言霊と葬送
二人は崖の上に立っていた。
白淳の墓をこしらえる為である。白淳は人の棲む世界を見渡せる場所に眠るのが良い、と八重が言ったのだ。日は既に高く昇り、明るく京の都と白淳の墓を照らし出していた。
墓の中に白淳はいない。八重を守って燃え尽きた後、躯は全て灰に帰して、どれがそうと分からなくなってしまったからだ。あの場の土を持ち帰って埋めてみたが、そこに彼がいるかどうかは怪しかった。風に大部分は飛ばされてしまっていた。
おそらく、彼らしく鳥部野の地に還って今度は土になり人を眠らせる役目についたのではないかというのが千瞑の見解である。だが八重は、鳥部野に残していくことが出来なくて土を持ち帰った。白淳が見たいのは、死人よりも生きている人間だと思ったのだ。
あの場にただ一つ残ったのは、間際に彼が八重に渡した逆鱗だけであった。不思議にも、鱗の持ち主がいなくなってもその逆鱗だけは形を留めていた。
八重はその逆鱗を白淳の墓に埋めた。唯一の白淳のよすがである、良いのかと千瞑は尋ねたが、八重は微笑んで首を横に振った。今は静かに眠るべきだと言い、八重は優しく鱗に土をかけた。八重にそう言われれば何も言う事は出来ない。千瞑も黙ってそれを見守った。
静かにその作業が終わった後、八重は吹く風に髪を遊ばせながら、崖の下に広がる京の都を見下ろした。
「幾多の人々がこの世界には生きている。この世は汚いことばかりよ。だけれども、それだけじゃない。……白淳はそう言っていた。
全てを一つに括って考えることは愚かなことだわ。皆が違って、それぞれが別のやり方で生きている。だからこそこの世は上手くまわっているの」
千瞑は黙ったままだった。
暫しの沈黙の後、八重は笑顔で振り返り千瞑に呼びかける。
「千彰兄さま」
言って、八重は少し
「兄さまは、金縛りに遭うわ。苦しくはないけれど、当分兄さまは体を動かせないの」
言った途端である。
千瞑の体は硬直し、身動きが取れなくなった。驚いて千瞑は何とか体を動かそうとするが、しかし彼が動かせるのは視線と口だけで、手足は全く言う事を効かない。彼はその視線を八重に注ぐ。
「やはりそうなのね。……私の力は、戻ってしまったのだわ」
ため息をついて八重は憂えた。
八重の力は白淳によって封じられていたのだ。その白淳がいなくなり、八重の封印は解かれてしまった。
言霊の力は常に八重に付きまとい、彼女から離れない。八重が話す事全ては、些細な事であっても大きな事であっても真のものになってしまうのである。
それは想像を絶する苦悩であるに違いなかった。八重の表情に、千瞑は胸が痛くなる。
「全く。お前等はそろいも揃っておれをなんだと思っているのだ。結界だの金縛りだの、確かにおれは頑丈だが、いい加減に疲れるぞ」
努めて千瞑は明るい調子で言った。だが八重は、憂いとも悲しみとも戸惑いともとれる奇妙な表情を湛えたままで千瞑に告げる。
「兄さま。……兄さまの
「……お前」
嫌な予感がして、千瞑は眉をひそめた。
八重は千瞑に背を向け、千瞑と同じように精一杯明るい声で言ってのける。
「私は、兄さまや淳と同じよ。ヒトじゃない。勿論、二人と違って姿は人間だけれど、この力は人が持ってはいけないものだから。
この力は捨てなければいけない。私は、平家を呪ってしまった。滅びろとこの口で呪いを吐いてしまったの。
だから、私も滅びなくてはいけない。私も平家だから。言霊と主に、私と今までの哀しい出来事すべてを終わらせるわ、兄さま」
千瞑は思わず前へ身を乗り出そうとする。だがその思いとは裏腹に、彼の体は寸分たりとも動く事はなかった。千瞑が八重の側に行くことは出来ない。
歯痒さに、千瞑は血が出るほどに唇を強く噛み締めた。
「何を言う、馬鹿なことをほざくな。白淳に救われたその命、どうして
「兄さまは違う。もう、ヒトじゃないもの」
絶句して千瞑は体の力が抜ける。
八重は千瞑から目を反らすように俯いた。
「本来ならば、私はとっくに死んでいてもおかしくないの。生きているのは父さまと母さま、そして白淳の御陰。
だけれど、そのあたしの所為で兄さまも危なかったし、……白淳を殺してしまった」
「違う、お前の所為じゃない!
