●8. おまえがヒダリになってくれ
「え……人違い……?」
桜川さんは俺を見上げたまま、きょとんと小首を傾げる。抱きつかれたままそんな可愛い仕草をされたら、吹っ飛んだはずの若い衝動がまたむくむくと起ち上がってきてしいそうになる。
俺の内心で興奮と混乱が渦巻いているのを他所に、桜川さんは戸惑いがちに眉根を寄せた。
「山野くんって、ヒダリ、だよね?」
「……人違いです」
もう一度、さっきと同じことを言う俺の口。
桜川さんはを眉根を寄せた表情のまま、じっと俺を見つめる。だから、至近距離から見つめてくるのは止めていただきたい。顔に吐息をかけてしまいそうで、息ができなくなる。
桜川さんは息を止めている俺に、未練がましい様子で問いかけてくる。
「でも、ザイフェルトオンラインやってるんだよね?」
「それは確かにやってるけど……あ、ヒダリってキャラ名?」
俺の言葉に、桜川さんは小さく首肯する。だから、俺はゆるりと頭を振った。
「だったらやっぱり、違うよ。キャラ名、全然違うし」
ヒダリというのも妙な名前だと思うが、俺のキャラの名前はもっと奇抜だ。
俺が否定してもなお、桜川さんは諦めきれない様子だった。「でも……」とか「だって……」とか小さく呟いていたいる。俺が何か声をかけたほうがいいような気もしたのだけど、上手い台詞が思いつかない。
桜川さんは桜川さんで、これまで見せたことのない呆然とした顔でぶつぶつ呟いている。
「そんな……絶対そうだと思ったのに……やっと見つけたと思ったのに……」
「……なんか、ごめんなさい」
思わず俺が謝ってしまった。
「あ……ううん、ゴメンはわたしだよ。なんか勘違いしちゃって……あはは……ごめんなさい」
明らかに落胆していたけれど、桜川さんはそれでも健気に頬笑んで謝罪してくれた。
「分かってもらえれば全然です」
ぎこちなく笑い返した俺に、
「あ、また敬語」
桜川さんは冗談めかして、くすりと笑んだ。はい、可愛い。でも、度を超した可愛さはこの場合、凶器です。もう解放してください。
――その願いは、横からの圧力によって叶えられた。
「……」
無言の気配に振り向くと、堀川が立っていた。冴え冴えとした目つきで俺たちを見ていた。
「あっ、ごめん。戸口の前で邪魔だったよね」
ずっと俺に抱きついたままだった桜川さんが、誤りながらぱっと身を離した。ほっとする俺。一抹の名残惜しさを感じるものの、安堵のほうが強かった。薬も過ぎれば毒となる、いわんや美少女の過ぎたるにおいてをや、だ。
「……」
堀川は、出入り口の左右に分かれた俺と桜川さんの真ん中を無言で通り抜けて、教室を出て行った。俺の前を通っていく瞬間、ちらっと横目で俺を見ていった……というか睨んでいったような気がする。出入り口の一方を五分近く封鎖していたのだから、睨まれても当然か。
「怒られちゃったね」
桜川さんに小声で笑いかけられた。はい、可愛い。
そこでまた、茶髪チャラ男が桜川さんを呼ぶ。目が合うと怖いので見なかったけれど、苛立っている声だった。
「じゃあ、わたし戻るね。ごめんね、変なこと言っちゃって。忘れてっ」
桜川さんは口早に言うと、春風のような微笑みを残して仲間のところへ戻っていった。
そして俺は一人になる。友人たちはまだ教室に残っていたけれど、クラスメイトの注目を集めている俺と合流するのは躊躇われるようだ。その気持ち、よく分かる。なので当初の予定通り、さっさと帰ることにした。
もう邪魔する者はいないだろうし――と思ってしまったのが運の尽き。不用意に立ててしまったフラグは速攻で回収された。
「山野、用がある。付き合え」
俺にだけ聞こえるくらいのぼそぼそ声で話しかけてきたのは、皆元だった。堀川心がネトゲを始めた原因にして、堀川心の思い人である皆元融そのひとだった。
●
誰がともなく高嶺の花と呼び始めた美少女クラスメイト、堀川心。
転校生の桜川綏子もまた美少女だけど、タイプが違う。月と太陽、百合と牡丹。白い薔薇とオレンジの薔薇。思わず釣られてしまう笑顔と、はっと息を呑んでしまう笑顔――とにかく、美少女は美少女なのだ。互いの光が打ち消し合うことはないのだ。
