1 僕は格闘大会反対派


 ――落ち着かない。まったくもって落ち着かない。


 僕はどうしても沸きあがってきてしまう不安を持て余し、自分の部屋の中をうろうろ歩き回っていた。

 部屋の壁を埋めているのは、僕の愛すべき本たちを納めてくれている本棚たちだ。普段なら一冊を抜き出してめくっているだけで落ち着けるのに。だけど今は、その本を手に取る気にさえならない。


 心配だ。いや、気になるなら自分も見に行けばよかったんだけど。なんにしてもいくら心配しても彼らには意味のないことなんだけど……。


「ああー、もぉおうう!」


 どうにもならない自分に苛立って、自分の金髪を両手で掻き毟る。――と。窓を小突く小さな音がした。次いで、口笛のような軽やかな泣き声が、早く窓を開けて、とせがむ。


 待ちに待っていたやつが来た。


 窓を開ける。小さなお客様が、窓の桟のところに行儀よく着席していた。

 黄色い羽を生やした小さな丸い鳥は、左右に小首を傾げて羽をばたつかせる。

 はやる気持ちを抑えて小鳥の頭を撫でる。そうして小鳥の中に残留している《言葉》の魔気まきを、解放してやる。すると小さなくちばしから、小鳥の愛らしい姿には似つかわしくない野太い声が出てきた。


『うおぉぉーいい、ダン! 報告するまでもないと思うが、今年も俺様が優勝したぜえ! 今マスターのとこで飲んでんだけど、いやぁー、腕がもげちまってよぉう。てなわけで早いとこ来てくれやあ! んじゃあ頼んだぜぇ!』


 伝言を伝え終えた小鳥の羽毛が、黄色から本来の茶色に戻った。僕にお別れの挨拶の一声を鳴いて、真っ黒な空へと飛び去っていく。

 ぼんやりと小鳥が消えて行った空を眺めていると、目頭が熱くなってきた。


「じゃあ……ガダとジーグは……」


 また、古い友人が二人減った。

 胸につっかえてくる気持ちを言葉にして落としてみたけど、全然取れなかった。

 彼らにはそれが必要で、仕方ないことだってわかってる。わかってるけど……。

 目から流れてきそうなモノを手の甲で拭う。


 ――行こう。早く行かないとあの人飲みすぎになっちゃうから。


 こうなることを予想して準備しておいた鞄を背負った。家を出て、目的の店があるこの街の中心街を目指す。

 金を撒き散らしたり、奇声を上げたりのギャンブルの店や、今の時期になるとものすごい需要量のおねーさんの店。それから人肉の店。たくさん立ち並んでいるそれらを、魔気によってつくられた、赤、青、紫、もっといろいろな怪しい色をした炎がふわふわ浮遊し、街をまだら色に染め上げている。


 ――はあ……。


 思いっきり息を吐いて、肩を落としながら歩く。いつもの溜息だ。


 ――何でいっつも呼び出すばっかりで自分から来ないかな。しかも代金はツケだ。いくらたまってると思ってこき使ってくれてんだあの人は……。


 なんて愚痴を心の中で呟いて、きっと仏頂面になっているだろう顔で空を仰ぎ見る。重々しい黒い空がのしかかってくるように視界に入って、重い足取りをさらに重くしてくれる。

 派手な店達の間で、遠慮がちに建っている建物の前で、僕は足を止めた。目的地であるその店――バー《水槽》の黒い扉を押し開く。


 ぐぁらんぐぁらん。


 もうすでに馴染みとなってしまっている、錆びついたベルのくたびれて疲れきってるみたいな音が、僕をダルそうに歓迎してくれた。

 音が溢れてくる。魔気によって記憶された音を流す黄色いカエルのケロロンが、リズムなんてない曲のつもりな音と共に、歌のつもりな悲鳴を流している。

 いつものことだが頭を抱えたくなる。いつものことだが、もう一度溜息が出る。

 いつものことだが諦めるしかない。どこへ行ってもこんな曲が流れてるんだから。


「やあ、ドクター。いらっしゃい」


 白いひげもじゃのマスターが、もともと細い目をさらに細めて、のんびりした声で迎え入れてくれる。マスターの笑顔に僕も微笑で答えて、扉を閉めた。

 いつもかかっている、曲とはいえない暴力的な曲は好きではない。けれど、青いランプが店内全体を照らしていて、水の中で魚になったような気分を味合わせてくれるこの店が、僕は結構好きだ。


