終章2 完成
「私も今年で百十二歳か。予想以上に長生きしてしまったな」
黄色い葉をつけた大樹。幹には老人の顔が埋め込まれている。幹にもたれかかっている、長い銀髪を後ろで結んだ青年。彼らは――彼は、自分の死期を悟って呟いた。
白い毛をまとった人間の顔を持つ獣たちが、彼の周りを取り囲む。
「お前たちにも、たくさん迷惑をかけたな」
一匹が――否、一人が青年に擦り寄ってくる。青年はその女の額にキスをした。
涙を流しながら遠吠えするもの。合図になったのか、一人二人と、順に青年に擦り寄っていく。一人一人の額に青年はキスを贈る。
全員にキスを贈ると、青年は自分の膝を抱えた。
「私は死んでも、お前のところにはいけないが……」
青年は、守りたくて、あの時別れを告げた恋人のことを想った。
「お前は幸せな人生をおくれただろうか……」
不自由の無い生活はおくれただろうか。
自分のことをひきずらずに誰かと幸せになれただろうか。
子宝には恵まれたのだろうか。
安らかな死を、遂げることはできただろうか。
もしかしたらまだ生きているのか?
もしも会えるのなら、笑顔で話がしたい。キスをしたい、されたい。思い切り抱きしめ合いたい。お前は歳をとってもきっと美しいんだろうな。
五年ほど前、食人欲を抑える薬というものが開発された。三十年前この樹にたどり着いた男の方――ダンが作った薬だ。その薬があるからといって、多種族のわだかまりが消えるわけではないが……もしかしたら、いつか……。
奴らも元々は人間だ。このまま退化していくのもいい。
青年は自分の手を見た。目には見えない血にまみれた手を。この世界を維持するために、食人族を解き放ちたくないがために、たくさん殺してきた手を。
寂しさと苦しさと罪におぼれた。
三十年前のあのとき。あの女が言ったように、自分の想いは『その程度』のものだったのかもしれない。
あの頃、長年の感情や自我が薄れていた。酒がひどく恋しくなり欲望のまま森を離れたり。このやさしい二人なら、と考え、どんなことよりも光の世界に帰ることを願って、心が壊れてまでも自分を殺すのなら、それはそれでいいと思ったり……。
あの女をここへ使えさせた者は、そんな自分の心の揺らぎまでも知っていたのかもしれない。
しかし、長年親しんで、何度も挫折しそうになったこの苦しみも、ようやく今日で終わる。
青年は立ち上がって、幹に埋め込まれている老人の頬を、手で撫でた。
かすかな笑い声をもらし、
「私もずいぶん老けてしまったな」
八十数年間、同じ姿で幻として生きた青年は、自分の肉体の唇に口づけする。
彼を慕った獣たちが一斉に遠吠えを上げる。青年が一歩踏み出すと、青年の身体は幹と重なり――老人と重なり元のひとつの人間となった。
老人の目がかすかに開く。
「もし、私がお前たちの仲間になったら、よろしく頼むぞ」
遠吠えを上げ続ける獣たちに一言告げると、もう二度と開くことは無い目を閉じた。
この世界が始まった時と同じ音が、世界を支配する。
獣たちは頭の中から響いてくる金属をこすり合わせたような音に苛まれた。
悲しみの遠吠えが、悲鳴へと変わる。
音が尾を引きながら鳴り響き続け、獣たちを苦痛へと導いていた。皆その場に倒れこみ、もだえ苦しむ。
やがて音は、細くなり、徐々に遠くなり、青年の気配とともに――消えた。
獣たちが顔を上げると、彼らが慕った者を宿した樹が消えていた。
上を見上げると、黒く重い空が見える。雲も星も何も見えない、この世界の空。
この世界は、創造した青年が消えてしまっても、これからも存在を続ける。
獣たちはいつまでも悲しみの遠吠えを上げた。
真っ暗な世界で僕らは光を求めた あおいしょう @aoisyou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます