5 僕らを拒む森の住人 僕らをもてなす森の住人


 耳に届くのは朧げな音。水の中にいるかのように、僅かにしか聞こえない。遠くのような、近くのような何処かから、誰かが誰かを呼ぶ声がする……。


 どうやら僕のことを呼んでるらしい。でも、誰が僕を呼んでくれているのか判別できない。


 背中の下がごつごつしている。何でこんな所で寝てるんだろう。ドリークに無理矢理酒でも飲まされて潰れちゃったんだったかな。すっぱいような甘い匂いが漂ってる。マスターが入れてくれたお茶かな。初めて嗅ぐ香りだから、もしかしたら新作かな。……ああ、床で寝ちゃうなんてはしたない。

 寝心地が悪くて身じろぎすると、左の手首を痛いほどに握られた。


「いたい……ドリーク……。そんな握らないでください……」


 口の中だけでそう抗議して、ゆっくりと目を開いた。

 初めに目に映ったのは、天井のように敷き詰められている樹の葉の黄色だった。マスターの店じゃなかった。黄色い天井に縦横無尽に伸びている幹には、淡く金色の光を放つ、見たこともない果実が実っている。甘い匂いの正体はおそらくあれだろう。

 僕の手首を握っているのもドリークじゃなくて、華奢な、それでも力強い背中の女性だった。


「ル……ティ?」


 そうだ。思い出した。光を――元の世界を取り戻すために彼女についてきて、この森の上空を飛んでいたら彼女の羽が消えて、ここに落ちた。

 あの高度から落ちたというのに、身体のどこにも痛みはなかった。僕は起き上がろうとして地面に手をつこうとした。


「動くな」


 極力周囲に響かないよう、微かな声で、言う。彼女の声の響きには、言葉の意味とは関係なく、僕を凍りつかせる力があった。

 低い唸り声がした。ルティの視線の先にいる、何かから。

 ほんの少しだけ首を起こしてみる……と、殺気という槍で全身を射抜かれた。


人魂獣じんこんじゅうだ」


 白い獣がこちらを見ていた。

 背を向ければすぐに飛びかかれるだろう距離から。地面から好き放題生えている太い木々の間で、こちらを窺っている。長く白い体毛を纏った四足の身体。前足の間から覗く、目立つ豊満な乳房。体毛に隠されてよく見えないが、その顔は紛れも無く人間のもの。


 獣臭く血の色をした歯茎を剥き出しにし、低く唸り声を上げている。まるで世界の何もかもに、止めど無く憎しみが湧いてくるかのように。

 人魂獣――それは天に召されなかった人間の魂が、生前の恨みを持ったそのままで、生まれ変わった存在。


「どう……するの」


 僕はできるだけ唇を動かさないように、彼女に問いかける。


「襲いかかってくるのならば、斬る」


 ルティが腰の剣に手を掛ける。《彼女》が一歩、にじり寄る。


「帰れ。お前が何もしないなら、私も何もしない。私たちはお前が目的で来たのではない」


 もともとが人間である人魂獣は人語を解したはずだ。しかし《彼女》はルティの言ったことが理解できているのかいないのか、説得に応じる素振りもなく、一歩をまた踏み出す。

 頭の中に直接、声が響いた。


『――奴らのにおいがする――』


 耳が切り裂かれてしまいそうな絶叫が、森に響く。

 唸り声。激しい息遣いの音。涎を撒き散らし、《彼女》の足が地面を蹴った。連続する足音が徐々に大きくなる。近づいてくる!


「くそっ」


 同時にルティが地面を蹴る。目を瞬く間も無く。ルティが《彼女》の懐に飛び込んだと思った瞬間、《彼女》は真っ二つになり、重い音を立てて地面に落ちた。

 静かになる。無意識に止めていた息を吐いた。


「……やっぱり、すごいね」


 僕にはまったく何が起こったかさえ見えなかった。服の汚れを払いながら立ち上がる。

 ルティは僕が言ったことには何も反応を示さず、剣を腰の鞘に収めた。血も何も流さず、目を見開いて動かなくなった人魂獣の方を振り返り、傍らに膝を突いた。


「すまなかった。安らかに眠ってくれ」


 呟いて、分かれたふたつの身体に手を置く。ルティが目を閉じると人魂獣は砂になり、地面の土と混じって一体になった。あとには鼻が壊れてしまいそうなほどの腐臭が残った。それもすぐに風に掻き消されて無くなった。

 ルティは膝を突いた姿勢のまま、しばらく動かなかった。目を閉じたまま、声を出さずに口を微かに動かしている。

 彼女が何かの詠唱を終えて立ち上がり、僕を一瞥する。


「いくぞ」


 言ってすぐ、彼女は自分の表情を隠すように俯いた。声もいつもより低い気がした。

 どうしたのか訊ねようと彼女の側に駆け寄ろうとした。が、彼女は不意に驚きの表情で顔を上げ――走り出した。


 僕の脇を駆け抜けて行く。――なんだ? と思って彼女の方を振り返る。彼女は樹の陰に向かってしゃがみこむと、顔を青ざめさせた。

 追いかけようとしたとき、魔気のコンパスが茂みの中に転がってるのを見つけ、拾ってポケットに突っ込んだ。


「ダン! 早く診てやってくれ!」


 悲痛な声で僕を呼ぶ彼女に走り寄る。彼女の視線の先には老人が仰向けで倒れていた。彼の肌は樹の葉と同じで黄色かった。


「心配ないよ。これはただの魔気詰まり」


 僕は老人の側に膝をついて鞄を下ろし、魔気を体内にとどめるための魔気膜に干渉できるよう術を施してある針を取り出した。

 魔気詰まりというのは長期間、魔気で術を発動状態にしておくとたまに起こる現象だ。


 溜気病と似てはいるが治療は簡単で、僕は目を魔気で強化し、普通では見えない体内の魔気の流れを観察する。魔気がたまっているところを見つけてそこを、ちょい、と針でつついてやる。

 しばらく見守っていると、老人はゆっくりと薄目を開いた。


「大丈夫ですか?」


 僕が訊ねると、彼は何度も瞬きしたあと、辺りを見回し戸惑った声をあげた。


「わしは……ここで倒れとったのか?」

「そうだ。そこでこの男があなたを助けたんだ。感謝しろ」


 おじいさんを診ている間、ずっと傍らに膝をついていたルティが彼に答えた。


「いや……そんな命令して感謝させたってさ……。とにかく、魔気の掛けっぱなしは良くありませんから注意してくださいね」


 前半はルティに、後半はおじいさんに言いながら、僕は彼の上半身を抱き起こした。魔気を抜いてもその一瞬後に治る、というわけではないのでおじいさんは苦しそうに少し頭を押さえたが、しっかりした声で喋った。


「ああそうだったか。ありがとうなぁ、にいさん」


 彼は僕の手を握って上下に振り回しながら「ありがとう」を繰り返した。結構元気そうだ。これなら数分後には立って走れるようになるだろう。


「立てますか?」

「ああ、なんとかなぁ」


 僕とルティは先に立ち上がって、おじいさんに二人で手を差し伸べた。彼は差し伸べられたふたつの手を取り、立ち上がってみるがふらりと僕の方によろけてきた。彼は「大丈夫、大丈夫」と、手を振って僕から離れようとしたが、やはりうまく立てずに座り込んでしまった。


 結局僕らが両側から肩を貸して、彼の家まで送ることになった。家は森の出口付近にあると言う。送っているとき彼は終始「ホントあんたらいいやつらだなぁ」と連呼していた。

 開けた場所に小さな丸太小屋が建っていた。たどり着いたときにはおじいさんは一人で歩けるまでに回復し、玄関までの短い階段を自力で登った。


「にいさん達よぉ。よかったら上がっていきな。茶でも出すぜぇ」


 階段の手摺にもたれながら、並び方の悪い歯を剥き出して、人懐っこそうに笑った。


「私達はこの森の奥に用があるんだ。悪いがそんな時間は無い」


 ルティは有無を言わせない雰囲気できっぱりと断った。おじいさんは眉を少し吊り上げる。しかし別に断られたことを怒っているのではなさそうだ。


「あんたら、森の奥へ行くってのかい」

「はい」


 僕が答えると彼は緊迫した面持ちで僕を睨んだ。


「そりゃあ八つ裂きになるぜ、にいさん」



    * * * *



 結局僕らはおじいさんの家に上がらせてもらうことにした。あんなことを言われたら詳しい話を聞かないわけに行かない。――いや、僕らは最初からそういった危険を想定してここに来ているわけだけども。詳しく知っている人がいるなら、先に情報を仕入れておくに越したことはない。


