第11話 朝の地下鉄
辻大木戸のテストはこの前の選抜試験で一度経験してはいるものの、京也にとって学習の進め方は手探りだった。真澄に訊いてみると、スケジュール表に書いてある通り自習シリーズをやればいいということだった。副教材については、「漢字演習」はやらなければダメだが、「計算演習」はやってもやらなくても変わらない、とアドバイスを受けた。京也は、その週の自習シリーズと漢字演習の出題範囲の問題を一通り解いて第一回のテストに臨んだ。
当日の朝、早起きが得意でない京也も、最初の日曜テストとあって、寝坊せず、緊張感を持って支度を済ませた。妙子と一緒に家を出たのは、予定より少し早い七時五分だった。
京也の会場は四谷だが、J大学側の都合で初めの三回に限り八号館が使用できず、代わりに茗荷谷のT大学が臨時の会場として指定されていた。
日曜日と言えども、朝のこの時間の地下鉄は混雑していた。電車に乗り慣れない京也には、これだけでもかなりの負担だったが、妙子が一緒ということもあり、家を出た時の緊張感は持続されていた。二人は大手町で下車し、丸ノ内線への長い連絡通路を進んだ。
「さっきの電車の中で、後ろにいた男の人が京也の鞄を邪魔そうに嫌な顔をしてたよ」
妙子は険しく細めた目でそう言いながら京也の顔を見た。
不意を突かれ、妙子を見返すことなく自分の右肩を顧みると、その上に乗った右手の甲を無言で下ろした。
「混んだ電車の中でそうやって背負うと、他の人の迷惑になるからね……」
京也は妙子の独り言のような話しぶりに、自分を忌々しく見下ろすスーツ姿の男の顔が頭に浮かんだ。自分の気づかぬところでそんな事が起きていたのかと思うと、足取りが重くなった。いつもの妙子なら「いい?もうやっちゃダメだよ」ときっちり言を結ぶところ、それがないのも気になった。
二人はシャッターの下りた銀行の青緑色の看板を通り過ぎた。以前、家族四人で入った不二家のパーラーが左手に見えて来ると、右手に丸ノ内線の改札口がいきなり現れた。――
この路線は、図らずも京也にとってオアシスとなった。朝でも混雑なく悠々と座ることができ、乗車時間もそこそこある。地下鉄であるにもかかわらず、時折地上に顔を出す。これが気分転換になる。
駅の出口は英朋学園とは違った。大勢の親子連れが同じ方向へ進んでいた。選抜試験の時の三田程ではないが、これならT大学までの道順を知らなくても心配には及ばなかった。
「来週は一人でいいんじゃない?」妙子はからかった。
「んー、まだ最後まで行ってみないと分からないけど……」
京也は真に受けて困った顔をして俯いた。
八時三十分からの一時間三十六分はあっという間に過ぎた。
京也は、顔に火照りを感じながら、「選抜」より問題は易しかったがその割に出来は良くないと思った。
解答用紙の回収が終わり、十五分程度の休憩を挿んで解説講義が始まった。教室の後方では、子供達のテスト中に「父母教室」で講師達から学習のガイダンスなどを受けていた親達が見守っている。
この日は算数、国語、理科の三教科の解説があった。算数の講師はテスト問題の中でも難易度の高い応用問題を選び、式や考え方を板書しながら説明していく。一コマ三十分の最後のところでそれまで扱わなかった計算問題や基本問題の正解を早口で読み上げた。
「はい、満点」
講師はチョークで白くなった右手を挙げて見せた。
すると、十人ちょっとの手が挙がった。
「じゃあ、九十点」――先程の倍くらいの手が挙がった。
「ここまでかな。できなかった問題はよく復習しておいてください」
講師はそう言って笑顔で教壇を降りた。
京也は、周りから手が挙がるのを振り返って見ているだけだった。自分より勉強のできる人間を初めて目の当たりにした瞬間だった。それも一人や二人ではない。これはブルーインクで記された選抜試験の順位より鮮烈だった。しかも、その上には更に九〇〇人いる。京也は受け容れ難い現実を突きつけられ、何かで見た修行僧の苦行に耐える姿が、これからの自分の姿と重なっていた。
「がんばらないとダメだね。一般生でもあんなにデキる子がいるんだから」――帰り道での妙子の一言は、京也にとって「傷口に塩……」どころではなかった。(つづく)
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