●7. ずっと探してたんだよ

 堀川にネトゲを教える、という当初の目的はわりと達成されつつあった。とくに強調すべきは、堀川が自分で具体的な目標を定めたことだ。


「わたし、ランク三になったら告白するんだ」


 ――とは言ってなかったけれど、概ね似たようなことを堀川は確かに明言した。そして、俺と堀川のキャラ、すなわちフライド豚まんとココロがランク三になるのは、おそらく今夜だ。いま受けている本日最後の授業が終わったら、俺も堀川も教室に長居することなく下校する。そしてすぐさまS.Oにログインして……と行きたいところだが、堀川が勉強時間を取るため、最近は夕方の狩りをしていない。それでも、夕飯や入浴などの雑事が終わってから寝るまでの数時間を狩りに当てれば、今夜中にランク三到達するのも夢ではないだろう。幸いにも今日は金曜日で、明日は休みだ。夜更けまでネトゲしてても、朝寝坊を心配しなくていい。つまり、ランク三到達するまで狩ってもいい!


 ――そんな皮算用をしていたら、授業終了を告げるチャイムが鳴った。


「起立、礼」


 日直の号令が終わると、教師が出ていくよりも先に教室が喧噪でいっぱいになる。

 「どこ行く?」「メンバー誰だっけ?」「知んない」「知ってろよ」みたいなリア充丸出しの掛け合いをしているのは、クラスで随一の茶髪チャラ男たちグループだ。最近はそこに転校生の女子、桜川綏子も加わって一段と華やいでいる。いや――この言い方は少し違うか。

 茶髪チャラ男たちグループに桜川さんが加わったのではない。茶髪チャラ男たちグループのほうが取り込まれて、桜川さんの取り巻きになったのだ。もはや茶髪チャラ男たちグループではなく、桜川さんグループなのだ。……いや、それもまた違うか。

 桜川さんとその取り巻きグループ。その表現こそが、彼らの力関係を正しく表すものだろう。

 ……と、ここまで長々語っておいてなんだけど、べつにどうでもいいのだ。同じ生態系の中で生きていても、リア充属とオタク属ではまったくといっていいほど接点がない。犬と猫より接点がない。教室の出入り口付近で固まってわいわい騒いでいられると邪魔だな、くらいでしかないのだ。


「んじゃ、また明日な」


 俺は友人に軽く手を振って、教室を出ようとした。だが、それを阻んだ影があった。

 戸口の手前に屯していた桜川さんグループの男子が、茶髪チャラ男にふざけて肩を押されたはずみで、俺の肩口に背中からタックルしてきたのだった。八極拳で言うところの鉄山靠だった。


「おふぅ……!?」


 完璧に不意打ちだった俺は、間抜けな呻き声を漏らしながら横方向へ盛大によろけて、傍の机に腰をガツンと打ちつける羽目になった。それだけでなく、こんなときにかぎってファスナー閉め忘れていた鞄の中身が――教科書やノートだけならまだしも、授業で使ったプリント類の束までが、ばさばさと盛大に床へぶちまけられてしまった。


「あ、わりぃ……ぎゃはは、おい止めろってばよぉ」


 俺にぶつかった男子はその一言だけで謝罪を済ませた。後半の馬鹿笑いは茶髪チャラ男に向けてのもので、俺に対する謝罪はそのついでみたいに言われただけだった。


「……」


 一瞬、怒鳴るか、襟首を引っ掴んで引き倒すか――と考えたものの、俺はそのどちらもせずに、口の中で舌打ちしながら、床に散乱した教科書やノートを拾い始めた。彼らに文句を言っても馬耳東風だ。リア充属の生き物は集団形成しているときはけして謝らないという特性を持っているからだ。俺は無駄なことはしないのだ。

 ……ああ、すっげぇオタ臭いモノローグだ。【悲報】俺氏、鬼キモい。よかった、散らばったものを拾い集めるためにしゃがんでいて。嫌な感じで火照っている顔を上手いこと隠すことができて。


「こら!」


 涼やかな女声が、しゃがんで俯いている俺の頭上を吹き抜けた。俺が怒られたのかと思って、ノートを拾っていた手がびくっと止まる。でも、それは俺に対する呼びかけではなかった。


「駄目だよ。ぶつかっちゃったのはちゃんと謝らなくちゃだよ――ごめんね。仲村くんも悪気はなかったの。ごめん!」


 そう言いながら近付いてきた女生徒が俺の隣にしゃがんで、プリントを拾い始める。その女生徒が誰なのか、最初の一声を聞いた時点で分かっている。桜川さんだ。転校して数日でクラスのど真ん中に躍り出た、桜川綏子その人だった。


