6 守るものたちと僕ら


 黄色い森をひたすら走った。走りながらルティの手を離し、ポケットから出した魔気のコンパスを確認した。やはりぐるぐる回るだけで方向を示さない。後ろを振り返ると、彼女は納得がいかないような不信感混じりな表情をして、でも僕の後ろをついてきてくれていた。コンパスが役に立たない以上、とにかく逃げるということ以外思いつかなかった。彼に与えられた時間が終わるまでに、できるだけ遠くに離れなけらばならない。


「なぜなんだダン! なぜ奴を信じる! それとも奴に怖気づいたのか!」


 黄色い落ち葉を踏む音と、僕が背負っている鞄が立てる音の二重奏に、ルティの怒声が重なる。


「森の上を飛んでた時、コンパスが狂ったんだ。ぐるぐる回って方向を示さなくなった。今もまだ回り続けてる。それで、彼に――自分は分身だといっている彼の側にいるときは、ちゃんと彼を指していた。つまり、コンパスに記憶させている魔気と、同じ魔気を放ってる奴がもう一人いるんじゃないかって」

「狂っていたコンパスの針が、しっかりと一人の人物をを指し示したのは、近距離にいてしっかりとひとつの魔気だけを捉えることができたから、と言いたいのか?」

「うん。たぶんね」


 奇声が森を震撼させた。金属に爪を立てて引っ掻いた音にも似た、人間にはありえない声だ。


「どうやら、お前の説は正しいのかもしれないな。……しかしあの男は私たちを行かせたいのか行かせたくないのか――理解に苦しむ」


 振り返るとヒョウギの銀の狼が三匹、木々の合間を縫って宙を駆け回り迫ってきていた。


「今のままでは追いつかれる。お前が持っている剣を渡してくれ」


 ルティに言われてはじめて、彼女の剣を握り締めたままだったことに気づいた。言われたとおり剣を渡すと、彼女は落ち葉を巻き上げて急ブレーキをかけ、同時に狼達に対峙した。


 途端、彼女と向かってくる狼との間の地面に、突然裂け目が入り、太い鞭のようなものが飛び出した。

 いや、割れたのではなかった。木の根が地面の中から持ち上がったのだ。

 木の根が次々と持ち上がる。持ち上がった根を脚にして樹たちが、驚くルティの前に壁をつくった。壁は目隠しになり、狼たちを見失わせる。


「ルティ上!」


 彼女は僕の声を聞くとすぐに後ろに飛び退いた。一瞬前、彼女がいた場所に狼たちは突っ込み、爆音と共に地面に大きな穴を開けた。あたっていたらルティは跡形も無くなっていただろう。


「ダン! 走れ!」

「っ……! うわぁああ!」


 僕は彼女の忠告を聞き入れる前に宙吊りになっていた。樹の幹が無数に伸びてきて僕の身体に強く巻きついてくる。完全に身体の自由を奪われてしまった。

 ルティは狼を蹴散らし、動き出した周りの樹をはじき返すのに集中していて動けないでいる。


「くそっ」


 もがいてもビクともしない。僕を縛る幹がわずかの間でどんどん増えてくる。どんどん力が増していく。全身がきしむ。神経が痛み以外何も捉えていない。今にもすべての骨が粉々に砕けてしまいそうだ。


 このままだと僕はつぶされて死んでしまう。嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない死にたくない死にたくない!


 怖い……。なんでだ。覚悟してたはずなのに。ドリークたちみんなは、死ぬのを怖がらずに毎年あんな大会をしている。僕もできると思った。でも簡単じゃなかった。僕は死ぬのが嫌だ!


