7 樹と僕ら


 もう何も、僕らを追ってくるものはいなかった。


 僕らは手をつないで、黄色い森を散歩する。光に続く道を二人で歩いた。


 視界が開けた。森の中に突然現れた広場の中心には、この森の主のような、大きい黄色い葉の樹が立っている。まるでこの広い空間は、森が主のために用意した空間みたいだ。

 そして主は、根で広場全体を埋め、力強くたっている。上を見上げると、黄色い葉の天井が他の場所よりも高い。中心の大樹一つで広場の空を埋めていた。


 その木の幹には、老人の顔が埋まっていた。


 樹の幹に仮面がかけられているように見える。しかし仮面にしてはリアルで、目や鼻のための穴はなく、首がついていて、首は幹につながっている。

 艶も美しさもなくした白髪。白く長い眉毛。穏やかに目を閉じている。目じりや頬に刻まれた、たくさんの皺。

 見たこともない老人だが、面影があり、彼が誰だか分かる。


「ヒョウギ……」


 隣でルティが呟いた。

 ルティが僕の手を放す。


 僕は彼に触れてみた。肌はかさかさしていて張りがない。触っても感覚がないのか、意識がないのか、彼は眉一つ動かさなかった。だが彼は、暖かかった。脈が静かに波打ち、彼の生を刻んでいる。瞼を開いてみると生の光りが宿っていた。


「生きてるんですね。あなたは」


 幹に触れてみると、彼と同じリズムで静かに脈打っていた。

 彼は樹と同化し、この広場どころかこの世界中に根を張り巡らせて、世界を創造しているのかもしれない。


「ダン。どいていろ」


 言われたとおり、僕は彼女の後ろに下がった。彼女が腰の剣を抜く。


「私たちは、この世界に閉じ込めたものを――つまりはお前を、恨んでいた。ただ理不尽に私たちを閉じ込めたと。だが今は、お前の話を聞いた今は、お前の気持ちはわかる」


 彼女が彼に、一歩近づく。


「しかし、私たちは帰る。光の世界へ。皆の願いだ。私はそれを叶えたい。叶えるんだ。そうすれば……」


 静寂が降りた。彼女は一向に剣を振るおうとはしない。


「……そうしたら……光の世界は、お前が嘆いた混乱に満ちた世界になってしまうのか?」


 彼女の肩が、大きく震えだす。


「お前は家族を、世界を守りたかったんだよな。私も守りたいんだ、お前は生きているんだよな。私も死にたくはない、殺したくない。私は一族の願いを背負ってるんだ。お前は世界の人の命を背負ってこの世界を……」

「ルティ?」


 彼女の目は大きく見開かれた。空の重い黒を宿してしまったような瞳には、何もうつされていなかった。


「なぜ私たちを殺さないんだ、お前はどれだけ世界を愛していた家族を愛していた! こんな姿になって自らを犠牲にするほどだろう! なのになぜだ。なぜ止めない! 殺すぞ。私はお前を殺すんだぞ、答えろ!」


 僕は背負っていた鞄を下ろし、地面に中身をぶちまけた。


「なぜ答えない! お前の想いはその程度だと言うのか! ならば、ならば私は……!」


 彼女自身を引き裂きそうな悲鳴が、彼女の口からほとばしった。

 僕は地面に落ちている目的のものを拾い上げ、彼女を後ろから抱きしめ、拾ったものを握りつぶし、それにまみれた手で彼女の口をふさいだ。


 悲鳴は消え、彼女の手の中にあった剣が地面に落ちた。体重が僕の方にかかってきたが、彼女の身体はあいかわらず軽くて、抱きとめるのには何の問題もなかった。


「……ごめんね」


 彼女の耳元で呟いた。


「ごめんね」


 もう一度呟き、麻酔薬に濡れた手で、彼女を強く抱きしめた。





    * * * *





 どれくらいの時間がたっただろうか。

 背中の方から人の気配がした。でも僕は億劫で、振り向くこともしなかった。


「お前がそんなに嘆く必要はないだろう」


 若い男の声だった。僕たちが生まれ育ったこの世界を創造した男の声。この世界を創った男の《心》の声。


「僕は彼女の想いを踏みにじったんだ」

「お前はその女のためと思ってしたのだろう」


 腕の中の彼女を、さらに引き寄せて、肩に自分の顔を押し付ける。


「ただの、僕の自己満足に過ぎない」


 怖くなった。僕の友人たちが、世界の人間を喰い漁る世界に行くのが。そんなものは見たくなかった。

 でもそれよりも、もっと怖いことがあって、そいつは僕を動かしてしまった。

 結局はすべて、僕の自己満足だ。


「自己満足。そうだな」

「はい」


 樹の根を枕にしてルティを寝かせる。僕に彼女を抱きしめ続ける資格なんてないから。


「私がしたことも自己満足だ。惚れた女を守りたかった。たったそれだけで、お前たちをここに閉じ込めた」


 振り向いて彼を見た。後ろで結んである長い銀髪が肩を包み込んでいる。若々しくつやがあり、銀色に輝いている。肌は皺なんかひとつもない。彼の《心》の姿は、愛した女性のためにすべてを捧げた、当時のままの姿なのかもしれない。


「なぜ、僕らを殺さなかったんですか」


 思考と行動が合っていない。僕はこんな疑問、どうでもいいのに。


「お前たちは私を殺さないとわかっていた」


 ぼんやりと上を見上げる。黄色い天井にところどころに丸いものが混じっている。他の黄色い樹とは少し色の違う形をした木の実だ。うまいのかな。なんとなく身体によさそうだ。


「私はこの森のすべてを見通せる。お前たちが誰かを殺せないことは、見ていればわかった。それに私は人を殺すためにこの世界を創ったわけではない。お前達も私と同じだと感じた。誰かを不幸にするために帰りたいわけではない、と」


 幸せでいてほしい。不幸にしたくない。

 本人がそれを望んでなくても。自己満足でも。

 僕は、一番大事だと思える人に側にいてほしい。

 僕は、自分が産まれて生きてきた世界で、これからも生きよう。生きていこう。


「ありがとう……ございます」

「礼など言う必要はない。私はお前たちに詫びなければならない立場だ」

「ありがとうございます。今まで僕らを生かしてくれて」


 太陽がなくてもなぜ僕らは生きていけるのか。それは目の前の彼が、ずっと太陽の代わりをしていてくれたから。

 温かい気配がして、幹の方を振り返ると、本当の彼が涙を流していた。


「あの店のマスターに伝えてくれ。久しぶりにうまい酒が飲めたと」


 彼の《心》が地面を離れる。昇って、ゆっくりと昇っていき、木の傘より上に昇って見えなくなった。枝から何かをちぎるような音がして、しばらくして降りてきた彼の手の中に、何かが握られていた。


 右手にはこの樹の黄色い葉が。左手には丸い、他の木の実よりも淡い色――橙色をした木の実だ。

 二つを僕の膝元に投げてよこす。


「葉の魔気を開放させればその女の里に着くよう、術をかけた。使うといい。そしてその木の実は――」


 僕は木の実を手に取ってみた。木の実は人の手みたいに暖かかった。



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