お前の言霊の力を貪欲に欲した
掠れた声で必死に千瞑は否定した。だが八重もまた両手で頭を抱え、激しく首を振る。目には涙が浮かんでいた。
「でも! ……このままでは、きっとまた同じ事が起こる。
今の私には白淳の封印はない。今までよりも酷い事が起こるに相違ないわ。そうしたら、一番大変な思いをするのは兄さまよ。
いくら兄さまでも、人の口を閉ざすことは出来ない。このまま私が生き続けたところで、この一連の出来事のように誰かを不幸にすることしかできないわ。今まで私が何も憂えずにやってこられたのは、偏に白淳のお陰だから。
私は、兄さまだけはもう二度と失いたくない」
八重の声色は次第に弱々しくなり、やがて涙声になった。
千瞑は顔を歪めて頭を垂れた。
が、そのつもりでもやはり首は動かず、彼はその視線を地に伏したのみであった。
「……おれは、そんな守られるような価値のある生き物じゃない」
低い声で絞り出した千瞑の言葉に、八重は微笑む。
「流石、兄妹ね。言っていることがそっくりだわ」
その朗らかな八重の表情を見つめながら、力無く千瞑は呟く。
「馬鹿、野郎……」
「……知ってる」
答えて、八重の表情は悲しげな色を帯びた。
千瞑の金縛りはどうあっても解けそうにない。幾度体を動かそうと試みても、虚しく気持ちばかりが急くのみであった。
千瞑は気付いてしまっていた。既に八重は、言霊の力を使ってしまっている。
今までの事を思えば、例え今、彼が動けたところで八重を止める事は出来ないのだろうと分かっていた。
それでも、せめて八重に歩み寄ってやれない事が悔しくて遣る瀬無くて、口惜しげに千瞑は唇を噛む。
途方もなく彼は無力であった。
八重はそんな千瞑を見つめながら、静かに口を開く。
「兄さま。今の私が言うのは、とてもずるい事なのだけれど。
……最期に、一つだけ我が儘を言って良い?」
「……何だ」
かすれた声で千瞑は尋ねた。
八重は微笑みながら、その望みを口にする。
「また三人が出逢えるまで、どうか、どうか生き続けてね。
兄さまは、人の一生より余程長く生きることが出来るのでしょう。天狗道に堕ちてしまうと、輪廻の輪からは外れると言うわ。千彰兄さまはどうだか分からないけれど、絶対に天狗道に堕ちていないと考えてしまうにはとても危なっかしいところにいるから。
きっと私たちは戻ってくる。私と白淳がしたことは、間違っても輪廻から外れることを許されないものだもの。神さまは私たちに、次もこの世で苦しめと言うに違いないわ」
極めて明るく、八重は千瞑に笑ってみせた。
「来世は……きっと、普通の人間として生まれてくるから」
「……
千瞑もまた、今までの彼からしては似つかわしくないほどの満面の笑みでもって答える。
「何十年、何百年、何千年経とうとも、きっとおれはお前と白淳を探し出してみせる。
そして、その時はまた共に暮らそう。おれは長く生きるから、来世では兄妹ではないだろうがな。
今世の憂いをここの墓へ全部置いていって、次の世では精一杯楽しく暮らそう。
静かな里で質素な畑を作り、山菜を採り魚を釣って炉を囲もう。春には桜、夏には緑、秋には紅葉、冬には雪。巡る季節の度に面白く移ろう日々を眺めて、外に出掛けるんだ。
時期が来たら、またここに戻ってきても良い。おれは白淳のように結界は張れないけれど、家を守る事ぐらいなら出来る。