 店内は十人ほど入れば満員になってしまう狭さだ。見回す必要もなく、目的の人物を見つけた。

 カウンターで男が、豪快にジョッキを煽って分厚い胸板を上下させている。客はそれだけ。相変わらずのガラ空きだった。


 筋肉質の男は僕が来たことに気づくと、鈍くて派手で力強い音を立ててジョッキをカウンターに置いた。顔に“待ってました!”と言うような笑顔を浮かべて僕に声をかけてくる。


「よぉう。来たな、ダン。ほれこれだ。ちゃっちゃと治療してやってくれ」


 彼が、先ほど小鳥で伝言を寄越してきた格闘大会覇者のドリークだ。

 彼は肘の先からない右腕を上げて、無事なもう片方の左手で手招きした。僕は自分の金髪癖毛をかき回しながら、どうしても止められない今日何度目になるだろうかの溜息をついた。


「優勝おめでとう……と言うところかもしれませんが、僕は反対したじゃないですか。あんな大会に出るの」


 どうしても口調がふてくされてしまう。ふてくされたまま彼の隣に座り、カウンターに診療鞄をふてくされて置いた。


「ガダのことも、ジーグのことも、喰っちゃったんですね」

「はっはっは。あいつらはこの俺の、最強の身体の一部になれたんだから喜んでんぜ」


 彼の笑顔は僕の責めの言葉にまったく揺らぐことはなかった。むしろ自分の勝利を誇るあまり、さらに輝きが増す。


 ドリークのいつものセリフに呆れている間に、マスターがいつものやつを持ってきてくれた。この街ではまずお目にかかれない健康飲料ヨウミョウだ。

 僕は酒なんて中毒性のある悪魔の飲み物を飲むのなんて滅多にしないのだが、このヨウミョウのせいで不本意にもこの飲み屋の常連になってしまっていた。目の前のドリークに呼び出されるというのも大きな理由のひとつだけど。


「友人同士で当たったら辞退してください、って、前に言ったはずですけど」

「ばかもの。んなことしたら俺の最強伝説に幕が引かれちまうだろうが」

「寂しいですよ僕」


 言って、透明な液体を一口喉に流し込んで、頭を引き締める。

 甘味の中にかすかな苦味が隠れてる、少し粘り気のある液体が、いろんなわだかまりを追い出してくれる。


「さみしぃ? なにもんだそりゃあ」


 僕の言葉にそう呟いたドリークの顔を見上げる。口をへの字に曲げて、顔に疑問符を並べていた。


「そうですよね。わかりませんよね」


 隣にいるドリークにも聞こえないくらい小さな声で呟いて、僕はヨウミョウをグラスの半分ほどまで一気飲みした。そうしてわだかまりを追い出しきった後、一度グラスを置いて診療鞄を開ける。

 ドリークは自分の質問に僕が答えないらしいとわかると、鼻で息をついて、ジョッキの中身を口の中に流し込もうとした。慌ててその、太い剛毛いっぱいの腕を掴んで制止する。


「待ってください。やっぱりもちろん、それ酒ですよね」


 まったく毎度毎度この人は……。見事なお約束なのである。


「いやだって、こんな嬉しいときに飲まないのはどうよ?」


 今のこの世界の八割が食人族という種族だ。そこには目の前のドリークやマスターも含まれる。繁殖期の前になると彼らは人肉を食べるのだが、みんながみんな、生きた新鮮な肉を好き勝手喰っていたら自分達が絶滅してしまう。なので死んだ者の肉は保存され、喰う量も規制されている。生きた新鮮な肉が喰えるのは大会参加者のみ。勝ったら喰える。負けたら喰われる。それが今回、ドリークが出場した格闘大会の内容だ。

