●16. これからも、わたしに
あれから、皆元とは話していない。元から教室で談笑するような仲ではなかったけれど、これまでと違って、はっきりと無視されているのが分かった。
教室でふとしたときに、皆元が俺を見ているのに気づくのだ。そして、俺が気づいたことに気づくと、舌打ちしそうな渋面になって、顔ごとパッと目を逸らすのだ。
皆元の心情を察するに、俺のことを睨みつけたくなるほど怒っていて、なおかつ俺とは目を合わせていられないほど嫌っている――といったところか。きっと、ずっとぼっちでいたせいで、俺に対する激情を自分で御しきれないでいるのだろうな。皆元融、なんと難儀なやつなのか!
桜川綏子とも教室ではあれ以来、話をしていない。こちらは無視されているのではなく、桜川さんが空気を読んで話しかけないでくれていた。桜川さんは否応なく目立つ。本人もそれを自覚していて、周りに軋轢が生まれないように色々と気を配っているようだった。人気者というのも、それはそれで大変なのかもな。俺には一生、縁のない悩みだろうけど。
ある意味では桜川さんと同じくらい目立っている堀川心とは、まあ……これまで通りに変わりなく、だった。朝の教室で「友達になってください」とドラマチックなことをしでかした一件も、あれから数日経っても別段仲良く話したりしているわけでもない俺たちの様子に、みんなしてもう興味をなくしていた。人気ドラマの急展開に、アイドルグループの解散話やスキャンダル、目前に迫った中間考査とその後に控える夏休み――話題は日進月歩する。数日前は遙か昔だ。
そんなわけで、俺が皆元に嫌われた以外は依然として以前のまま、といった学校生活が続いている。
一方、ネットゲームS.Oの中では、俺と堀川――フライド豚まんとココロはペア狩りを続ける毎日だった。
『わたし、皆元くんに話しかける覚悟はできてるわ。なのに豚くんは、まだ話しかけちゃ駄目って言うの? きみがそこまで言うなら特別に待ってあげるけど、ランク四になったら絶対、話しかけにいくからね。リベンジなんだから!』
ココロはランク四を目指して毎日精力的に狩りをしている。もちろん、俺も前衛という名の肉壁として駆り出されている。いや、それは全然構わないんだけど。俺も楽しんで狩りをしていたし。
俺は堀川に、話しかけるのは少し待て、と言っておいた。いまの皆元は桜川さんと仲直りすることで頭をいっぱいにしているはずだ、と思ったからだ。
俺としては、桜川さんは皆元と仲直りしたがっていたことからも、皆元が一言「この前は言い過ぎた」と謝れば、それであっさり解決することだと楽観していた。なので、堀川には「ちょっと待って」と言ったのだったが……決闘から三日が経っている現在、未だに皆元と桜川さんが仲直りしたという報告が来ていない。いや、報告してくれと頼んだわけではないのだが、桜川さんならきっと報告してくれるはずだ。
皆元のやつ、たった一言ゴメンと言うのに何日かけるつもりだ? あのときは言い過ぎたかと思っていたけど、逆に煽りが足りなすぎたか? それともそもそも、怒りを焚きつけて発奮させようという方針からして間違っていたのか?
