ三箇所設置されている。これが五年生、六年生となると、通塾生の人数が増えていくから、最終的には倍くらいになる。

 妙子が本部に着くと、受付窓口はまだ開いていないものの、既に母親達の行列が大きく二つできていた。彼女は、左側の、人数の少ない方の列に着こうと、右側の長蛇の列をかき分けて進んで行った。すると、目指す先に札のようなものが立っているのに気がついた。背の高い方ではない妙子は、反り返ってせわしなく首を左右に傾けた後、自分がその列に並ぶべき者でないことを知った。その札には毛筆で「会員受付」と書かれていたのである。そして、その隣の列の先頭付近には、同じ手で「一般受付」と書かれた札が立っていた。妙子は右側の列の最後尾に戻った。後からやって来た母親達の中には、妙子と同じように決まり悪い思いをする者も少なくなかった。

「朝からお通夜の受付みたいだわねえ……」後方で誰かが言った。

 妙子は「確かにそうだ」と思いながらちらりと振り返ると、すぐ後ろの女性と目が合ってお互い苦笑した。

「何で会員なのにこんなに早くから並んでいる人がいるのかしら……」そんな会話が今度は前方から聞こえて来た。――もっともな疑問である。この進学教室の会員が、成績順で会場を指定されることは余りに有名である。通う側で場所を選ぶ余地はない。しかも、この日の受付時間帯は指定された会場別に割り振られている。今の時間、ここに並んでいるのは、選抜試験で最も成績の良かった子供達が指定される「四谷会場」の集団である。にもかかわらず、こんなに早い時間から並んでいるのには理由があった。

 辻大木戸は、週単位で自習シリーズを各自で学習し、「日曜テスト」とその解説講義を受けるのがコースの基本である。ところが、会員にはそれとは別に特典とも言えるコースがある。毎週平日二日間の「予習教室」と土曜日の「演習教室」がそれである。前者は、自習シリーズを教材とする講義であり、後者は翌日のテストの予行演習である。特に演習教室の方は例年人気が高く、あっという間に定員が埋まってしまう。この日、会員は基本のコースの申込みに併せて、この特典の申込みを行うことになっている。予習教室、演習教室、日曜テストのフルコース――これは会員にのみ案内され、一般には知られていないメニューなのである。

 八時五十分になると、受付窓口が開き、その五分後には列が進み始めた。

 妙子は、早くから並んだ甲斐あって希望していた、自宅から最も便のよい会場を取ることができた。四谷会場である。この会場は、J大学からその八号館の教室を借りて運営されている。会員の四谷会場は六号館の教室――同じ敷地内で建物が異なる。クラスは、本番の入試が大半の中学で午前中に実施されることから、それに慣れるよう、午前組の希望者の方が午後組のそれより圧倒的に多い。運よく、今回はこれも希望通り午前組となった。


 京也は、「四谷一般午前」と裏面にスタンプされたグレーの受講証と日曜テストのスケジュール表、「自習シリーズ」と副教材の「計算演習」、「漢字演習」を妙子から渡された。

「がんばって次は会員にならないとね」

 妙子の表情は穏やかだった。希望通りの会場とクラスを取れた満足感からである。

「ねえ……」

 京也は、そんな彼女を機嫌がいいと見て、この数日間気になっていたことを訊いてみようと思った。

「何?」

「父さんは選抜のこと、怒ってるのかなあ……」

「ああ、別に怒ってはいないよ。でも、がっかりしたみたい。理科と社会が足りなくて落ちると思ってたのに、算数と国語ができてなかったって」

 京也の頭の中では、返却された成績表の得点欄にあった赤インクの二つの数字――「66」と「68」が浮かんだ。算数、国語各八十点、理科、社会各三十五点で合計二三〇点。正則が真澄の時から掲げている基準だった。理科と社会の得点は、それぞれ三十四点と三十二点で正則の基準に近かったのである。(つづく)

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