3 太陽のない世界でなぜ、僕らは生きていけるのだろう
僕は用意した診療鞄を手に、彼女と一緒に家の外に出た。
だめだ。なんだか浮かれてしまっている。彼女の村の長様を診に行くんだから浮かれてちゃいけないってのに。たぶん、初めて自分がちゃんと必要とされたからなんだろうけど。
「ところでルティの村って? 遠い……ですよね」
ふわふわ湧き立つ気持ちを抑えてルティに訊ねる。
この世界に少数しか存在していないほかの種族の人たちは、できるだけ食人族から離れて住んでいる。自分達が食人族の標的にされることを避けるために。もちろん今のみんなは、他の種族の人たちを喰いに行くなんてことはしないけど。だけど他の種族のみんなはそう思ってない。だから食人族の街の近くに他種族の住処なんてあるわけないのだ。
「ああ、少しな。だが問題はない」
驚いた。
ルティの背中が小さくふたつ、盛り上がった。
盛り上がり、そして花が咲いた。黒い世界に浮き上がる、白い四枚の花びら。――いや、それは花びらよりも力強く、意志を感じさせるもの――
僕は彼女を、脳に焼きつくほどに凝視した。
彼女の背中に咲いたのは、羽だった。
昔読んだ本に載っていた。昆虫という種類の生物――蝶。それを見たとき僕は、自分の知らない世界にはこんな美しい生き物が存在しているんだ、と感動し、実際にこの目で見てみたいと、憧れた。
彼女はその蝶だった。
「これでお前を抱えて飛べば、そう時間はかからない」
彼女はそう言って振り向くと、なぜだか眉根を寄せた。
「どうした? なぜ口を開けっ放しにしてるんだ」
ハッとして、両手であごの下から口を閉じた。……相当に恥ずかしい。
きっとかなりの馬鹿に見えるんだろう僕を、彼女は顔に『?』を貼り付けて首を傾げて見ていた。が、しばらくすると何も聞かずに僕の頭をジャンプして一回転して飛び越えて、僕の背中についた。――なんだ? と思っていたら、彼女の両手が僕のわきの下に差し込まれた。
「へ? ひゃあ! なになに、なにぃぃい!」
――い、いきなり抱きつ……!
心臓が跳ね上がって声が裏返った瞬間、
「行くぞ」
耳元で彼女がそう囁いて、僕の足が、地面に踏ん張る力を要しなくなった。
「どぉぅわああああああ――」
叫ぶと同時に、僕の家の赤い屋根が「――あああああ――」その周りの畑が、白い大地が「――ああぁぁぁ……!」脚の下に見えてどんどん遠ざかっていく。
「うるさい」
ルティが無情にもそんなことを言った。唇を噛んで恐怖の叫びを喉の奥に押し込む。
「あの……心の……準備が、まだ、できて、なかった、ん……ですけど……」
全身に震えが来る。さっきかなり体温上がったと思ったけど。心臓がバクバクいってる。さっきもバクバクしてたけど、種類が全然違ってる。
「極力動くな。落としてしまうかもしれないからな」
……どうも彼女は僕の声に耳を傾けてくれなかったようだ。
眼下にはいつもの食人族たちの――僕らの街が広がっている。『へぇ、上から見るとこんななのかー』なんて感慨にふける余裕はもちろんない。落ちたら即座に僕の魂は身体から抜け出て、さまよってしまうだろう高さである。下を見ているとどうしても震えがおさえられないので、歯を食いしばって正面を向いた。
すると目の前は、黒一色で塗りつぶされていた。自分が目を開けているのか閉じているのかもよく分からない。
そんな空をルティは風を切って飛んだ。身体に受ける風が心地よくて、恐怖も少しやわらいでくる。
空は、行けども行けども黒だった。
死んだ親父に、昔の空はこんなじゃなかったと聞いたことがあった。親父が子供の頃、何か得体の知れない力によって、この世界は今の世界に堕とされたのだそうだ。堕とされる前の世界の空には、澄んだ青が広がっていて、常に形を変える《雲》という白いものが浮いていたんだそうだ。
そして、太陽というものがあったんだそうだ。
植物や人間などを成長させてくれる、大事なもの。だけど太陽がないこの世界で、人間も植物もみんな元気に育っている。なぜだかは知らない。
下を見る。家や、畑、山や川などがゆっくりと僕の足元を過ぎていく。もう恐怖はなかった。景色があることに安堵した。
僕は今のこの世界を、とても寂しいと思った。
* * * *
「あれだ。あれが私の村だ」
山間を飛んでいるとルティが口を開いた。盆地になっているところに集落が見えた。
集落の真ん中にそびえ立っている塔に向かって高度を下げていく。塔の屋上には小さな女の子が数人いて、こちらに――ルティに気づいたらしく、みんなして手を大きく振っている。女の子達は輪になって、ルティの着地を迎え入れた。
「おかえりなさい。ルティさま」
「おかえりなさい!」
僕と共に着地してルティが羽を元に戻した。女の子たちは彼女に無邪気に飛びついてくる。脚に、胴に、肩に。それから周りに四、五人が取り囲む。少しバランスを崩しつつ、ルティは柔らかな笑顔で彼女達に「ただいま」と返事を返した。ルティに密着状態だった僕も一緒にもみくちゃにされる。
「うわー、すごーい。おとこのひとだ!」
一人の女の子が僕をまじまじと見た後、大きく声をあげた。彼女の声に連鎖するように一斉に、彼女達は目を好奇心でキラキラさせて僕を見上げてきた。
「うあー、ほんとだぁー」
「ねぇねぇ。このひとだあれ?」
「おとこのひとー!」
「さわってもいーいぃ?」
「だれ? だれなのルティさま」
そうして一拍遅れて、いっそう瞳を輝かせてる女の子が言った。
「こいびと?」
ううっ……。
途端女の子達は騒ぐのをピタリとやめて、静かに僕の答えを待った。――ああもう。どの種族にしても子供というものはませている。
「あー! この人あかくなったー」
一人に心底嬉しそうな表情で顔を指差される。ルティの肩に乗っている子がはしゃいで「わあ。やっぱりそうなんだあ」と言うと、女の子達が、成長途中なのだろう小さな羽根をぴょこぴょこ動かしながら僕らの周りを回りだした。「そうなんだ! そうなんだ!」「こいびとこいびとこいびとー!」なんて合唱しながら。――ああ、畜生。暑いなここ。
ルティが苦笑して、肩車になっていた女の子と、胴体にへばりついていた女の子とを下ろすと、彼女達の背にあわせて身体を折ってたしなめる。
「そうではない。初対面の人をからかっては失礼だろう? 彼は長様を診てもらうために来てもらった医者だ」
ルティは女の子達の認識を修正しようとしたが、彼女達が聞いていたのは最初の部分のみだったらしい。
「じゃあ、かたおもいなんだ。かわいそう」
「かわいそう」
今度は同情の眼差しと共に「かわいそう」の波が押し寄せてきた。ルティは「こらっ」と叱り、一人一人口を塞いで止めようとするが、なかなか成功しない。
彼女は僕に向かって、少し困ったな、と言うような表情で「すまない」と謝った。なんだか微笑ましい。女の子達とじゃれてる彼女を見ていると、自然と唇がほころんだ。
ルティの謝罪に『気にしていない』と返そうとしたとき、足元から慌てて階段を駆け上がってくる音が聞こえてきた。
騒いでいた女の子達みんなが口を閉じる。床の四角い扉が持ち上げられ、顔を出した老女がしわがれた大声を上げた。
「誰か医者を呼んで来ておくれ! 長様がまた苦しみだしたんだよ!」
女の子達が「長様が?」と、不安の声をあげる。反射的に僕の身体は反応していた。周りを囲んでいる女の子達をそっと横にどけて、老女に駆け寄る。
「その人はどこですか。案内してください」
床の扉から顔を出している相手に、膝を突いて訊ねた。僕の問いに彼女は、しわくちゃの顔に戸惑いでさらにしわを増やした。
「誰だい坊主。……おや、ルティ。帰ってたのかい」
「ああ。たった今な」
「なるほど。お前の連れかい」
ルティは先ほどの子供たちに向けていた微笑を一変させ、真剣な面持ちで女の子達と一緒に近づいてくる。
「そいつは偶然出会った医者だ。私を助けてくれた。長様を診てもらおうと連れてきたんだ。案内してやってくれ」
老女は「ほう」と呟き、僕を下から上まで眺め回した。なにやら「ふむ」と頷いてニヤリと笑って言った。
「ルティが選んだんだ。間違いは無さそうだね。来な、坊主」
老女が背を向けて階段を降りていく。僕も彼女の背中を追って階段を下りた。
「頼んだぞ」
後ろから続いたルティの声が僕の背中を押した。
「はい」
* * * *
診療を手伝ってくれた老女――ババ様と呼ばれていた――と一緒に、長様の部屋から廊下に出る。待っていたルティが顔を上げて僕らに駆け寄ってきた。
「どうだ、長様は」
心配そうに問うてきた彼女に頷く。
「はい。おさまりました。今は穏やかに眠ってます」