……頼む、皆元。早く桜川さんと仲直りしてくれ。でないと、俺の胃が駄目になる。
そんな願いが皆元に届いていたのか、その日、午前中最後の休み時間が終わる間際のこと――自分の席で教科書を用意していた俺に、さり気なく近付いていた桜川さんがそっと紙片を置いていった。桜川さんはそのまま、何事も無かったかのように自分の席へ戻っていく。それと前後してチャイムが鳴り、教師が入ってきた。
紙片は小さく折りたたんだノートの切れ端だった。
『二人で話したいです。昼休み、ついてきてください』
……そういえば、桜川さんとはメッセのID交換をしていなかった。こんな古風な方法で伝えてきたのはそのためか。これはこれで風情があって、なんだか得した気分かも。
授業が終わって昼休みが始まると、教室内はどっと騒がしくなる。教室を出て行く生徒と、机を寄せてお弁当を並べ始める生徒と、教室内の動線が混雑を見せる。桜川さんはいつもなら、いつものグループ連中と一緒にお弁当を広げているところだけど、今日は違った。
「みんな、ごめんね。今日は他のクラスの子と食べる約束してたんだっ」
そう言って友人たちに手を合わせると、「いいよ、全然」「行っといでー」なんて声に見送られながら、お弁当の包みを抱えて教室を出て行く。
俺は少しだけ間を開けてから、桜川さんとはまったく関係ないんですよ、という顔をして教室を出た。まあ、そんな顔をする必要もなく、誰も気に留めていなかったと思うけれど。
俺の前方数メートル先を歩いている桜川さんは、喧噪から遠ざかろうとするように廊下を歩いて行く。実際、そうなのだろう。桜川さんは各教室が並んでいる棟からも離れ、階段の踊り場に入っていったところで足を止めて、こちらに振り返った。
「……良かった、ついてきてくれた」
少し遅れて踊り場にやってきた俺に、ほっとした顔を向けてくる。
「あ、気づいていたわけじゃなかったんだ」
桜川さんは一度もこちらを気にする様子がなかったから、てっきり俺が後ろについてきていることを分かっているのだと思っていたが、全然そんなことはなかったみたいだ。
「当たり前だよ。わたし、【気配察知】のスキルとか持ってないもんっ」
冗談めかした怒り顔をする桜川さん。はい、可愛い。ぷくっと頬を膨らませて、目元や口元は少し笑っている。はい、可愛い。否応なく可愛い。
「【気配察知】ってS.Oじゃないんだから」
俺が苦笑しながら言うや、桜川さんは顔をぱあっと輝かせた。
「そうそう! 隠蔽状態の相手から攻撃されても奇襲ペナルティがかからなくなるスキル。ああっ……分かってくれるの嬉しいなあっ」
飛びっきりの笑顔だ。そんな顔を向けられたら、まともに目を合わせていられなくなる。
「あ、ああ……うん。まあ、ウィキで見たし……」
「そうなんだ。一だけでも取っておくと便利だよ。ダンジョンだと、隠蔽状態から奇襲してくるモンスターも結構いるからね。あっでも、固定パーティでやってて、誰かが【隠蔽看破】持ってるんなら、なくても平気なのかな? わたしとヒダリはどっちも察知でやってるけど、看破と違って、奇襲を防げるわけじゃないからねぇ」
桜川さんは笑顔をいっそう輝かせて、立て板に水という表現を実演してみせるかのように語りかけてきた。
「う、うん……」
俺が呆然としていることに気づいた桜川さんは、はっと気づいたように笑顔を引っ込ませた。
「あ……ごめん、急に。ほら、リアルでS.Oの話ができる友達って他にいないから、ついテンション上がっちゃって……ごめんね、あはは……」
全然笑っていない笑い声に、俺は咄嗟にぶんぶんと頭を振った。
「謝ることじゃないって。桜川さんがすごい楽しそうに話すから、ちょっと驚いただけ。全然そういう話、してくれていいよ」
「……本当?」
「うん、本当」
「よかったぁ!」
桜川さんがまた笑顔になった。光が弾けるような笑顔だ。そんな笑顔を見せられたらもう、何を言われたって頷いちゃうに決まっている。
「桜川さんだったら、非オタのひとにネトゲトークしても余裕で許されるよ。俺とかがやったらドン引きされるけどさ」
「あはは、そんなことないよ。みんな、それなりに相槌打ったりしてくれるけど、トークが広がらないんだよね。すぐに流されちゃう」
「まあ、興味ないことは仕方ないか」
俺だってバンドやアイドルの話題を振られたら、愛想笑いするのが精一杯だろうし。
「わたしも仕方ないって分かってるよ。でも、たまには思いっきりしたくなるじゃない。ネトゲトーク」
「……まあ、桜川さん、好きそうだよね」
あの皆元と中学の頃から相方をやっているのだから、桜川さんは立派なネトゲ中毒者だ。見た目とコミュ力がずば抜けているから、まったくそう見えないだけで。
「うん、好き」
桜川さんは俺をまっすぐ見つめて、そう言った。その瞬間、俺の心臓は激しく跳ねた。……いや、分かっている。いまの好きは、ネトゲトークするのが好きだ。それ以外の意味はない。まったく、ない。落ち着け、俺。
「そ、そっか。うん……あ、じゃあ、俺をこっそり呼び出したのも、ネトゲトークがしたくて?」
「んー……」
桜川さんは眉根をきゅっと寄せて言い淀む。そんな仕草も、はい可愛い。というか、ネトゲトークしたかったわけではないらしい。では、何の用だろう?
