4 僕らのこの世界を創った人がいるらしい
優しくも強そうな微笑みをたたえる、蝶の羽を背中に広げた、どこかルティに似ている女神像。
鍾乳石から落ちた雫が、彼女の持つ水瓶に飛び込んでいく。
水瓶は、雫がひとつ落ちるたびに一滴一滴を溢れさせていたが、今は溢れることはない。女神が集めた聖水を使って、ババ様が世界を解き放つために必要なある物をつくるという。
里のはずれにある洞窟の最深部に、その女神像は祭られていた。
ババ様が壷に汲み入れた女神の聖水を、棒でかき混ぜながら煮立てている。何かの薬品を混ぜ合わせたせいか、奇妙な刺激臭が鼻をついた。壷からは紫の湯気が立ち昇っている。
「そろそろいいかね」
かき混ぜていた手を止めて、ババ様は熱いはずの壷に手を添えて壷に魔気を注ぎ込んだ。風船の割れるような破砕音がして、刺激臭がおさまり、一緒に紫の蒸気も掻き消えた。
「ん。いい感じに抽出できたようだね」
満足そうに頷いて、ババ様は作業を続けた。
「本当にあの人が……この世界を創ったんですか」
未だに飲み込めない思いで、僕はルティに訊ねた。
『あの人』というのはマスターのバーにいて、ルティが追いかけていた銀髪の男のことだ。
「そうだ。数日前、七十年に一度あるお告げで、女神様が教えてくださった。奴があそこに現れるということもな。女神様のお告げは今まで違えた事がない。間違いなくあの男――ヒョウギが、この光のない世界に私たちを――正確には長様の世代の人たちを――閉じ込めた元凶だ」
人が世界を、一つ丸ごと創造し、何十年も維持し続けている。簡単には信じきれない。だけど、自分達は昔この世界とは違う世界から堕とされてきたのだ、といっていた親父の話を思い出すと頷ける気もした。自然現象でひとつの大きな空間が出現するよりも、それほどの力を持った術者がいた、と考えたほうがまだある話のように思えるのだ。
「ほらルティ。できたよ」
ババ様が完成した物をルティに投げて寄越した。片手で無造作に受け止められたそれは、彼女の掌におさまるくらいの大きさをした、丸いガラス玉だった。中には先ほど壷でぐつぐつやっていた液体が半分ほど入っていて、液体の上に針が浮かんでいる。
「それで、あの人の居場所がわかるんですか?」
僕が覗き込んで訊ねると、ルティは掌の上で玉を転がした。中の液体がどんなに揺れても針は一定の方向を向いたまま動かない。
「ああ。この液体は奴の髪の毛から魔気を抽出したものだ。この針が、その魔気の持ち主を示してくれる。女神様がお告げを下さるのは七十年に一度だけ。だからあの男を見つける方法はこいつしかない」
ババ様は平らな石の椅子に「よっこいしょ」と腰を下ろし、腕組みしてルティに問いかける。
「しかしルティ。一度はやられた相手だ。大丈夫なのかい?」
ルティは大きく頷いてみせる。
「大丈夫だ。あの時私はあの男自らが、この世界から私たちを開放するというなら殺さないでおこうと、情をかけた。それが油断につながってしまった。今度はそんな甘いことはしない」
「そうかい」
ババ様は彼女の決意が固いことを悟ったのか、ルティにはもうなにも言葉をかけなかった。代わりとばかりに僕の方に向き直る。
「……と、言うわけだ坊主。心配せずに、お前さんは自分のうちへ帰るといい」
「送ってやる。ついてこい」
ルティは洞窟の出口へ向かって歩き出した。ババ様は彼女を無言で見送る。僕は戸惑いつつ、彼女の背中を追いかけて外に出た。
「あ、あの……」
震える唇で、彼女の背中に向かって言葉を紡ごうとした。
けれど意味のある言葉が頭にまったく浮かんでこない。口にパクパクと意味のない動作をさせるしかできなかった。
「どうした? 心配しなくてもちゃんとお前の家まで……」
「そうじゃなくて!」
思わず出してしまった僕の大声に、彼女は目を丸くした。
どうしよう。このまま帰りたくない。彼女について行きたい。でもきっと、ついて行ったら戦いが待ってる。そうなると、戦いが苦手な僕がついていったら足手まといになっちゃうだろうな。
僕は彼女の目を見れないままうつむいて、頭をこねくり回して考えて、結局は半分本音じゃない言葉を口にした。
「無理はしないで。君はこの村の人たちに慕われてる。もしも君が死んだら……」
「ついて来たいのか?」
驚いて頭を上げた。
「なんでわかっ……」
「お前も見たいと思っているのだろう? 太陽がある世界を。それに――」
彼女はからかう素振りもなく、無表情で、恥ずかしげもなく言った。
「私に魅せられてるようだから」
――なっ! な、な、なぁあっ!
僕の脳みそが噴火した。
「さっき……! さっき僕をからかうあの子達をたしなめていたのは君だろう! なのになに! ……なに言って……!」
熱が頭に収束して口から言葉が噴火した。が、自分で何を言ってるのかわからなくなり、唇という火山はすぐに活動を停止してしまった。
いや、表情からしてからかってるわけじゃないんだろうけど……。
今も彼女は『何を慌ててるんだ?』と言いたそうに首を傾げている。
「違うのか?」
「ちがっ! ちが……ちが……ちが……っ!」
――わないけど! でもそんなこと真顔で正直に言わないでよ!