――そんな美少女の一方が片想いしている男子生徒が、いま、俺の前に着席している。夕方にはまだ早い時間だったが、店内に俺たち以外の学生服姿は見あたらない。大学生や社会人の客ばかりだ。皆元から相談があると言われたからついてきたけれど、ファミレスやバーガー屋ではなく、わざわざ渋めの喫茶店に入ったあたりが、じつに彼らしかった。
彼の名前は皆元融。俺たちと同じクラスの男子で、端的に言うならオタクだ。俺だって人のことは言えないけれど、顔がいいわけでも、背が高いわけでも、隠れマッチョだったりするわけでもない。アニオタ、ゲーオタという言葉を聞いてパッとイメージされるオタクそのままのザ・オタクだ。髪だって、激安チェーンの床屋で切ってもらっているに違いない。
オタクの皆元融と、高嶺の花の堀川心。
どう考えても接点があるとは思えないのに、堀川は皆元に惚れているという。堀川とは教室以外でなら大分話せるようになっているけれど、その理由はいまだに聞きそびれている。まあ、聞いても教えてくれないだろうけど。
……皆元に聞いたら、その理由が分かるのだろうか?
俺は改めて、正面の席に座っている皆元を見やる。
皆元の目は俺から少し横にずれたところを見つめていたが、こちらの視線に気づいてか、ゆっくりと目を合わせてきた。
「……悪いな、付き合わせて」
「いや、べつに」
席に着いてから初めての会話は、早々に終わってしまった。けれど、沈黙を誤魔化してくれる見事なタイミングで、先ほど注文しておいたコーヒーが運ばれてきてくれた。
ほどよい温度のコーヒーで唇を湿らせて、俺から切り出す。
「で、要件は……桜川さんと関係あることなの?」
「ん……」
皆元は頷くと、祈るように組んだ両手の上に顎を乗せて、ぼそぼそと語り始めた。
「彼女がヒダリという名前を口にしたのを、山野も聞いただろ。それは……自分のことなんだ」
「自分の? 桜川さん自身がヒダリ?」
「ああ、すまない。自分というのは一人称だ。どうも、俺、僕、私というのがしっくりこなくてな。つい、自分のことを自分と言ってしまうんだ」
「はあ……」
皆元と話をしたのは――というか、皆元が誰かと話をしているのを聞いたことさえなかったけれど、喋り方までキャラ付けの濃い奴だった。
「話を戻していいか?」
「うん、どうぞ」
頷く俺に、皆元はコーヒーを一口啜ると、おもむろに、
「ザイフェルトオンライン完全攻略本」
「えっ」
不意打ちの一言に、俺は危うくコーヒーを零すところだった。慌てる俺に、皆元は淡々と続ける。
「さっき、鞄の中身をぶちまけたとき、机に落ちたのが見えていた。山野もやっているんだな」
「……うん。最近、ちょっとな」
俺より気合いの入ったオタクを相手に隠すこともない。素直に答えた。
「そうか。なら、話しは早い。自分もS.Oをやっているんだが、ヒダリというのは自分のPCの名前なんだ」
「ああ……」
と、納得する俺。
「それで、自分には相方がいて、それが……桜川なんだ」
「……は?」
と、間抜けな声を出す俺だった。
ネトゲにおける相方というのは、リアルで例えるならパートナーだ。日本語で言うなら、相棒、伴侶、彼氏彼女だ。ふんわりと「よく一緒に遊ぶ知人、友人」ではなく、敢えて「相方」という呼び方を互いに認め合う関係というのは、そういうことだ。少なくとも、俺界隈における認識ではそういうことになっている。
ぼっちオタクの皆元に、ネトゲの中でのこととはいえ相方がいた――というのは別に驚かない。むしろ、それでこそ皆元だ、と納得するくらいだ。唖然とするほど驚いたのは、その相方が桜川さんだという点だった。
ただでさえ、なぜか堀川から好意を持たれているくせに、その上さらに桜川さんからも好かれているって、どういうことだ!? ヒダリだと勘違いした相手に思わず抱きついてしまって、単なるネトゲの相方に対する気持ちの範疇を超えていないか!?