「んー、んー……とりあえず、ここで立ち話もなんだし、どこか座って話せるところに行かない? ……といっても、校舎のこっちのほうに来たことがないから、山野くんがいい場所を知っていると助かるんだけど」
「……じゃあ、こっちに」
「うん」
今度は俺が先に立って、階段を下りた。そのまま校舎の裏手のほうへと向かい、通用口を抜ける。そして校舎裏の壁を囲むように敷かれているコンクリート製の犬走りをちょっと歩いたところで、腰を下ろした。
いつだったか、皆元と一緒に昼飯を食べた場所だ。さっきの踊り場からすぐだったこと思い出し、桜川さんを連れてきたのだが……
「人気のない場所のほうがいいかと思ったんだけど、失敗だったかな……」
もっさい男二人だったあのときは気にならなかったけれど、女子を連れてくる場所としては汚すぎだったかもしれない。犬走りのコンクリートは、座って尻をつけるのが躊躇われるくらいには土埃が目立っていた。皆元に連れてこられたときは二人してしゃがんで飯を食ったけれど、桜川さんにそれを強要するのはどうなのか……と一人で思い悩んでいたら、
「べつにいいよ、ここで」
桜川さんはポケットから出したハンカチをばさりと広げて敷物にすると、そこにぺたんと腰を下ろして体育座りした。ハンカチか。そういうものもあったのか。
「山野くん、ハンカチないの?」
「……普段使わないし」
「男の子ってハンカチ持ってないよね。なんでかなぁ」
桜川さんはおかしそうに微笑みながら、お弁当を包んでいた大判のハンカチを自分の横に敷く。
「はい、どうぞ。ここに座って」
「え、いいの?」
「いいから、ほら」
ハンカチを指でとんとん叩いて促されると、断る気にはなれなかった。
「……ありがたく使わせていただきます」
「んっ」
隣に座った俺に、桜川さんは満足の笑みを零す。はい可愛い。というか、隣だし。よく考えたら、人気のない校舎裏で、二人っきりで、隣同士だし。なんだこれ? なんだこれ!?
