重淳の章
八重桜
いにしへのならのみやこのやへざくら
けふここのへににほひぬるかな
(伊勢大輔/詞花集)
――――――――――
寒空の下、
吹く風の冷たさに、男はそっと衣をかき合わせた。冬の寒さは厳しい。出来ることならば霜月のうちに京へ入り、そこで年明けまで過ごそうと思っていた。いつも男は、冬を京で過ごす事にしていたのだ。
雪深い山中を歩み続けるのも難儀だし、雪の降り積もる冬はまるで時の止まったようで、あくせく歩き回る自身がまるで矮小な存在に思えたからだ。ともかく、男は冬には旅路を中断する事にしている。
道中は間もなく、一端の休息を得ようとしていた。
幾多もの山々を越え、多くの土地を巡ってきた男であったが、やはり懐かしい京の地が近付いてくると心なしか足取りも軽くなる。男は生まれも育ちも京であった。
漆黒の衣に身を包んだ男は、錫杖をつきごく僅かな荷で長い事旅を続けている。一見すれば僧にも見えたが、それは彼がそれと似た装束を好んで纏っているだけで、仏門ではない。珍しいかな、彼は信仰というものを持ちあわせていなかった。
まだ刻限は早い筈なのに、日が沈む時刻は随分と早まってきた。自然と彼の足も速まる。この先には里があるはずだった。何とか日が落ちるまでには宿を得たい。
峠を越え幾度か通った事のある下り道にさしかかると、その先には人里が見える。人家を眺めて彼は安堵した。旅慣れている身であっても、日没は恐ろしいのだ。何が起こるか分からない。物騒な世であった。
里に入り、男は少し肩の荷がおりた心持ちになって息をつく。
余裕が生まれたのか、聞こえてきた琵琶の音色に男は立ち止まった。再度、しゃなり、と手にする錫杖が静かに音を立てる。
どこからか聞こえてくる琵琶法師の旋律は、雑多に往来する人の流れを暫し狂わせ、小さな一つの流れを作り始めていた。紡がれる音色に呼び寄せられるように子供らは騒々しくそちらへ集っていく。
「ぎおんしょーじゃのかねのこえーっ、しょぎょ、むじょーのひびきあり。しゃらしょーじゅのはなのいろ、じょーしゃひっすいのことわりをあらわす……」
呂律のまわらない子供が母親の手を握りながら男の横をすっと駆けていった。漆黒の衣を翻し、男は子供の姿を見送る。程なく出来はじめた人垣を避けるようにして、男は再び歩き出した。
冷たい風が肌を撫でる。霜月の風は肌を刺す冷たさだ。
男は笠をついと上にやり、遠くを見遣りながら幽かに憂いをたたえた表情で誰にともなく呟いた。
「偏に風の前の塵に同じ、……か」
琵琶の音が、風に紛れて虚空に響く。
彼は宿を探して周囲を見回しながら足早に歩く。だがその途中で、また男は不意にふと顔を上げ、一本の木の前で立ち止まった。
立派な木である。彼は以前にもその木を見た事があった。その木は桜で、生憎と春に里を訪れた事がなかったので満開のそれを目にした事はなかったのであるが。
しかし今目の前にあるその木は無惨にも幹が焼かれており、立ち枯れていた。
「……哀しい事だ」
世は常に移り変わる。いつかすべての物事には終焉が訪れ、どんなに素晴らしいものもいずれは朽ちてゆく。これは世界の真理であり、誰にも留める事の出来ない流れだ。それは仕方のない事である。
しかし世に定められた理とは別に、人間の仕業により本来よりも幾分早く終わりを迎える事実も数多存在する。この桜はおそらくその類であった。
「古の奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな」
突如背後から聞こえた声に、彼は振り返る。
「その木は八重桜じゃ。もっとも、今ではもう花を咲かせることは無いがの」
老人が彼の後ろに立っていた。老人は琵琶を携えてはいたが、盲目でなければ法師でもないようである。昔を語るのは何も琵琶法師だけではない。男とて、頼まれれば方々で聞き及んだ昔語りの一つ二つはしてやるものだ。
先ほど聞こえた琵琶の音色は、まだ遠くの方で続いていた。別の場所で語っていた語り部らしかった。
「……八重桜」
男は呟いてしげしげとその木を見遣った。