「どうだ、わしのつくった菓子と茶ぁ。うめぇだろう」


 おじいさんはもう普通に動けるようになり、僕らに菓子と茶を振舞ってくれた。

 確かに出された菓子と茶は美味かった。何かの果実を練りこんだクッキーと、森の葉と同じ色をしたお茶は、どちらも独特の風味があって味わい深い。だがルティは出されたものには手をつけずに、落ち着きなく指でテーブルをたたいている。


「それはなぁ、この森でしか取れない果物を使ってんだ。そいつを採るためにわしゃあ、ここに住んどる。大いに堪能しろ」


 誇らしげに言ったおじいさんを、ルティは睨んで言った。


「菓子の話などどうでもいいんだ。お前が言う、私達を八つ裂きにするという存在が何なのか、早く話せ。もしかすると人魂獣のことか」


 そのルティを見ておじいさんは溜息をついた。


「譲ちゃんよぉ。その若さで死に急ぐこたぁないだろうに。……ああ、いるな。女王の卵を守るために、凶暴になっている《兵隊》が、そこら中にうろついてる」


 ――なるほど。だからなのか。


 おとなしいと聞いていた人魂獣が、なぜ襲ってきたのか少し不思議だったが納得がいった。彼らは最も仲間を重んじる。女王の卵のため、過敏になってるところに空から侵入者が降ってきたとなれば、逆鱗に触れてしまったのも仕方ないだろう。


「人魂獣なら知ってます。さっき襲われて、彼女があっさり倒しました。彼らに倒される心配は要りません」


 ルティの肩が、何かに反応するみたいにわずかに跳ね上がった……ような気がした。どうしたんだろう?


「いや、もっと厄介なやつがいる。呪樹じゅじゅだ。やつらは森の樹にまぎれた動く樹だ。どの樹が普通なのか、どの樹が呪樹なのか、素人にゃあまったく区別なんぞつかねぇ。何の気配もねぇ単なる獣道を歩いてるだけと思っていたら、ザクリッ! なんてことザラにある」


 彼はクッキーを何枚も鷲掴みにして口に放り込んだ。小気味いい軽い音を立てて、欠片を飛ばしながら噛み砕き、大きな音とともに飲み下した。


「ちょっとお出かけ、ってのには向かない場所だ」


 彼は頬杖をついて、クッキーの粉がついた指を舐めた。


「おじいさんはそんな森で一人暮らしなんて、大丈夫なんですか?」

「おぅ。わしは大丈夫だ。魔物除けの術が使えるからな」


 少し自慢げにそう言ったおじいさんだったが、すぐに肩を落として続ける。


「あんたらにも、かけてやれりゃあいいんだが、悪いな。わしのは波長が合う相手でないとかけてやれねぇ。わしを助けてくれたあんたらには、八つ裂きなんぞになってほしくないんだが――」

「私達は行かなければならないんだ!」


 ルティが声を荒げた。何をそんなに怒ることがあるんだろう。おじいさんの態度が気に入らないのだろうか。

 彼女は同意を求めるためか、僕の方に視線を移す。僕はそれに頷いた。


「ふむ。決心は固いってぇわけだ。なんでだ? 何でそうまでして奥に行きてぇ? 確実に生きて、人生楽しめばいいじゃねぇか。奥にゃ、命張ってまで行くようなもんは何もねぇぞ」

「ある。今のこの世界の者達を、光のある世界へ解き放つ方法だ」


 彼女の言葉を聞くとおじいさんはルティを睨んだ。殺気立っているようにさえ見える。ルティはおじいさんから目を逸らすこと無く見返して、ことの理由を語った。この世界を創った者がいること。どうすればこの世界を壊せるかということ。そして自分達がどれだけ光を切望しているか。


「お前もその歳ならば《太陽》が恋しいはずだ。違うか?」


 彼女が光を求めているのは村の長の寿命のためだけじゃない。村のみんなの、そしてきっとこの世界の『帰りたい』と願っている人たちの想いも全部、背負って今、ここに来ているのだ。

 ルティに問われたおじいさんは、口をカップに一口つけて、ゆっくりとソーサーに戻した後、溜息混じりに呟いた。


「ヒョウギ……か」

「知っているのか!」


 途端、テーブルを叩く音と共にカップの中のものが大きく揺れた。

 立ち上がるまでに勢い込んだ彼女におじいさんは、『落ち着け』という風に彼女に両掌をかざした。一瞬彼女は不満そうに眉根を寄せたが、大人しく椅子に座りなおした。


「そりゃあな。わしだって恋しいさ。あれは炎の暖かさとはまた違った暖かさがある。なんかこう、全身を母ちゃんの手で包み込まれてるような、な。できるもんならこの世界の人間を置いて、一人だけででも帰っちまいたいくらいだ。だがなぁ。ヒョウギを殺すことは、わしは薦められん」