動揺が顔に出て、かあっと頬が熱くなる。
「大丈夫、山野くん?」
「あ、ああっ! うん、大丈夫! なんでもない!」
「そう?」
「それより、お弁当なんだね――」
俺は話題を換えるつもりで、桜川さんの膝に載っている大きめの弁当箱に視線をやった。でもって、自分の昼食のことをど忘れしていたことに思い至った。
「念のために聞くけど、山野くん、教室にお弁当を置いてきたりする?」
「いや、今日はパンでも買ってたべるつもりで……」
「あ、よかったぁ。これ、山野くんに食べてもらいたくて作ってきたんだけど、山野くんってたまにお弁当を持ってきているから被っちゃうかもって、ちょっと心配してたの。でも、男の子だし、お弁当が二個あっても大丈夫だったよね」
桜川さんはにこにこ笑顔で話しながら、弁当箱の蓋を取る。中にはサンドイッチがぎっしりと詰まっていた。
「サンドイッチだ。美味しそう……食べていいの?」
「もちろん。調子に乗って三人前は作っちゃったから、遠慮しないでいっぱい食べてねっ」
「じゃあ……いただきます」
これ以上の遠慮は逆に失礼だ。サンドイッチを一切れ摘んで、口に入れる。
「……!」
美味かった。見た目からして美味そうだったけれど、口に入れた途端に広がった美味さは想像以上だった。
ほんのりと焼き目を付けられた食パンのさっくりふんわりした歯触りに、バターの旨味がふわっと広がる。挟まっている中身もまた美味い。タルタルソース風のこれは、刻んだ半熟玉子と玉葱、ピクルス。それに紫蘇か? こっちのはキャベツの千切りとハンバーグだ。糸のように細く切られたキャベツのふわふわと、粗挽きハンバーグの肉々しさが口の中でコントラストを奏でる。そしてこっちの、トマトとレタスとサワーチーズのサンドイッチは何だ!? ただ食材を切って挟んだだけに思われるのに、美味い。美味い! 美味いぞぉ!
一心不乱に食いまくってしまった。気がつけば全部平らげていて、隣で桜川さんがくすくす笑っていた。
「あ……ええと、ごちそうさまでした。美味しかったです」
「お粗末様でした。はい、お茶もあるよ」
「ありがとう」
弁当箱と一緒に水筒も包んであったようで、桜川さんはコップ代わりの蓋に注いだ焙じ茶を差し出してくれた。
ほどよく温かいお茶が、満ちたりとお腹に染み入ってくる。
「ふぅ……本当に美味しかった。サンドイッチって、こんなに美味しくなるんだな」
「使った材料が良かったのかな。ほら、転勤のお祝いでいっぱい貰い物したって言ったでしょ。それを使ったから」
「そういう貰い物って、パンやバターもあるの? ケーキとかの生菓子ならまだ分からなくもないけど……」
「あはは、カタログギフトだよ」
「ああ……この本に載っているのなら、なんでも好きなのをただで頼んでいいですよ、っていうやつ」
「そう。そのやつ。それでお取り寄せした高級パンと高級バターで作ったから、わたしでも美味しく作れたんだと思うよ」
「……それだけじゃないと思うけど」
パンの焼き加減や、半熟玉子の絶妙な半熟具合なんかは、料理人の腕が良かった証拠だと思う。でも、それを告げることの気恥ずかしさが舌を重くしているうちに、桜川さんがぽつりと言葉を零した。
「だったら、感謝の気持ちが籠もっているから美味しいのかも、なんて」
「え……って、そういえば、なんでサンドイッチを?」
桜川さんはさっき、俺に食べてもらいたくて作ってきた、と言っていた。そのときはまだ理解が追いついてきていなかったけれど、お腹が膨れたおかげで、いまは理解できる。
「だから、お礼だよ。感謝の気持ちを形にしたのっ」
桜川さんは頬をほんのり赤らめて言った。
俺、感謝されるようなことをしたか……?