 言ってしまえばこれは食物連鎖なのだが、どうしても僕には寂しさが拭いきれない。

 その大会覇者は僕が制止したっていつも何も聞きはしない。出場を止めても、飲酒を止めても。今だってでかいジョッキの酒を一気飲みだ。


「ますたー、おかわりだ」


 呂律の回っていない口でそう言って、ドリークは高々とジョッキを掲げる。それに「はいはい」と、マスターがにこやかに応じて酒の準備をしようとする。


「ちょっと、『はいはい』じゃないですよ。それ以上飲まさないでください。手術しても後遺症が残っちゃいますから」


 不機嫌そうに鼻を鳴らすドリークを無視して、僕は手術用の針と薬瓶を鞄から出す。


「千切れた腕はちゃんと持ってますよね」

「おう、もちろん」


 嬉しそうに言って、彼は足元の大きな鞄の中をまさぐった。そうして毛深く剛毛が生えている筋肉質な彼自身の腕を取り出す。凝固した血にまみれている。

 僕がそれを受け取ると、ドリークは悔しさを満面に貼り付けて唸り声を上げた。


「これ! これなんだよ、これだけが今日の俺のミス! 俺があれした瞬間あの野郎がああ避けてあれしてそいでもって思ってもみない――」

「目を閉じて。心を落ち着けてください」


 放っておくと意味不明な長話になるので有無を言わせず断ち切る。彼はちょっとだけ不機嫌そうに頬を膨らませたが、すぐ素直に目を閉じた。

 無事に残っているほうの手首の脈を取り、正常なのを確認する。肘から先にあるべきものがなくなってできた、血管丸見えの断面に薬を塗る。受け取った切り離されている腕の方にも薬をぶちまける。すると、《止血》の術で血の循環を止めていた脈が、お互いの断面と共鳴して機能を回復し、脈動し始めた。


 僕は指先に魔気を集中させる。集中させた指の先端から、糸が形成されていく。

 手術を始めると雑音なんかは耳にまったく入ってこない。作業が終了したときは、この店には珍しく、いつの間にか客が一人増えていた。


「いやー、いつ見てもダン君はすごいよね。あっという間にくっつけちゃうんだもん」


 マスターはいつもこうやって僕の治療に感心してくれる。でも治療を受けた本人は感心なんてしないのが当たり前で、見返りがあったことだってほとんどない。礼を言う習慣が食人族たちにはないから仕方ないが、治療費が常にツケ、というこの事態は一体どういうことなのか。


「七日ほどは無理しないでくださいね。完全にくっついてないときに無茶すると、大変なことになりますから」

「おう。いつものことだ。わかってるよ」


 彼は本当にわかっているのか、早速壁に向かってパンチの練習をしだした。

 もう呆れすぎて溜息も出ない。ドリークに聞こえないよう小声でひとつ、注文を入れる。


「マスター、ドリークに何か血になるモノを入れてあげてください。そうですね……ヴィラッドなんかを」


 マスターは微笑んで頷いて準備してくれる。不味いそれを飲まそうとしていることがバレると暴れかねないのだ。


「しかしダン君。前から思ってたんだけど、何で他人の治療なんてやってるの? 儲からないでしょ」


 マスターがシェイクさせる音をたてながら訊いてきた。

 この世界のほとんどを占めている食人族は、小さな怪我や病気は気力で治すし、大怪我でも死ぬほどの病気でも、治療を必要とするやつなんてそうはいない。他人が死んだらその死体を喰えるし、自分が死んだらその身体を誰かに与えてやることができるから、あっさりと死を受け入れてしまう。


 彼らは彼らなりに生きることを楽しみたいと思っているし、積極的に喰い合ったら滅んでしまうので進んで喰い合うことは大会以外にはしない。だけど、進んで治療を受けようとするやつもほとんどいないのだ。