 彼はテーブルの上で手を組んで、そこに顔を埋め、黙り込んでしまった。


「なぜ……ですか……?」


 声を発することを拒否しているかのような沈黙が続いていたが、僕は恐る恐るその沈黙を破った。

 彼はゆっくりと、埋めていた手から顔を離した。が、視線はじっと、下のほうを向いたままの姿勢で、話し始めた。


「ヒョウギはなぁ……大事なやつらを、欲望の制御ができなかった食人族どもから、ただただ、守りたかっただけなんだぁ。今は絶滅を避けるために、多少は抑えられてるみたいだが、昔のあいつらは見境がなくてなぁ。それでヒョウギの一族はやつらに目をつけられてよぉ……。喰われた。バクバク喰われた。なもんで、かろうじて生き残った一族を守るために、光の世界からこっちの世界にやつらを封印したんだよ。……守りたいんだなぁ、今でも」


 彼の組んでいる手に、雫がいくつか落ちた。――泣いてる? まるで自分のことを言ってるみたいだ。


「封印の術は未完成で、関係のないやつらを巻き込んじまったことを気に病んではいるが……どうしても……」


 しかしルティは、そんなおじいさんの涙には動じなかった。


「あいつが昔どうだったかなど、私達には関係がない。一族を守りたい――一族を幸せに導きたい想いは、私にも強くある。お前が何を語ろうと、私は奴から、光の世界を取り戻しに行く」


 二人は冷徹に睨み合った。肌が凍りつきそうなほどの緊迫感が漂う。


 ――僕は……僕はどうすればいいんだろう。


 確かに僕自身、青い空や太陽に憧れている。同じ思いを抱えるみんな、それらを切望する人達――ルティの願いを叶えたいと思う。

 しかし。しかしだ……。

 今は種の保存に徹して欲望を制御しているみんな――食人族のみんなは、光の世界に帰ったらどうなるのだろう。どうするのだろう。おじいさんが語った過去のように、バクバクバクバク喰い漁るのだろうか――人間を。


 ドリークやマスターや……僕の友人達が?


 勢いのある蒸気の音で、僕は我にかえった。止まっていた時間が動き出したかのように、ふたりも睨み合うことをやめた。


「ああ、新しい湯が沸いたな」

「あ、いいです。僕がやりますから」


 席を立とうとしたおじいさんを制して、僕は勢いよく立ち上がった。すると、


「あ」


 ズボンのポケットから丸いものが飛び出て床に落ちた。ころころと元気よく転がっているのは魔気のコンパスだ。追いかけて拾い上げて、ヒビなんかが入っていないかを確認する。そして僕は、ヒビとは違うあるものに気づいて絶句する。


 ――うそだろ?


 信じられない想いでおじいさんを見た。

 緑の液体に浮いてるコンパスの針が、おじいさんを指していた。コンパスを振ってみても、場所を移動してみても、針は彼を刺している。


「ダン、どうしたんだ」


 妙な動きをしだした僕に、ルティが訊いてきたがすぐに返答は返せなかった。

 だって目の前の男は、あの時ルティが追いかけていた銀髪の男とは似ても似つかない老人だ。しかし、ありえない事ではないとも思う。奴は世界を丸ごと創造した存在なのだ。どんな可能性も否定できない。

 震えが止まらない唇が、自然と動いていた。


「あなたが……ヒョウギ?」


 すると彼は微苦笑した。


「魔気のコンパスか。作れる奴がまだいたんだな」


 老人が発した声は今までと違ってしわがれておらず、若々しさのある青年の低い声だった。

 刹那、彼の姿が一瞬ぶれて見えた。思わず目をこすって開くと、すでに老人の姿は無くなっていた。

 ルティは椅子を蹴倒して後ろに飛び退く。腰の剣に手をかけたらしい金属音がなった。


「変化の術か」


 バーで見た銀髪の男――ヒョウギが、僕らふたりに交互で視線をめぐらせた。彼と目が合った。殺気を宿しているのに彼の瞳には光がなく、酷く濁っていた。彼の、光のない殺気に僕は凍りつかされ、指一本動かせなくなってしまった。


「もう、遠まわしに言う必要が無くなってしまったな。単刀直入に言う」


 彼は死体だった。殺気を纏っているのに、生気が感じられなかった。死んだ人間の瞳をしていた。


「帰れ。本気で私を殺すつもりなら、私は容赦なくお前たちを殺す」


 ルティは殺気立った瞳で――しかし彼と違った生気にあふれた瞳で彼を睨み返し、


「問答無用だ!」


 叫んで、テーブルに飛び乗ると同時に彼の顔めがけて抜刀し――直前で止めた。いや、ヒョウギが人差し指一本で、彼女の攻撃を止めたのだ。


「あの店では、関係のないものを巻き込まないよう逃げの一手だったが……今はそんなことにかまう必要もない」


 彼の掌が彼女の顔にかざされる。彼女が目を丸くした直後、彼女は宙を舞った。後ろの壁に背中から衝突して、床に落ちる。

 彼女の剣はヒョウギの手の中にあった。彼は刃の部分を握っていたにも拘らず、なぜか手は血にまみれていない。


「巻き込みたく……なかった、だと? ならなぜ私達を……巻き込んだ。関係ない私達を……この世界に、巻き込んだんだ……」


 彼女はうめき声混じりに言いながら立ち上がろうとしていたが、頭を打ったのだろう。なかなか立ち上がれないでいる。僕は彼女の名を小さく叫びながら駆け寄りかけた。すると、僕の顔の横を何かが風を切って通り過ぎた。


「お前はそこを動くな」


 頬に何かの液体が伝っている。手で触れると、ぬるりとした。手を見てみる。血だ。風が切っていった方を振り向くと、ルティの剣が深々と壁に刺さっていた。ヒョウギが投げたのだ。

 ヒョウギの体が宙に浮いた。紐で体を持ち上げられてるかのように、ゆらゆらと。

 つぶれた菓子やカップが散乱しているテーブルを越えて、ルティの前に着地した。


「帰れ」


 彼はルティに二度目の警告を発した。

 ルティは何とか上体を起こし、背を壁に預けて、ヒョウギを見上げた。


「父様やババ様は、苦しんでいた。帰りたい……と、涙を見せるときも……あった」


 ヒョウギの長い髪が浮き上がり、結んでいる紐がはじけた。髪が広がり、それ自体が生きているように蠢き、形を変えた。鋭い牙を口からはみ出させた狼の顔に。

 狼はルティの顔の前まで近づき、大口を開けた。


「帰れ……!」


 三度目の警告には怒気が含まれていた。

 だが彼女はひるむことなく、まっすぐに前を見て、ヒョウギに言い放った。


「私達に光を返せ!」


 狼の口がさらに大きく開かれ、彼女の頭をゆるく咥えた。それでも彼女の殺気は消えない。


「それは出来ないと言ったはずだ」

「かえせ!」


 彼の目が大きく見開かれた。


「私は一族を守らなければならんのだ!」


 彼の右手が空気を切り裂くように斜めに振り下ろされ、魔気で精製された黄色い霧がばら撒かれた。

 視界が黄色で塞がれ、すぐそこにいたヒョウギも、ルティも、自分の手さえも何も見えなくなった。


 ――なに? これは……。


 何も聞こえない。ルティの名を呼んでみても返事はおろか、自分が発した声も聞こえなかった。

 夢の中にいるみたいに現実感の無さに包まれる。自分がこの世界でただ一人きりしか存在していない気になった。――いや、僕は本当にこの世界で一人ぼっちなのかもしれない。そんな感覚に支配される。


 何も聞こえなかった耳に、人の声が届いた。

 遠くから。いや。耳の奥からだんだんと膨れ上がって大きくなっていく音や声。

 地面に重い物が落ちる音がして、視線を音がしたほうに向ける。喰いちぎった痕がある、人間の腕だ。

 耳が聴力を回復しつつあると同時に、目が、黄色い霧の中の情景を映し出すようになっていた。


 人間を捕まえては噛り付き、喰らった箇所を引きちぎり、血を滴らせながら恍惚な表情で貪る。人間と同じ形をした者たちがいた。

 よく聞こえるようになった耳が捉えるのは、悲しみの悲鳴。絶望の悲鳴。生きたいと、人間を喰らう者たちへ懇願する悲鳴。

 それと、人間を貪り喰う咀嚼音――


 ――やめてください……。


 僕は、呟いた。僕と同じ血が流れている、彼ら食人族に。

 全員、会ったことも見たことも無かったけれど、ドリークにそっくりな奴もいた。


 ――みんな、人間は喰わない……って、誓ってるんじゃないですか……。


 言っても、彼らは止まらずに、寄り添いあって震えている男女の首を跳ね飛ばした。


 ――やめてくださいって言ってるじゃないですか!