「昨日、皆元くんと仲直りできたの。放課後に皆元くんが追いかけてきて、スマホを印籠みたいに見せてきながら、この前はごめん、って」
そのときのことを思い出したのか、桜川さんはくすくす笑いながら昨日のことを話してくれた。
――皆元は昨日の放課後、友達と一緒に帰る桜川さんの後をつけて、桜川さんが一人になったところを見計らって声をかけたのだという。
「この前はごめん。無理って言ったのは、リアルの自分はリアルの君に釣り合わない、という意味で言ったんだ。でも、自分もきみと話したい。アズヘイルじゃない君とも友人になりたい。スマホを買ったんだ。メールアドレスを交換してほしい!」
そんなことを熱弁したのだそうだ。
「あのときのヒダリ、顔から湯気が出そうなくらい真っ赤になってて……ふふっ」
「……その思い出し笑い、皆元の前では止めたげてね」
「あっ、べつに変な意味で笑ったんじゃないよっ! 純粋に面白い顔だったから笑っただけでっ!」
「頭では分かっても、心がダメージを受けるんだよ。女子から笑われるってのはさ……」
「本当にそんなつもりじゃないのっ」
「うんうん」
と適当に頷いたところで、俺は話が脱線していることに気づいて、軌道を元に戻させた。
「とにかく、このサンドイッチは皆元と仲直りできたお礼ってことか……でも、俺は何もしてないと思うんだよね……」
俺がしたことといえば、S.Oの中で皆元に決闘を吹っかけて、騙し討ちみたいなやり方で勝利した後、盛大に煽ったことくらいだ。皆元は本気で怒っていたと思うから、「山野のおかげで謝る勇気が持てたんだ」なんてことを桜川さんに語ったとは思えないのだが。
首を捻っている俺に、桜川さんはまたしても思い出し笑いをした。
「皆元くんがわたしに謝った理由ってね、山野みたいな肉食オタに自分の大事な相方は任せられんっ、なんだって」
「肉食オタってなんだよ……というか、相方からそんなふうに言われている相手に対して、お礼のサンドイッチを作ってきたんだ?」
「だって、わざとでしょ」
笑顔でさらりと言われて、俺は咄嗟に何も言えなかった。それで確信したというように、桜川さんはいっそう笑顔になった。
「やっぱりだ。山野くん、ヒダリのお尻を叩くためにわざと悪者役をやってくれたんだよねっ」
「ん……言いたいことを言っただけ、かもしれないよ……?」
「どっちでもいいよ」
「いいのかよ……」
冗談めかして笑い返そうとしたものの、どうしたってぎこちなくなる。桜川さんの笑顔の破壊力がやばい。心臓どころか頭の中までドキドキ鳴りまくっている。図らずも見つめ合う形になってしまうと、ますますやばい。
「いまは、さ――」
桜川さんが視線をゆるりと泳がせながら、呟くように言う。
「ヒダリが言った通りにするのも悪くないかな、なんて……ちょっと思ってたりも……なんてっ」
「……ん?」
「だから、S.Oでの……アズヘイルの相方はヒダリしかいないと思っているけど、リアルでの相方なら、山野くんも有りかなぁ、なんて……って、うわ! いまの、わたし何様だよーって感じだったよね! わっ、わわっ……あ、あははっ」
顔をトマトみたいな真っ赤にして、わたわたと両手を振って慌てる桜川さん。誤魔化し笑いが全然、誤魔化し笑いになってないけど、誤魔化されてあげたくなっちゃう!
「うんうん、分かってますとも。うんうん」
「……まるっきり冗談だって思われるのも、それはそれで違うんだけどさ」
ぼそっと言われた。
「え?」
「なんでもないですっ」
聞き返したら、唇を尖らせた拗ね顔でそう言われてしまった。唇を尖らせた仏頂面も可愛かったので、とりあえずまあよし。
「まっ、まあ、冗談はさておき……」
と、桜川さんは咳払いして続ける。
「わたし、山野くんとはいい友達になれると思ってるんだよ。だってほら、山野くんとは気兼ねなくS.Oの話もできるし、それに……」
そしてなぜか、そこで言い淀んでから、俺をちらりと横目で恥ずかしげに見やって言った。
「山野くんには、わたしの恥ずかしい秘密、見られちゃったし……ねっ」
「ええっ!?」
なんの話ですか!?
――そう思ったのは俺だけではなかった。
「なっ、なななっ何だとおぉッ!?」
「きゃっ」
「おうぅ……皆元!?」
通用口から大音声を上げながら飛び出してきたのは、皆元だった。俺も驚いたけれど、桜川さんはもっと驚いたようで、俺の腕にぎゅっとしがみついてきていた。制服では隠しきれない柔らかさが、腕にむぎゅっとくる。
「はっ、離れないか! いっ、いやその前に、恥ずかしい秘密とは、な、なんだ……!?」
皆元は俺に指を突きつけて、声を裏返らせる。
「落ち着け、皆元。俺に離れろと言われても、くっついてきているのは桜川さんのほうだ。それと、恥ずかしい秘密は俺も初耳だから! ってか、本当に何の話!?」
最後の疑問は桜川さんに向けてのものだ。いやもう本当に何の話ですか!?