「た……」


 我慢できずに僕は「たすけて!」と叫んでいた。少し間をおいて落下の感覚があり、次に衝撃。咳き込みかけたところをルティに蹴とばされて、巻きついた幹から助けらた。痛みが残る身体を強引に引っ張られて立ち上がる。


 立ち上がるとすでに僕らは隙間なく囲まれていた。

 目に見えてる樹、すべてが動き出し、僕らに向かって触手を伸ばしにきていた。

 どうして呪樹がこんなにも自分たちを狙うのか。今のこのときの、このタイミングで。ヒョウギが操っているとしか思えない。


 動物や植物などの生き物が操られている場合、核をつぶさなければいくらダメージを与えても永遠に動き続ける。しかし核を攻撃するには、普通の目には見えない核の場所を見極める必要があり、見極めるには核を見極められる目に、魔気で強化しなければならない。

 僕は確かに目をいろいろと強化する術を持っているが、核を見極めるのは相当な才能と経験がいる。まだまだ僕には使えない……。


「ごめん……僕、足手まといに」

「大丈夫だ、気にするな」


 触手の動きは速く無い。囲まれなければ逃げることもできたかもしれないのに……。

 僕らを囲んだ樹たちは僕らを焦らしているのか、触手を『おいでおいで』するように波立たせ、ゆっくりゆっくり近づけてくる。

 樹の輪の中心でルティと背中合わせになる。


「大丈夫だなんてどうして……」

「父様の想いが、私たちを守ってくれる。……私から離れるな」


 彼女の囁きに、肩越しで彼女の方を振り向いた。彼女は銀に光る剣の切っ先を高々と天に向けていた。


 彼女は叫んだ。悲鳴にも似た、魂を身体から開放してしまうかのような叫びを。

 剣の柄が緑色に発光した。光は切っ先に向かって昇っていく。

 触手の波が津波になって襲い掛かってきた。


 瞬間、耳は頭上からの爆音に支配され、黄色い森は光の白と陰の黒に塗りつぶされた。目の前の触手が、とろとろと蝋のように溶け、とろりと地面に落ちた。光の洪水の中で樹たちはもがいて暴れ、根の方から液体状になっていき、すべての形を無くしてしまった。

 見上げると途端に目をつぶされ、目を手で覆って下を向いた。僕の目をつぶしたものは小さかったが、僕が思い描いた太陽のような丸い光だった。でも、この光に思い描いた暖かさは無かった。