皆元融。
こうして間近で見つめて、どこにそんなモテ要素があるのか分からない。教室内でも異彩を放っているオンリーワンな存在であることは認めるが、だからといって、それがモテる要素だとは思えない。むしろ、敬遠される要素にしかなっていない――いや待て、それともあれか? 「彼のことを分かってあげられるのは、わたしだけなの」という母性本能的な何かをくすぐる要素になっているのか? 堀川や桜川さんくらいの美少女になると、直球ど真ん中のイケメンは既に見飽きていて、一周回って皆元くらい悪球のほうがストライクになるのか!?
「おい……山野? 大丈夫か?」
怪訝そうな皆元の声で、俺は我に返った。
「……大丈夫。でも、説明を」
「いまからするとも」
そう言って皆元が告げてきたのは、ざっとこのような内容だった。
皆元がS.Oを始めたのは一昨年のことだった。当時は中学二年で、部活もしていなかった皆元は相当にネトゲ漬けだったという。最初はネトゲ内でもソロばかりだったのが、必要に駆られて臨時パーティを組むことが多くなった。臨時パーティは一期一会が基本だけれど、同程度のランク帯で集まることになるため、同じ相手と何度か一緒になることも珍しくない。とはいえ、レベル上げのペースは人それぞれだから、二度や三度なら珍しくなくとも、十や二十とくれば、これはもう運命的だ。
『ログインする時間帯や狩りのペースも同じだし、連絡し合って一緒に狩るようにしたほうが効率的じゃないか?』
という提案から始まって、一ヶ月もそんな関係が続けば、
『うちら、これもう相方だよな』
『そうかな』
『そうだよ!』
と相成ったことには、なんの不思議もなかった。
しかし、中学三年になると受験が始まる。それでも息抜きの名目で小まめにログインしていたようだけど、狩りをするほどの時間は取れず、しばらくチャットして落ちるだけということがほとんどになった。
狩りから離れると、チャットの話題は自然とリアル事情に及ぶことが多くなる。天気の話や、コンビニで買ったご当地限定お菓子の話等々。そうしたなかで、二人とも高校受験を控えた身であることが明らかになった。
『中三なのにネトゲしてるって、良くないだろ』
『お互いにな』
同い年だと分かって以来、会話はさらに弾むようになった。ネトゲの中でしか会わない相手だからこその気軽さもあって、皆元はそれまで以上に色々なことを話した。今後もリアルで会うことは絶対にないと思っていたから、思うままに話しまくったという。
「そうしたら、転校してきたってわけか」
皆元が一頻り話し終えたところで、俺がそう言うと、
「……そうなんだ」
皆元も組んだ両手に顎を押しつけるように項垂れた。そして、すっかり冷めてしまったコーヒーにようやく手をつけながら、しみじみと嘆息する。
「けど普通、思わないだろう? ネットゲームで知り合った相手が同い年で、同じクラスに転校してくるなどというラノベじみた話、ないだろう?」
「そうだな、ないな。女子からいきなりネトゲを教えなさいって言われるくらい、ないな」
「は? なんの話だ?」
思わず苦笑いした俺に、皆元は怪訝そうな顔をする。俺は片手を振って、話の続きを促した。
「なんでもない。気にしないで。それより、わざわざ喫茶店に入ってまでしたかったのは昔話だけなのか?」
「いや……」
皆元は冷めたコーヒーをぐいっと飲み干し、それでもまだ足りないのか、お冷やも口に運んだ。それでようやく決心がついたのか、俺の目を見て切り出してきた。
「結論から先に言うと、山野にはヒダリになってもらいたいんだ」
「……まったく意味が分からないけど、これから説明してくれるんだよな?」
俺の言葉に、皆元はこくりと頷いた。