 だから僕なんて――僕みたいな医者なんて普通は必要ないわけなんだけど……。


「儲からない店をやってるマスターと同じですよ。趣味みたいなもんです」


 僕は残っているドリンクに口をつけながらそう答えた。


「それに生活できないってほどじゃないですし。ちゃんと常連客もいますしね」


 さっきからずっと狭い店内で妙な乱舞をしている筋肉男の方に視線を向ける。

 “ちゃんとした”客かどうかは疑わしいんだけど。いつも僕を呼び出してくれちゃうその人。

 彼は最強を誰にも譲りたくないんだそうだ。だから、怪我で戦闘能力を落とすことも、死ぬことも、自分で許せないらしい。


「ふーん? そうかい」


 マスターは首を捻りつつもどうやら納得してくれたようだ。まぁ彼が首を捻るのも当然だと思う。僕自身、なぜ彼らの治療なんかをしているのかよく分かっていない。

 食人族以外の数少ない種族の人たちは、まず食人族に近づこうとしない。唯一、と言ってもいいだろうか。僕の父だけが、彼らと友達になった。


「ねぇ」


 僕の数少ない常連客に向かって声をかける。


「もう来年は出ないでくださいね、大会。死んでほしくないですから」

「んん? 俺という客が減るからか?」


 ドリークはきょとんとした顔でこちらを見た。

 こんなことを言っても彼はやっぱり言うことを聞いてくれないんだろう。僕が――治療する人間がいなくなってもドリークはきっと戦い続けるんだろう。僕は彼らにとって大して必要とされてる存在じゃない。もしかすると必要ないのかもしれない。なのにどうして僕は彼らの治療を続けるのか……。


 人間だった父。人間なのに彼ら食人族と仲良くなった父……。

 よくわからないが、僕は親父の意志を継いだのだろうか。


 入り口のベルが小さくぐぁらんと鳴った。マスターの「いらっしゃいませ」の声がはずむ。と同時にドリークが「おっ」と、なにやら興味深そうな顔をして入り口の方に向かって行く。


「ねーちゃん美人だなあ! な、な! 俺と飲もうぜ。おごってやっから。な? 来い、来い、来い!」


 彼は無邪気な声をあげて手を広げ、入ってきた客の前に立たった。僕のほうからはドリークの巨体で見えないが、彼の声のはずみようから入ってきた『ねーちゃん』は相当の美人なんだろう。

 ドリークはしつこく「な? な? な?」と誘うが、誘われている相手の返答はない。ドリークにとってはただ純粋に美人と酒を飲みたいだけだったのだろう。だが、誘われている女性にとってドリークは、目の前に立ちはだかったただの巨大な岩石だったらしい。


「邪魔だ」


 女性はドリークの誘い文句には、何も心が動かされない、という風な声でそう言って、邪魔な岩石を見向きもせず迂回して歩き出した。


「ちょっ! ちょっと待てねーちゃん、冷てぇよ」


 なんともストレートに断られてしまった彼は慌てたんだろう。彼女の肩を掴んだ。


「ちょっとドリーク! 彼女が迷惑がっ……!」


 彼女がドリークの腕を払いのけたと思った瞬間。何か、板を思いっきり叩いたようなすごい音がした。気づくと、女性の足元でドリークがだらしなく寝そべってるみたいに大の字になって目玉をひん剥いていた。

 悲鳴を歌い続けていたケロロンですら絶句して、辺りが静寂に包まれた。代わりに、床に重い物を落とした鈍い音が響いた。マスターが持っていたマグカップを落としたらしい、

 彼女が……ドリークを投げた?


 しかも彼女は左手に布をかぶせた長い棒を持っているから、片腕で、だ。いくらドリークが油断しきってたとはいえ、すごいと思う。


「邪魔だと言っただろう」


 声と言う氷の刃でドリークを突き刺したあと、彼女は何事もなかったかのように歩き出そうとした。


「待てよ、ねーちゃん」


 仰向けのまま、呻き声と共にドリークはなおも彼女を引き止めた。呆れた。格闘大会覇者は美女のためにも根性を惜しまないのか。

 そう思っていたが、彼は神妙な顔つきをして言った。


「女にやられたとあっちゃあ一生もんの恥だ。いっそ殺せ」

「なっ……!」


 心臓が凍えるかと思った。


「何言ってんですかドリーク!」


 僕は恐怖に追い立てられるみたいに叫んだ。

 食人族は嘘をつけない種族だ。つまり、彼が言った気持ちは本気で……。


「私は」


 女性の、低くて落ち着いた、感情が感じられない声がした。


「お前達のように、自分の力を下劣なことに使う気はない」


 僕の胸に、熱い安堵の火が灯った。

 改めて彼女を見る。

 とても華奢な身体をしている。ドリークを投げ飛ばしたはずの腕も細い。歳は僕とさほど変わらない二十歳前後といったところ。でも彼女の短い黒髪、真っ黒い瞳は、僕にはない凛とした空気を持っていた。