ここでの哀しみを、全部喜びの記憶に変えて、次の世を楽しもう。きっとおれたちは、幸せに暮らせるよ」
自分でも不思議なほど穏やかな笑顔で千瞑は言った。
まるでその光景が今から目に見えるようであった。きっと、いずれそうなる。そうならなければならないと千瞑は思った。
「ありがとう、……兄さま」
八重は、優しい笑顔で千瞑に微笑んだ。
彼女はきびすを返し、崖のすぐ間際まで歩み寄った。しばらくそのまま八重は背を向けて立ちつくす。泣いているのかも知れなかった。
やがて八重は一歩を踏み出す手前、今一度、千瞑を振り返る。
「ごめんなさい、千彰兄さま。……ありがとう」
八重の衣の裾が風にたなびく。
風が冷たい。冬が近付いているのだ。
その風にしばらく衣を遊ばせてから、八重はごく静かに地面を蹴った。
「八重っ……!」
千瞑は空に手を伸ばした。つもりだった。
だがしかし、その腕が八重の袖を掴むにはあまりに遠く。それどころか、腕も足も、ぴくりとも動く事すら無く。
八重の体は、ふわりと空に投げ出された。
千瞑の手は、八重には届かない。
何事かを叫んだ気がしたが、自分で何を言っていたのか覚えていない。多分、八重の名を叫んでいたのではないかと後になって千瞑は思う。
千瞑は八重の姿を見た。
八重は柔らかく、美しく微笑んでいた、と思う。
まるで白淳のように。
その唇が微かに動くが、微かに紡ぎ出される言葉までは千瞑に届きはしなかった。しかし、
『千彰兄さま』
確かにそう言ったと思った。
そして、白淳の名も。
最後の言葉を呟いて八重は瞳を閉じ、そのまま八重は千瞑に見えなくなるところまで堕ちていった。
千瞑の縛めは八重の言った通り半日後に解けた。
その後、いくら千瞑が捜そうと八重を見つけることは出来なかった。誰かが見つけて運んだのか、それとも見当もつかない場所に逝ってしまったのか、知るよしもない。
夜、遺骸のない二つの墓の前で千瞑は静かに目を閉じた。
+++++
隆盛栄華を極めた平家は、数年の後に壇ノ浦にて滅びた。
八重が平家の屋敷で出会った少年は、後に平家の他の公達と同様、戦に交わるようになり、無官大夫と呼ばれるようになる。
源平の合戦の折に彼は討ち取られ、彼の兄である経正も共に一ノ谷にて果てた。
彼らの所行の多くは、後世に残る資料に記されていない。しかし彼らの散った生き様はいくつかの芸術作品へ名を残すこととなった。
平家滅亡の後、源氏が鎌倉にて幕府をひらき、武士による政権を手にすることとなる。
八重が鞍馬で見た遮那王は、後に兄と出会い兄が為平家を討ち滅ぼすこととなるが、その兄により京より遙か遠き北の地にて命を落とすこととなる。
その英雄譚は知らぬものがないほどの知名度をもって後世に残るが、ここではまた別の話である。
風の便りで報せを聞いた大天狗が弔いの酒を注いだかどうかは、知らない。
その源氏も、暫し世に栄えた後に滅びた。
後の世に、人々は平家の有様を諸行無常と形容した。
すべては時の理と共に、歴史の中に埋没していく。
――――――――――
然るに平家
世を取つて
真に一昔の過ぐるは
夢乃中なれや。
(能「
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