「悪いがお前は連れて行けない。死ぬかもしれないんだ。軽々しく誰かを同行させるわけにはいかない」
煮えたぎってしまった頭が、ルティの冷静な言葉に冷やされた。
――死ぬかもしれないが私は一人で行くんだ――
そんな風に聞こえて、彼女は僕の仲間じゃないのに、酷く寂しく感じた。
「わかってます。でも、ついて行きたいです。あなたが怪我をしたら治します。魔気に支配されたら取り除きます。足手まといになったら置いて行ってくれても構いません」
さっきはこれを伝えようとして震えたけれど、もう震えはどこにもなかった。
青い空が見てみたかった。僕に『ありがとう』と言ってくれた彼女の役に立ちたかった。僕にできるなら、彼女と一緒にこの世界を闇から解き放って、みんなを幸せにしたかった。
だから僕は行きたいんだ。
「本気で言っているのか」
「はい」
戸惑っていた瞳が、厳しく僕を見た。
「帰れないかもしれないぞ」
「はい」
「危険なことが起こっても、私はお前を助けないかもしれない」
「はい」
「死んでもいいんだな」
「はい……!」
無言で彼女は僕の瞳を見続けた。やがて、
「なら」
僕に向かって手を差し伸べた。
「来い」
彼女の唇に微笑が浮かんだ。僕に初めて向けてくれた笑顔だ。
「また口が開いてるぞ」
彼女は僕の腕を掴み、僕は彼女の方に引き寄せられる。
引き寄せられるまま、彼女に身をゆだねていた。
が、彼女が僕の背中に回って腕の下に手を差し込み、「行くぞ」と声をかけられた瞬間思わず顔が引きつった。
……ちょっとまって! まだ……!
しかし彼女を制止しようと口を開く前に、足は地面から離れていた。
「きゃあぁぁあああーーーーーーー!」
――と言う間に彼女の村は眼下に去っていった。
「うるさい、動くな、黙っていろ」
彼女は前と同じようにクールに言った。でも心なしか喜色が混じっているのは僕の気のせいだろうか。
「前にも言っただろ! 心の準備をさせてくれって! ちょっと聞いてんのか、おい!」
怒りと、それと――情けないながら――ビビったのとで、つい理性が吹っ飛び丁寧語が落ちた。それでも彼女はなんだかちょっと嬉しそうだ。……もしかしたら僕で遊んでるんじゃないだろうか、なんて疑ってみたくなる。
足元を見ると、彼女の村はもうとっくに遠ざかっていた。『死んでもいいんだな』って言ってたのは、ここで落とされることなんじゃないか? とうっかり考えてしまった。
前を向く。相変わらず空は黒くて寂しかった。
でも、もうすぐ父に聞かされ、憧れていた青い空が見られるかもしれないんだ。
* * * *
目がチカチカするほどに、まっ黄色な葉をつけた樹ばかりが目立つ森を、空から見下ろす。
魔気を含んだモノは黄色く色づくが、これほど濃い黄色をつけた森を僕は初めて見た。
「あ、あの森だ。あの森の中心を指してます」
僕は魔気のコンパスを見ながら、森の中心を指さした。
彼女は手がふさがってるので、コンパスは僕が見ることになった。空を飛ぶ前に彼女は僕のポケットにコンパスを入れていたのだ。全然気づかなかった。身体能力が高いとそんなことも得意になるんだろうか。
「そうだ、ダン。もう私に敬語で話すのはやめろ。私たちはもう運命共同体だ。そうだろう?」
彼女は僕が言ったことには言葉を返さず、そのままコンパスが指し示しているあたりの森に向かって、ゆっくりと降下していく。
そうして僕は、彼女の言った言葉を心の中で反芻する。
運命共同体……。
「……うん……」
ああくそっ。素直に頷いてしまった。マイペースな彼女の発言にいちいち反応なんかしてたら身体が持ちそうにないってのに、どうしてもどきどきする。耳まで熱い。畜生……。
気を紛らわそうと、もう一度コンパスを確認した。
――あれ?
動かなかったはずの針が、奇妙に振るえた気がした。
その時、ルティが何か驚いて息を吸い込み、途端視界が――全身が傾いだ。
「ぅわっ!」
ルティがバランスを崩したらしい。視界が上がったり下がったり、迷走を始める。
「ちょ! ルティ、どうしたの!」
「羽が……!」
彼女が悲鳴のように小さく叫んだ。首をひねって彼女の背中を見ると、羽が端の方から砂になって舞い散っているのが見えた。
「まって、つまりこれって……!」
「落ちる……!」
「ええぇえ!」
視界の天地が逆さまになり、僕の身体はルティの手から離れてしまった。重力に従って降下のスピードが速くなる。目の前にどんどん森の黄色が迫ってくる。
――こんな……こんな志半ばどころか始まったばかりで僕ら、終わっちゃうの?
と、視界が何か柔らかなもので塞がれた。頭や胴をがっちり固定される。僕はその、自分の目を塞いでるものにしがみついて、きつく目を閉じた。
樹の幹が折れる音や、葉が飛び散る音が、派手に聞こえた。
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