「少し前まではこの桜も春には美しく桜をつけていたものだが」
口惜しげな口調で老人もその木を見上げる。
「残念なことです。出来ればその桜をこの目で見たかった」
男は同調して言った。
男は桜が好きだった。彼はそれ以外の花や鳥や月、紅葉も雪も様々のものを好んでいたが、桜はその中でもとびきり好みだったのだ。特にそれが八重桜であれば尚更だった。
男は老人に尋ねる。
「何故、この木は枯れてしまったのですか」
「戦じゃ。戦の火がこの木を殺した」
彼は顔をしかめた。感情を抑えて男は低い声で呟く。
「やはり、そうでしたか。……身勝手なことだ。人の勝手な
その所為で、一体どれほどのものがこの世から奪われていったことか、計り知れない」
「その所行は未来永劫変わるまい。人間とは真、罪深き生き物よ。既にこの世は仏に見捨てられておる。さてさて、果たしてこの世はどうなってしまうものか」
老人は携えた琵琶をかき鳴らし、芝居がかった口調で続ける。
「古来より戦の火種は尽きることなく、今このどこかでもあちらこちらで血が流れ
黙って男は再び桜の木を見上げた。尚も老人は言う。
「なあ、若人よ。そなたがその齢にして仏門に入ったからには、多少なりとも現世に対して思うことがあろう。
わしは長く生き、その分長く人の業を味わってきた。たとい仏門に入ろうとも、この現世に居続ける限りそなたは人の所行にいずれ絶望を味わうことになろう」
憂いをたたえた瞳で男は微笑した。
仏門ではない。しかし、それを否定する気はなかった。その必要もない。そう思われる方が便利だというのもあった。
つい、と彼は笠を傾ける。
「おそらく、貴方が想像しているよりも私はこの世の多くのものを見ていますよ。それこそ、酸いも甘いも。
ただ、それでも私は人間の可能性を信じたいと思います。業の深い生き物でも、知性を携えてこの世に生を受けたからには、我々にも何らかの意味があるのだと思いますから」
その言葉を聞いて、老人はからからと笑った。
「なんとも、殊勝な心がけじゃの。よこしまな心で仏門に入る輩も多い昨今、救われることだ。そなたはその若さで道でも説いているのか」
ゆっくりと頭を振って男はそれを否定する。
「私は、布教は致しません。自分は自分の見つけたいものを捜しているだけだ。私とて、ただの私欲ですよ」
さもおかしそうに老人は笑い、男に尋ねる。
「さて、一体そなたは何をお探しなのかな」
俯き気味に笠をかぶり直すと、男は静かに言う。
「……妹と、友人を」
老人は黙って琵琶の弦を弾く。澄んだその音は、乾いた霜月の空に響いて溶けた。
「そなた、名はなんと申す」
「
他にも幾つか名はありましたが、過去の名は捨てました。今の私にあるのはこの名のみです」
老人は懐から幾つかの貨幣を取り出し、重淳に手渡した。
「餞別じゃ。持っていきなされ重淳殿。そなたの旅路に幸を祈ろう」
黙って重淳は頭を下げた。その拍子に錫杖が鳴る。
「なんとも、重い名じゃの」
彼が去った後、老人は呟いた。一つため息をついてから老人は琵琶を抱え直すと、元来た道を戻り再び琵琶をかき鳴らし始める。
重淳は澄み渡った空を見上げた。
「古の、八重桜……」
ぽつりと重淳は呟いた。まだ春までは遠かったが、出来ることならば京にて八重桜が見たい、と彼は思った。
ここしばらく、春には京へ立ち寄っていなかった。冬が終わる前に彼は大体、京を後にしてしまう。だが、しばらくの滞在もたまには良いかも知れない。
子供らが駆けてゆく。奔放な彼らは、人が憂うこの世と無関係に幸せであるように思えた。幸せでなければならないのだ、と彼は思う。
駆け回る子供の一人が重淳にぶつかる。子供は彼に詫びつつ、またはしゃぎながら仲間と走り去った。それを見て微笑みながら重淳は再び歩みを始める。日が暮れる前に、今夜の宿を探さなくてはならない。
彼の歩み去った地面に、漆黒の羽がはらりと落ちた。
【事の端あはせ・了】
事の端あはせ 佐久良 明兎 @akito39
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