 彼女は何の迷いもない足取りで、僕の横を通り過ぎて行った。

 僕は未だに倒れこんだままのドリークの側へ、足をもつれさせながら駆け寄った。


「さっき、僕が……『死んでほしくない』って、言った、ばかりじゃ……ないですか」


 ドリークを助け起こしながら何とか言葉を紡いだ。なにこれ。何で僕はこんなことくらいでこんなにも震えてしまってるんだろう。


「だからよ、その意味がわかんねって言ってんだろ」


 彼は頭をさすりながら「あー」と親父臭い唸り声をあげた。その唸り声とほとんど同時に、テーブルを小突く音がした。反射的にそちらを振り向く。

 ドリークを投げ飛ばした女性が、もう一人いた客のことを見下ろしていた。長い銀髪を後ろで束ねている青年だ。男は何を言うでもなく、彼女を訝しげな表情で見返している。


「お前がそうか」


 彼女のセリフに、彼が息を飲んだ音が僕のところまで聞こえた。

 そして彼女の次の言葉には、初めて彼女の感情が込められていた。怒りという感情が。


「私たちに光をかえせ」


 途端、彼は椅子を蹴倒して立ちあがり、そのままテーブルを飛び越えた。彼女は一瞬驚いたように身体をのけぞらせる。


「まて!」


 すぐに立ち直るとそう叫んで、入り口に向かって駆けていく男を飛ぶように追いかける。近づきながら手に持っている袋の紐を解き、追いつき、袋の中の物を振るった。

 清んだ銀の輝きを放つ刃が、彼の束ねられた長い銀髪を断ち切った。彼女が宙に舞ったそれを掴み取る。男は扉の前で振り向き、彼女が放つ剣の乱舞を軽やかにかわしていく。彼女の操る剣が幻であるかのように当たらない。

 男が後ろ手で扉に手をおいた瞬間、扉が爆音と共に吹き飛んだ。


「な、なんだ、こりゃあよ」


 隣で野太い声がした。なぜかものすごく煩わしかった。

 男はそのまま後方へ跳び、店の外へ出て僕の視界から消えた。続いて彼女も視界から消える。

 そして僕の足が、勝手に走り出した。

 扉の外で歓声がした。


 僕が扉のところまでたどり着いたとき、外にいた人たちは皆、熱気に満ちていた。彼女の姿がない。左右に素早く視線を巡らせ、最後に上を見た。すると彼女が黒い空間にその身を躍らせていた。しなやかに一回転して銀髪の男の前に着地する。

 隙を与えず、男の喉に剣の切っ先をあてがう。


「……私たちに光を返せ」


 先ほどよりも静かに、同じ想いを繰り返す。男の表情は僕からは見えないが、彼は微動だにしない。


「それは、できない」


 彼は絞り出したような声で、それだけを答えた。


「なら、私がお前を殺すまでだ」


 彼女の目が冷たく鋭くなったと同時に、男の短くなった髪が、下から風で煽られたように浮き上がった。彼女が驚きに少し肩を揺らして後ずさった次の瞬間、男の銀髪が蛇の如く勢いよく這うように伸び、彼女の腹に突き刺さった。


「…………!」


 歓声。

 僕は彼らとは違う何かを叫ぼうとして、なぜ叫ぼうとしたのか、何を叫べばいいのかわからなくて、口を半開きにしたまま目の前の光景を見続けた。

 彼女は見開いた目で、自分に突き刺さった銀髪を凝視していたが、顔をしかめながら剣を放し、腹に突き刺さっているそれを両手で掴んだ。引き抜こうとしているのだ。しかし銀髪の蛇は、一向に抜ける気配を見せない。


 彼女の顔の、先ほどまで少し赤味がさしていた色白の顔が、だんだん死の色に変わっていく。

 僕の中を、何かは分からないもどかしい感じがぐるぐる駆け巡って、頭の中までぐちゃぐちゃにした。まったく思考がまとまってくれない。

 彼女の手は力が抜けてしまったらしく、掴んでいた男の銀髪からはなれ、だらりと地面に向けて垂れ下がった。すると男の髪の毛は彼女の腹から退いていった。彼女の身体は支えを失い、一度膝を突き、前のめりに倒れた。