「お前の願いが叶えば、この夢が現実になる」


 男の声がして、黄色い霧が晴れた。見知らぬ食人族たちはいなくなっていた。死体も消えた。ルティがいて、ヒョウギがいた。


「それでも、お前は同じことを願えるのか」


 ルティは怯えた表情で額に玉の汗を浮かべ、身体を震わせていた。震える自分を静めようとしているのか、心臓の辺りを押さえている。

 どうやらヒョウギに術で“夢”を見せられていたらしい。ルティも見せられたのだろう。昔現実に起こっていたことの映像なのか、ヒョウギが作り上げた映像なのか、どちらかはわからないけれど。彼の言うように、この世界が壊れれば種の保存のための抑制が解かれて、きっと本当に起こること。


「私の一族は、奴らから人間を守ることが使命だった」


 ヒョウギが答えないルティに静かに語りだした。


「だが、私達は奴らを滅ぼすことができず、何度も奴らに喰われる人間を見せられ、何も全うできず――結局私たちが壊滅させられ……」


 彼の死んだ瞳から涙が一筋流れ落ちた。


「私は、母や、父をも……。守れなかった……。守らなかった……。奴らは、私の目の前で、父と母を喰い……。次はわずかに残った一族の皆や、私が愛した女までも喰らうと……告げていった。だから、私は……あいつだけでも守らなければならないんだ」


 ルティは、苦痛をこらえているように目を瞑り、歯を食いしばり、歯の間から声を絞り出した。


「うるさい……。だからと言ってなぜ父様たちが、犠牲にならなければならない」


 ヒョウギは目を閉じ、髪から生えている銀色の狼はそのままに、テーブルの上に腰を落ち着けた。 

 凍りついた沈黙の中で、ゆっくりとした時間が流れ、彼の瞑目が続いた。

 そうしてしばらくして目を開いた彼の表情は、何も伺えない無表情になっていた。


「お前のその意志の強さに免じて教えておいてやる。お前達が今見ている私を――お前達が《ヒョウギ》だと思っているこの体を殺しても、封印の術は解けないぞ」

「……え?」


 とっさに意味が飲み込めなかった。

 ルティは閉じていた目を見開いている。


「お前達が今見ているこの私の体は、ヒョウギの心のみの、ただの分身だ。本体は森の奥にいて、まだこの世界の創造を続けている。分身である私を殺しても、この世界の完全なる完成が少し遅れるだけに過ぎない。完成は本体が自然死した時だけだ。この世界を壊すには、完成する前に本体を殺すことのみ」


 なんのために彼はこんな話をするのか……。この話が僕らに利益があったとしても、彼の利益につながるだろうか。

 混乱する僕らをよそに、彼は右手を胸の高さまで上げ、三本、指を立てた。


「三十秒、時間をやろう。数え終わるまで、今の状態から私は一切動かない。その間、好きにすればいい。ただ、忠告しおくと、私の狼は力を緩める気がない。何か行動を起こすならば、顔が引き裂かれぬよう注意することだ」


 ルティの瞳から戸惑いが消え、殺気の光が戻った。


「なぜそんなことを私たちに教える。どうせ私たちを騙すためなのだろう? 私たちをここから追い出すなり、罠を仕掛けるなりの――」

「一」


 彼はルティの質問を無視してカウントを始めた。表情は目を閉じた無表情なので、僕には罠なのか真実なのかは読み取れなかった。

 しかし――

 僕は自分の頭の横に突き立っている剣の柄を「二――」握り締めると「だあぁああああ!」思い切り力を振り絞り引き抜いた。そしてそれを頭の上まで振り上げながら彼女の側まで走りより、狼につながっているヒョウギの銀髪めがけて振り下ろした。


「三――」


 ヒョウギの声はどこまでも無感動だ。

 僕は狼の上あごと下あごに手をかけ、大きく口を広げて彼女から引き剥がした。


「ダン……」


 目を見張り僕を見上げる彼女の腕をとり、


「行こう!」


 叫んで彼女を引き起こす。


「しかし……」


 なおも躊躇う彼女の腕を引っ張りながら、小屋の出口めがけて走る。扉に手をかけたのと同時に、ヒョウギの方を一瞬だけ振り返った。彼は宣言どおり微動だにしていない。目を瞑り、数を数え続けている。

 僕らは彼に背を向けて、小屋の外に飛び出した。



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