 ルティが膝をついた。

 光の玉がはじけて、欠片が地面に落ち、光を失った。

 白と黒に塗られていた森に、元の黄色が帰ってきた。


「ルティ?」


 僕も彼女の目線に合わせて膝を折る。


「ルティ、どうしたの?」


 彼女は剣を杖にして立ち上がろうとする。


「大丈夫だ。すこし……気力を、使ってしまった……だけだ」


 だが彼女の足腰は震えていた。なかなか立ち上がることができない。


「どこかに怪我、したんじゃないの?」


 うつむいて首を振りながら、彼女は勢いをつけて無理に立ち上がったが、やはりよろめいて、僕の腕の中へ倒れこんできた。


「ほら。大丈夫じゃないじゃないか」

「だいじょうぶだ」


 彼女は口ではなおも頑なに否定したが、やはり身体がいうことを聞かないらしい。しばらく僕に身体を預けていた。

 おそらく魔気を使いすぎたのだろう。あんな威力を持つ光を開放させたのだから無理も無い。

 そっと彼女の両手が、僕の両腕に添えられた。彼女の首が、ほんの少しだけ上を向き、真っ黒い瞳が僕の瞳を覗き込んだ。


「お前の瞳は、暖かい色をしているな」

「え……」


 真っ黒い、潤んだ瞳に僕が映っている。僕の橙色の瞳をそんな風に言ったのは彼女が初めてだった。


「少し、見ていていいか?」


 僕は頷くことも首を振ることもできない。僕の方が彼女の瞳に吸い込まれていた。何の思考もできないままで、僕は彼女の瞳を見つめた。


「ルティ……」

「なに?」


 声にいつもの強さがなかった。


「何でそんな、泣きそうになってるの?」


 見つめている目に、小さな水の玉が膨らんでいく。

 添えられていた彼女の手が、弱々しく僕の腕を握った。


「だ……って……」


 彼女がゆっくり口を開いた瞬間、僕らは殺気という糸で縫いつけられてしまった。


『――また……殺した……――』


 頭に直接響く低い声は、憎しみ以外の感情は何も無かった。僕の腕に添えられていた彼女の手が、震えだし、僕の腕を締め付けた。


「あれは……お前の仲間ではない」


 彼女の爪が腕に食い込む。


『――殺した――』


 木々の間から姿を見せたのは、一人の男の人魂獣だった。

 《彼》は『殺した』『殺した』『殺した』と何度も呟き、僕らに牙を向けた。

 ルティは僕の手を引き、《彼》に背を向け走り出した。

 彼女の足に、転びそうになりながら必死でついていく。

 僕らを追いかけてくる《彼》は、止めることなく恨みの言葉を頭に送り続けてくる。


「すまない。すまない。すまない。すまない!」


 彼女はほとんど叫びに近い呟きで、同じ言葉を繰り返す。


「ルティ?」

「あいつは自分たちの卵を、家族を守りたいだけだ!」


 つないでいる手を彼女は爪が食い込むほどに強く握ってきた。

 背中が、ひどく怯えた子供のように見えた。


『――我らを害する者、我らを喰らった者など滅びてしまうがいい――』


 《彼》の思念にルティはもう一度「すまないっ」と叫んだ。


 ――ルティ……君は……。


 僕は彼女の今の想いが分かった。それは僕がドリーク達にやめてほしいと想っていたものと、ひどく似ていると思う。だから僕も彼女と同じように怖くなった。

 でも――

 つないでいた彼女の手を強く握り返す。握ってから手を放し――逆走した。


 彼女は驚きと戸惑いを混じらせた声で僕の名を呼ぶ。

 もうすぐそこまで迫ってきている《彼》と対峙する。


 目を閉じる――


 ルティは戦闘意欲をなくしてしまっている。でも、このまま逃げてるだけじゃ僕らが殺される。彼女ができないなら僕が、どんなに苦手でも、どんなに怖くても、《彼》を、食い止めなければならない。


 ――開いた。


 世界の全ての音が遮断され、世界の全てがゆっくり動いていた。

 《彼》が地をけり、僕を飲み込もうと口を開く。飛び散って、玉になる唾液。一つ一つ違う形に尖っている牙。その奥に見える赤い洞窟。

 鼻先にまで迫ったそれらの、周りを覆っている白く柔らかい毛を――《彼》の頬を、両手でつつんだ。

 僕の十本の指から、無数の糸がほとばしる。洞窟の入り口を閉じ、理性を持たない顔を覆い隠して、何度も何度も身体の周りを駆け回り、《彼》を、まるく、まぁるくしていく。


「ダン……なにを……」


 世界の音が帰ってきた。

 僕がつくった繭につつまれた《彼》は、地につくところころと転がり、樹にぶつかって――止まった。


 僕は脱力して膝を突いた。目がかすむ。ひどい耳鳴りに他の音が遮断される。頭が朦朧とする。でも、まだだ。きっと《彼》は繭の中で苦しんでる。

 背中から鞄を下ろして、開ける。


 ひとつ、薬ビンを取り出して、繭にそれを塗りつける。薬を塗った部分だけ、繭が溶けて、《彼》の体毛が姿を現した。激しく上下している。腹だ。


「大丈夫です。すぐ楽になりますからね」


 鞄から取り出した細長い筒に針をつけて、魔気で固めた薬に針を突き刺す。筒についている手前の棒をゆっくりと引いて、筒に薬を満たした。

 毛を掻き分けて剥き出しにした腹に、針を突き刺し、棒で薬を押し出し、身体の中に注入する。


 しばらくすると、腹が上下する感覚がだんだん緩やかになっていった。

 ……眠ったらしい。

 最初に使った薬を繭全体にかけた。繭の全てが解け、おだやかな《彼》の寝顔が現れた。

 耳鳴りが遠のくと、どこかから嗚咽が聞こえた。聞こえた方に振り向くと、ルティが座り込み、手で顔を覆って、肩を震わせて――泣いていた。


「もう……大丈夫だから」


 彼女は涙を拭って頷いた。

 僕は彼女に手を差しのべて、彼女は僕の手を取り、立ち上がった。



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