ルティがほっと胸をなでおろした。ババ様の方も安堵の笑みで僕の方に向いてくる。
「本当に感謝するよ。……さて、茶でも出さないとね。ついて来な」
ババ様について階段を下りると応接室に通された。ババ様は茶を入れるために奥へ引っ込み、ルティは僕に椅子を勧めてくれる。
ルティは僕の隣に、僕と膝を突き合わせるように座った。
「長様の発作を止めてくれたこと、私からも礼を言う。ありがとう」
また頭を下げられた。照れる。今まで感謝の言葉なんてもらったことないから、なんだか恐縮してしまう。
「それで――」
ルティは本題だ、とばかりに身を乗り出してきた。
まっすぐな瞳で、僕の瞳をまっすぐ覗き込んで、訊いて来る。
「長様に助かる見込みはあるのか?」
だから、僕もまっすぐ答えることにした。
「残念ですが、ありません」
長様の病気は
魔気は人体にかけると、皮膚から染みこみ、その身体にさまざまな影響を与える。そのとき魔気の不燃物が残り、身体に残留したままになることがある。身体に残留した魔気の不燃物は、自然と皮膚から体外に排出されていくが、長様の皮膚は排出する力が衰えてしまっている。衰えてしまうと排出する力が回復することは二度とない。
衰えて、輩出できなくなった人間の身体に魔気を掛け続けると、身体に不燃物が溜まっていき、身体の中で様々な種類の魔気が交じり合う。溜まって交じり合った魔気は、身体や精神に変調をきたしていく。そして最後には死に至らしめてしまうのだ。
「やはりどうしても、長様は助からないのかい」
ババ様がポットと三つのティーカップを盆に乗せて戻ってきた。テーブルに盆を置き、僕の向かいの椅子に「よいしょ」と腰をかける。
「あいつは一族の最後の男だ。生かさねばならんというのに……」
やっぱり……。
ここに来て会ったのは女の人ばかりだし、最初の女の子達の反応で、もしや、と思っていたから驚かなかった。
ババ様がカップに茶を注いだ。ふわりと甘い香りが部屋に漂う。僕の好きなコルミークだ。
三人とも無言のままでコルミークが入ったカップを口に運ぶ。口に広がった甘さに心を落ち着けて、甘い香りを吸い込んで深呼吸する。カップを置いて、僕は口を開いた。
「病気を止める方法はありませんが、少しだけ寿命を延ばす方法なら、あるにはあります」
僕の言葉にルティは「どうするんだ!」と勢い込んで聞いてくる。
「溜気病は、精神状態で進行が大きく左右されます。心を強く持てば遅くなるし、心が弱いと早まります」
彼女はまっすぐな瞳で僕を覗き込んで、深くゆっくりと頷いた。
「だから、その人の一番の願いを叶えてあげられれば、気持ちを強く持てるようになり、病気の進行を遅くできます。――長様の一番の願いが何か、わかりますか?」
ババ様がお茶を飲み込んだ音が、やけに大きく聞こえた。
「あいつの一番の願い……か。もちろん、わかるよ。私の――いや、一族の一番の願いと一緒だからね」
ババ様の言葉の後を、僕の瞳を覗き続けているルティが続ける。
「ああ。長様の願いは、この太陽のない世界から太陽がある世界へ帰ること」
太陽がある世界へ帰る方法――
そんな方法、あるわけがない。この世界の住人がなぜこの世界に堕とされたのかも、誰も知らないのに。あればみんなとっくに帰っているだろう。
「すみません……」
僕は思わずまっすぐな瞳のルティから目を逸らして、謝った。すると彼女に両手で挟まれ、彼女の方に向きなおされた。
「なぜ謝る」
まっすぐで、力強い瞳が問うて来る。彼女がまっすぐであればまっすぐであるほど、僕は目を逸らしたくなったが、彼女の両手が許してくれなかった。仕方なく僕は目を閉じて、答えた。
「だって……帰る方法なんてないから……。その願いは叶えられないから……」
結局、僕は何も役に立たなかった。役に立たなかったどころか、希望を与えた瞬間、断ち切ってしまった。
顔から彼女の手が離れた。僕は目を閉じたままで俯いて、息を吐いた。
「不可能ではない」
彼女の発した言葉に弾かれて、僕は目を見開きながら頭を上げた。変わらない位置にあった彼女の瞳には、何かの決意の光が宿っていた。
「あの男を殺せば、この世界は崩壊する」
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