「さっき、桜川はおまえを抱擁しただろ。つまり、山野は桜川にとって許容範囲内の男、ということだ。だから、山野にヒダリになってもらいたいんだ」
「うん……うん、うん……まず、許容範囲云々というのはまあ、言わんとするところは分かる。そこはいいや。でも次の、だから、って接続詞以降はまったく意味が分からない」
「山野がヒダリのプレイヤーだったことにしてほしいんだ」
「そこじゃねえよ! そこは分かってるよ。なんでその結論が導かれるのかが分からないって言ってんの!」
真顔で言い直してくる皆元に、俺は噛みつくようにツッコミを入れていた。
「……そうだな。いまのは自分の説明が足りていなかったよな。話を急ぎすぎた、すまない」
皆元はそう言って頭を下げた。そうあっさり謝られると、俺も毒気を抜かれてしまう。
「まあ……頼むよ。ちゃんと説明してくれ」
皆元は小さく首肯してから、ぽつぽつと話し始めた。
「S.Oでの自分は、この自分ではなくヒダリという一個の確立されたえキャラクターなんだ。アバターではなく、キャラクターなんだ。つまり、自分の化身なのではなく、ひとつの個性なんだ」
「ロールプレイってやつか」
「よく分かるな。概ね、その通りだ」
皆元は少し驚いたように眉を揺らして、俺の言葉を肯定した。
ゲームの種類にRPGというのがあるけれど、あれはロールプレイングゲームの略だ。だから、ロールプレイといばRPGのことだろ、と思っているひともいるだろうが、本来の意味は違う。ロールをプレイすること、すなわち役を演じること、という意味だ。もっと柔らかく言うなら、なりきりプレイ、ごっこ遊びだ。
例えば俺だって、フライド豚まんに前衛キャラという役を与えている。これだって広義で言えば、ロールプレイだ。でも、皆元が言っているロールプレイはもっと演劇よりの意味だ。いま挙げた例で言うなら、皆元だったら「前衛」ではなく「騎士」としてキャラを育成するだろう――いや、育成という言い方も違うか。「自キャラを前衛として育てる」のではなく、「騎士になった自分を演じる」と言うべきだろう。
もっとマイルドな意味で、例えば語尾に「~にゃ」と付けて喋る、みたいなのもロールプレイと呼ばれたりするけれど……硬派オタクの皆元に限って、その程度のキャラ付けで済んでいるとは思えなかった。
こうして面と向かって話してみたことで、俺の中にある皆元のイメージはますます極まってきていた。同い年で同じ制服姿なのに、大正時代の書生さんイメージがすごい。間違いなく、妙に角張った喋り方のせいだ。
「S.Oの中での自分は、いま山野の前に座ってコーヒーカップを触っているクソとは違う」
皆元は俺の顔の少し横をじっと見つめて、淡々と言ってくる。
「いや、クソって……」
そんなことないだろ、とは言わせてもらえなかった。どこも見ていない皆元の目には、有無を言わせぬ卑屈さがあった。小学生か中学生の頃によっぽど馬鹿にされた経験があるのかもしれない。
「ヒダリはさ、」
皆元は俺を見ないまま続ける。
「格好いいんだ。どんな敵が相手でも怯まずに立ち向かっていくし、初対面の面子と臨時パーティを組んでもきちんと打ち合わせができるんだ」
前半はともかく、後半は地味にすごいなと思う。
臨時パーティでちゃんと打ち合わせができる……というか普通に会話ができる相手と当たるのは、微レアアイテムを拾うのと同程度には希だったりする。少なくとも、俺の体感では。
酷いのになると、無言で突っ走った挙げ句に自爆して、大量の敵をこちらに押しつけたま一人で死に戻りしてパーティ脱退……という、もはや愉快犯としか思えない相手と当たってしまうことさえある。だから、率先して意思疎通を図ろうとしてくれるプレイヤーは貴重なのだ。少なくとも、俺はそう思っている。