 地面の上で動かない彼女に、男が静かな声を落とす。


「すまぬが……私は殺されるわけにいかないのだ」


 それだけ残して彼は歩き出し、世界の黒に溶け込んでいった。

 何かの緊張が解けて、僕は扉にもたれかかって、ガラスの破片も気にしないで座り込んでしまった。止めていた息を吐く。脚の震えが止まらなくて、力が入らない。服が身体に張り付くほどに、汗をかいているのに気づいた。

 目の前で繰り広げられた突然の戦いが終わって、みんな興味を失ったのか、彼女に注目する者は誰もいなくなった。


 ――行かなきゃ。


 動かない足を引きずって、彼女の側まで這って近づいた。


 ――僕は、医者だから……。


 彼女のところに何とかたどり着くと、自分の上半身を立て、深呼吸して、彼女の状態を調べにかかった。

 男の髪に貫かれた腹には傷はなかったが、その範囲に黒いあざのようなもがあった。身体の中に何か魔気を注がれてしまったらしい。他は呼吸が荒いくらいで問題はない。

 と、唐突に、


「あぁぁああーーーー! ダン! お前何やってんだよ、美女をひとり占めかコルァア!」


 ふざけた巻き舌な叫び声に振り向くと、筋肉魔人とマスターが店から出てきたところだった。


「この人が気を失ったから診てただけです。変なこと言わないでください」


 たしかに診るために覆いかぶさるような姿勢になっていたので、僕が彼女によからぬことをしようとしているみたいに見えるかもしれないが……。いくらなんでもとんでもない勘違いだ。


「マスター。すみませんが僕の鞄、持ってきてもらえませんか」


 彼は頷いて店の中に引っ込んでいく。

 銀髪の男が彼女の中に残して行ったのは《眠り》の魔気だろう。これが身体に残留しているうちは目を覚まさない。このまま魔気の力で眠り続けたら、彼女の身体に何か後遺症が残るかもしれない。早く取り除かないと……。


「ダン君、ほら」


 マスターが持ってきてくれた鞄を受け取り、中和剤を取り出して、そのまま彼女の腹にぶちまけると、あざの部分から湯気のようなものが立ち昇った。魔気の悪質なものが抜けていったのだ。

 今はとりあえずの応急処置しかできないけど、これで少しは身体への負担が減るだろう。

 脚の震えが治まった。問題なく立てそうだ。

 鞄に、自分の指から創った糸で彼女の剣をくくりつけ、それを背負う。


「まてこら! 何でお前がその美女をお姫様抱っこ!」

「だったらダン君は王子様だねぇ」


 再びドリークが裏返った奇声を吐き、マスターはのんびりと口を開いた。

 彼女の身体は軽かった。軽すぎてそのまま浮いたんじゃないかと思ってしまうほどに。


「彼女をずっとここに放ってはおけないでしょう。連れて帰ります」


 猛烈な勢いで猛烈な表情をしながらドリークが近づいてきて、その太い人差し指を僕の眼前に突きつけてきた。


「てめぇ、つまりやっぱり彼女と二人っきりで楽しーことがしたいんだろ」


 ドリークの確信的発言に、マスターが「いやいやいや」と、手を横に振って否定する。


「ダン君だよ? ちがうちがう。治療したくて連れて行くんだよね? あ、でもダン君にしたら『楽しいこと』なのかな。趣味だもんね。まぁこんな美人さん、僕が連れて帰ったら食べたくなっちゃって大変かもしれないけど」


 ……ああ……。ドリークもマスターもこんなのばっかり。特にマスターはいつもにこやかに『食べたい』って言うからなお恐ろしい。僕はそういうの怖いから言わないでって言ってるのにいつも言っちゃうんだこの人は。


「マスターの言うとおりです。“治療を楽しんで”きますから、安心してください。……マスター、また来ますね」

「はい、さようなら」


 マスターに手を振られて見送られながら、僕は腕の中の彼女と家路に付いた。





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