「何の話って……山野くん、見たじゃない。わたしの部屋で、捲って……中を……」
「部屋で!? 捲くって中を!?」
桜川さんがまったく事実無根なことを言って、皆元がガラスを擦ったみたいな奇声を上げる。
「ちょっと桜川さん!? 俺、そんなことしてないよね!?」
「したじゃない! わたしの部屋に来たとき、本棚のカーテンを捲って、中の背表紙を……見たじゃない!」
「あ……」
……うん、した。
でもそれは、本棚にかかっていたカーテンの隙間からBL小説のタイトルをチラ見しちゃっただけの話であって、そんな誤解を受ける言いまわしをしなくたっていいじゃないか! いやそれ以前に、本棚のカーテンには最初から隙間があったのであって、俺が自分で捲ったわけでもないし!
「皆元、誤解だ――」
俺は誤解を解こうとしたけれど、皆元は待ってくれなかった。
「くっ、くそぉ! 覚えてろよぉ! 自分は絶対、認めないからなぁッ!!」
お手本のような捨て台詞を残して、校舎の中に駆け戻ってしまった。
「あっ……皆元、待ってぇ!」
叫んで手を伸ばす俺の隣で、桜川さんが今更ぽんと手を打って、
「あー、もしかしてヒダリに誤解させちゃったかな?」
「させちゃったかな、じゃないよ! 確実に誤解させたから!」
「……てへっ」
「可愛いけれど、いまはちょっとイラッとする!」
こんなところで馬鹿を言い合っている暇はない。俺は桜川さんの手を振り解くように立ち上がった。けれど、桜川さんが俺の袖口を掴んで引き留める。
「待って。山野くんが言っても、きっと火に油だよ。わたしが追いかけて、ちゃんと誤解を解いてくるから」
「……本当に頼むよ」
「任せてっ……あ、お弁当の片付けはよろしくっ」
桜川さんはいっそ無責任なくらい満面の笑顔で請け負って、小走りに校舎の中へと駆けていった。俺はそれを見送って、広げたままのハンカチや弁当箱を回収すると、溜め息混じりの足取りで通用口から校舎に戻った。
通用口は観音開きの扉で、全開だと人が三人並んで通れるくらいの間取りになっている。また、業者の出入りのためなのか、いまくらいの暖かい時季だと扉の片方だけ開けっぱなしにした状態で楔を噛ませて固定していることが多い。
いまもそうなっているのだけど、通用口を抜けて三歩ほどあるいたところで、俺は思わず身体ごと振り返っていた。
「――ひっ」
開いている扉と壁の間には数十センチほどの隙間があるのだけど、その隙間に……堀川が立っていた。横向きの直立姿勢で、ぴったり挟まっていた。
俺の上げた驚き声に気づいて、堀川はゆっくりと首をこちらに向けてくる。
「あら、奇遇」
「……そうだね」
そんなところで澄ました顔で言われても、俺に面白いツッコミができると思わないでいただきたい。というか本当、なんでここにいるんだよ……。
「べつに、山野くんたちの後をつけてきたわけじゃないから。皆元くんの後をつけてきたら、たまたま皆元くんは山野くんたちの後をつけていただけ。だから、山野くんと転校生の話はまったく聞こえていなかったから安心して」
堀川は隙間から出てきながら、弁解しているつもりなんか一切なさそうな涼しい顔で言ってくる。
「でも、皆元の大声は聞こえたよね」
「……山野くんが転校生の部屋で、転校生の服を捲って恥ずかしいところを見せてもらった肉食オタという話なら、聞こえた」
「違うから。それ、違うから! 百パーセント誤解だから!」
俺は、本棚のカーテンがたまたま少し捲れていて、アルバムの背表紙が見えただけだったから――と釈明した。さすがにBL小説だったことは隠しておいた。