皆元の独白は続く。
「自分にとってのヒダリは、理想そのものだ。だから、自分がヒダリを汚しちゃいけないんだ。学校で誰からも話しかけられない自分みたいなクソが、ヒダリの中身であっちゃいけないんだ。だから――」
皆元の目がついに俺を見た。
泣きそうな目、決意の目。あるいは狂気の目。とにかく普通じゃなかった。
「だから――山野、おまえがヒダリになってくれ」
「……」
沈黙。周りの音が褪せていく。俺も皆元も、もう一言もなく見つめ合っている。
皆元が相当に思い詰めていることは分かった。皆元にとって、ネトゲはたかがネトゲではないのだ。ひとによっては例えばお風呂だったり、例えばカラオケだったり、高カロリーの甘いものだったりスプラッタ映画だったりする、“それがあるから、まだ大丈夫”なのだ。教室で誰とも話さないで過ごす毎日が少しも苦しくないわけがないのだ。ネトゲがあったから――ネトゲの中で理想の自分をロールプレイできていたから、まだ大丈夫、だっただけなのだ。
でも、そんなことは俺に関係ない。俺は皆元の友達ではないし、そもそも頼み事の内容に無理がありすぎる。
ネトゲの中でだけとはいえ、皆元と桜川さんは二年近く一緒に過ごしてきたのだ。俺がヒダリのプレイヤーを演じたところで、どうせすぐに襤褸を出して偽物だと見破られるに決まっている。そうなったら、皆元が絶交されるだけでなく、俺まで巻き添えになって嫌われてしまう。人気者の桜川さんに嫌われたら、教室は針の筵に変わるだろう。そんなのは御免だ。
つまり、皆元の頼みはまさに百害あって一利なし、だ。引き受けるわけがなかった――俺の利益だけを考えるのなら。
「ひとつ、交換条件がある」
「なんだ!? なんでも言ってくれ!」
俺の言葉に、皆元は即答した。
条件を出すというのは、頼みを聞き入れるつもりがあるということだ。それはもう、皆元だって興奮もしよう。
「結果の成否に関わらず、約束してほしいことがある」
「分かった、しよう」
俺が言うと、皆元は今度も食い気味の即答で頷いた。
「まだ何も言ってないだろ。ちゃんと聞いてから答えてくれ」
「……分かった」
苦笑する俺に、皆元はこくこく頷く。何を言われてもどうせ答えは決まっている、と言わんばかりの顔だ。まあ、条件と言うほど大したことでもないし、それで全然構わないのだが。
「条件はひとつ。結果がどうなろうと、おまえに話しかけてくるクラスメイトがいたら邪険にしないで、普通に話をしてやってくれ」
「……それだけか?」
拍子抜けした様子の皆元。
「うん、それだけ。簡単だろ」
「確かに簡単だが、それだけに裏がありそうでもあるのだが……分かった。もとより、自分に是非はないからな」
皆元は、もっておまわった言い方ながらも了承してくれた。
「ありがとう。じゃあ、これで契約成立だな」
「ああ……正直、引き受けてもらえると思っていなかったから……恩に着る」
テーブルに額がつきそうなくらい深々とお辞儀する皆元に、俺だって引き受けると思っていなかったけどな、と言いそうになったけれど、ぐっと呑み込んで自嘲するだけに留めた。
皆元の提案は、俺にとって一利もない。でも、結果がどちらに転んでも桜川さんがリアルで皆元に近付く可能性がなくなるのだから、堀川にとっては一利くらいにはなるかもしれない。
俺にとっては利益にならなくとも、友達の利益になるのなら……そんなふうに思ってしまったのだ。
……間違ってないよな? 俺と堀川って、かぎりなく広い意味で言うなら、たぶんきっと友達だよな? 堀川本人に確かめる勇気はないけど、そうだよな?
「さて……快諾してもらったからには、今夜中には憶えてもらうことを資料にまとめてメールさせてもらおう」
一人悶々としてた俺は、皆元の声で我に返る。
「え……あ、そうか。皆元のキャラの……ヒダリのプレイヤーになりきるためには、ヒダリが作られてから今日までの二年分の出来事を覚えないといけないのか……」
「二年間の全てを、とは言わんが、桜川と一緒に経験したことの中でも印象的なものについては憶えてもう必要がある……頼み事を聞いてもらう身で申し訳ないのだが、すまない」
「いや、いいって。引き受けた以上は、騙し通せるように努力するのが当然だし」
俺が苦笑いで返すと、皆元の眉根に皺が寄った。そして、ぽつりと呟く。
「……騙す、か」
「それはそうだろ」
いまさら言うなよ、と俺は失笑する。
「ばれたら、自分は嫌われるよな」
「絶交だろ――というか、ばれずに騙し通せる確率なんて、どう考えたところでガチャ並に低いんだから、素直に名乗り出ればいいんじゃねーの? と思うんだけどな」
自分で言っておきながら、それこそいまさらな話だ、と思う。皆元にはそれがどうしてもできない理由があるから、こんな馬鹿な計画に縋るしかないのだ。
「山野、重ね重ねすまない。本当に恩に着る」
「何度もいいって。でも、交換条件だけは忘れんなよ」
「話しかけられたらちゃんと受け答えする、だろ。それにどんな意味があるのか気になるけれど、了解している」
「なら、いいんだ」
「じゃあ……そろそろ出るか」
コーヒーはとっくに飲み干している。長時間の会話に慣れていないせいか、喉も苦しい。それはたぶん、皆元も同じはずだ。
「ああ、そうだな。だが、その前に――」
皆元はそこでいったん言葉を切ると、おもむろに鞄から取り出したノートと筆記具を俺のほうに差し出してきた。
「そこにメールアドレスを書いてくれ。でないと、必要資料をまとめても山野に送付できないからな」
「いや、メアド交換はいいけど、なぜノートに? スマホに直接登録してくれよ」
俺の素朴な疑問に返ってきた答えは、これまた素朴なものだった。
「携帯の類は持っていない」
「なんと……」
「現状、持っていなくても全く問題ないからな」
「……なんか、ごめん」
「謝るな」
「ごめ――ああ、うん」
なんとなく居たたまれない空気になる中、俺はさっとノートにメアドを書いた。
喫茶店を出たところで、皆元と別れた。
一人になって歩いていると、疲れと後悔と不安がどっと押し寄せてくる。
「馬鹿な約束しちゃったな……」
いまさら言っても遅すぎると分かっていても、溜め息せずにはいられなかった。
●
家までの道を歩いていると、携帯にメッセが着信した。堀川からだった。
『釈明を待っているのだけど?』
なんの話だ、と思ったら、続けざまにメッセがやってきた。
『転校生スキャンダル』
『写真撮ってる子もいた』
『有名人デビューおめでとう』
そして、怒った顔で舌打ちしている熊のスタンプ。なぜ、熊? そこが無性に気になったものの、俺は道端によって立ち止まると、とにかく返事を打った。
『釈明って、おかしいと思うんだが。あれは桜川さんが人違いしただけ。それだけのことだから』
そのメッセを送信して数秒で、
『ダウト!』
と書かれたプラカードを掲げた熊のスタンプ。それに続けて、
『転校生のこと桜川さんって! いつの間にか仲良くなってる! 裏切り者!!』
そして泣きながら怒っている熊のスタンプ。よっぽど熊が好きらしい。
『桜川さんが転校してきて、もう結構経つだろ。まだ転校生呼びしているほうがおかしいだろ』
やや間があってから、
『屁理屈』
今度はスタンプなし。上手い反論を思いつかなくて、ふて腐れたようだ。その顔を想像したら、俺はついつい、大勝して勝ち誇っている兎のスタンプを送ってしまった。
直後、液晶が点滅して、通話がかかってきたことを告げた。もちろん、堀川からだ。俺は再び歩き出しながら液晶をタップする。
「……はい」
と通話に出るなり、
「馬鹿!」
と怒鳴られた。
「馬鹿って言うほうが馬鹿って言うけど、どう思う?」
「そういう屁理屈はもういいから、ちゃんと教えなさいよ。転校生とどういう関係なの? あっ、べつにどうでもいいんだけれど、教室でいきなりあんな、み、密着してるのを見せつけられたりしたら純粋に気になるじゃない。というか、わたし、教室を出るとき山野くんに目で合図を送ったよね。なのにどうして連絡してこなかったの? 酷いと思うんだけど」
「あ……あれは睨んでいたわけじゃなく、アイコンタクトだったのか」
「気づいてなかった!? それも酷い!」
「いやぁ……あの冷たい目つきは普通に勘違いするって」
「そんなの屁理屈! ……まあ、それはもういい。聞きたいのは、あの転校生と抱き合っていた理由。べつに山野くんの恋愛事情に興味はないけど、見てしまったら嫌でも気になる。だから、教えなさいよ。教えてください」
孤高という名のぼっち街道を征く堀川には、あれが相当ショックな光景だったみたいだ。いつになく気を揉んでいるというか、やきもきしている。
「そんなに言わなくても教えますよ」
と笑って答えはいいけれど、理由の全てを話すわけにはいかない。話せるのはこれだけだ。
「桜川さん、俺を誰かと勘違いしたみたい。勘違いだと気づいたから、すぐに離れたでしょ」
「勘違い? 誰と? ……その前に、誰かと勘違いとは、どういうこと? あの転校生、ジュディなの? ジャービス・ペンデルトンを探しているの?」
「え、なに? それ、何かの比喩?」
「ごめんなさい。山野くんには高尚すぎた」
「なんか微妙にイラッとするけど、とにかく勘違いだったみたい。なんで勘違いしたのかは、俺も聞いてないから分からない。報告、以上です」
「以上って……何も分からないままじゃない」
「だから、分からないんだってば」
「……そう」
堀川はまだ不満そうだったけれど、それでもどうにか納得したようだった。
「納得してくれて、なによりだ」
「納得するも何も、山野くんが何も知らないのだから仕方ないだけ」
「それは悪かったですね!」
「まったくね」
堀川は少し笑って、じゃあ、と続けた。
「気になっていたこともいちおうは解消したし、勉強に戻る。夜にまた連絡するから、よろしく」
「ログイン報告だな。今夜でランク三にしよう」
「……うん」
堀川は神妙に答えて、通話を切った。
ランク三になったら皆元に話しかけてみる――自分が言った宣言を、堀川はちゃんと憶えているようだ。
そういえば夜には皆元からメールが来ることになっているけれど、その確認は明日でいいか。明日から土日だし、今夜は狩りに専念して、明日と明後日でヒダリのプレイヤーになりきるための暗記を頑張る――うん、この予定で行こう。
そう決めながら、俺は自宅の玄関扉を開けた。
この日の深夜、フライド豚まんとココロは無事、ランク三になった。
『ありがとう、山野くん。感謝してるわ。月曜日、頑張るから!』
そう言ってココロは落ちていった。
俺もその後すぐにS.Oをログアウトする。
そういえばメール来てないな、もう寝たいんだけどな……と思ったところで携帯の液晶が光ってメール着信を告げてきた。でもそれは、皆元からのメールではなかった。
『桜川です。ヒダリは皆元くんでした。全部聞きました。山野くんと話がしたいです。いまからS.Oにインできますか?』
眠気も思考も一瞬にして吹き飛んだ。
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