「じゃあ、転校生の部屋には行ったんだ」
「うん。まあ……」
「だったら、百パーセント誤解だったわけではないよね」
「えぇ……」
「転校してきて間もない女子の部屋で二人きりになったことは事実なんだから、肉食オタというのもあながち間違ってはいないと思うのだけど」
「そんなぁ……」
「というか、そろそろ謝ってほしいのだけど」
「また急に理不尽なことを……」
俺が眉間に皺を寄せて溜め息を吐くと、堀川の眉間にも縦皺が刻まれた。
「急じゃないし、理不尽でもない。わたしは待ってたのに――山野くんが、皆元くんに話しかけるのは少し待って、と言ったから待っていたのに……嘘吐き、裏切り者!」
「あ……」
そうか……堀川から見たら、そう見えてしまうのか。
冷静に考えたら、俺が堀川から請け負ったのはS.Oを教えることだけで、皆元とリアルで仲良くなるのに手を貸すことではない。皆元と桜川さんが仲良くなっていようと、俺が咎められる謂われはない……のだけれど、面と向かって潤んだ瞳で睨まれていたら、俺が悪いような気がしてくるではないか。
「違うんだ、堀川。俺が待ってと言ったのは、皆元が桜川さんと仲直りしてから話しかけたほうが上手くいくと考えたからで――そうだ。だから、もう話しかけても大丈夫だぞ」
俺は親指をぐっと立てて力強く頷く。でも、堀川はみるみる眉根を下げていく。
「……もう遅い。皆元くん、いまごろ転校生と仲良くお話ししてるんだ……」
瞳は潤んだままだし、いまにも泣き出しそうだ。こんなところで泣かれたら、俺の手に負えなくなってしまう。なんとか泣かないでもらうには――
「分かった、こうしよう!」
「……?」
「俺は改めて、堀川さんと約束する。堀川さんと皆元が仲良くできるように協力する、って約束する。だから、泣かないで」
堀川は小首を傾げて聞いていたが、ぼそりと言ってくる。
「……協力って、具体的には?」
「えっ、ええと……S.Oで皆元と一緒に狩りできるようにセッティングするし、あと、リアルでも会話の機会をなんとかする!」
「また嘘だ……」
「嘘じゃない。本当だから」
「……本当?」
「本当!」
「なら――」
堀川がすっと手を伸ばしてきた。握手かと思ったら、緩く握った手の小指だけをまっすぐ伸ばしたそれは、
「指切りして」
「……いいよ」
俺は頷き、自分の小指を堀川の細い小指に絡ませた。そして、どちらからともなく「指切りげんまん、嘘吐いたーら……」と声を重ねて、指を切った。
指切りなんて、この前したのはいつのことだったか……?
懐かしさと恥ずかしさとの綯い交ぜになった思いに浸っていると、ふっ、ふっ、と短く息の漏れる音。顔を上げると、堀川がいま切ったばかりの小指を見つめて、必死で笑いを堪えていた。
「指切りなんて小学校のとき以来だ……ふ、ふふっ……おかしいの……ふふっ」
「何がそんなにおかしいのさ……ふ、ふふふっ」
肩を揺らして堪えている堀川を見ていたら、俺まで無性に笑えてきた。
「ふふっ……ねえ、山野くん」
忍び笑いをしながら堀川が聞いてくる。
俺も笑いを噛み殺しながら答える。
「ふ、ふ……なに?」
「これからも、わたしにネトゲを教えなさい!」
雪解けのキラキラみたいな笑顔に、
「もちろん」
俺は考えるまでもなく、頷いた。
わたしにネトゲを教えなさい! 雨夜 @stayblue
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