「はい、プリント。これで全部?」

「あ……はい」


 笑顔で手渡された数枚のプリントを、俺は間抜け面で頷きながら受け取る。指と指が触れ合いそうで気が気じゃなかった。

 そのとき、桜川さんが頬笑んだ。こんな言い方をすると気障とか中二とか言われそうだけど、ふわりと春の匂いが吹き抜けていくような微笑みだった。


 このお方、ガチでオーラが違う……。


 思わず見とれてしまっていた俺に、桜川さんは申し訳なさそうに眉を下げる。


「本当にごめんね。わたしからも仲村くんにメッてしておくから。ええ……」

「……あっ、山野、です」

「あ……ごめん。この前、みんなの名前を教えてもらったばかりなのに、わたし物覚え悪くて……」

「あっ、いや、あのときは俺、名前言ってなかったから」

「そうなんだ?」


 桜川さんは俺の苦笑に、少し驚いたように眉を揺らす。


「はは……」


 俺は苦笑を深めることしかできなかった。さすがに本人を前にして、名前を呼ばれもしなかったから答えませんでした、とは言えなかった。


「じゃあ、改めて……山野くん。下の名前も聞いていい?」

「あ、はい。えと、俊成です」

「山野俊成くん、ね。うん、覚えた。桜川綏子です。同じクラスメイトとして、よろしくお願いします」


 一礼して、顔を上げ、にっこり頬笑む。それだけでもう、俺がもう少し初心だったら惚れてた。こいつ俺に惚れたな、と勘違いするまであった。


「こちらこそ、よろしく……です」


 どうにか噛まずに頷きを返した俺に、桜川さんはちょっと困ったように小首を傾げる。


「それと、ひとつ聞いてもいい?」

「え、なに?」

「さっきから敬語なの、どうして?」

「え……あっ」


 言われて初めて気づいた。


「いいよぅ、普通に喋ってくれて。じゃないと、わたしも緊張しちゃうし」

「あ、うん。分かりまし……分かった、うん」


 屈託のない笑顔で言われたら、嫌と言えるわけがない。声が裏返りませんようにと祈りながら、こくこく震えるように頷くばかりだった。

 そのとき、桜川さんの向こうに集まっていた茶髪チャラ男たちが、桜川さんに「行き先決めるから、来て」と呼びかけた。


「うんっ」


 振り返ってそう答えた桜川さんは、俺に視線を戻すと、


「じゃあ――」


 ……きっと桜川さんは、じゃあまたね、と言おうとしたのだと思う。でも、言葉の途中で何かを見てしまったのだ。桜川さんは口を半開きにしたまま、円らな瞳をいっそう丸く見開いて、俺の腰の辺りを凝視していた。

 一瞬、股間を見られているのか!? と思ってしまったけれど、すぐに違うと気づく。桜川さんの視線は俺の腰や股間よりも少し横を見ていた。俺も自分の目で、その視線を追いかける。


「……あっ!?」


 さっき、仲村くんとやらから鉄山靠されたときにぶつかった机だった。あのとき、鞄の中身が床にぶちまけられてしまったと思っていたが、正確には少し違っていたのだ。たった一冊だけだが、床でなく机に落ちたものがあったのだ。


 ザイフェルトオンライン完全攻略本、だった。


 同梱されていた特典コードはすでに回収していたし、日々行進されているウィキがある以上、データ的な価値も薄い。ファンアイテムとしての価値しかなく、棚に仕舞っておかれてしかるべきものだから忘れていた。いつだったか、堀川が貸してと言うかもしれない、と思って鞄に入れたきり、そのまま忘れていたのだった。

 何日も内袋の中に収まって俺の目につかないでいたくせに、どうしてこんなときにかぎって堂々と机の上に出てくるのか!?


「あっ、これは……あ、あはは……」


 誤魔化す言葉を考える暇もあらば、俺は引ったくるようにして攻略本を鞄に押し込んだ。アニメ調の明らかにオタクな表紙だったけれど、桜川さんなら見なかったことにしてくれるはずだ。仲間を呼び寄せて公開処刑するような真似はしないでくれるはずだ――しないでください!


「……」

「……」


 引き攣った愛想笑いで懇願する俺の目と、ぽかんと見開かれたままでいた桜川さんの目が瞬間、交わった。

 先に表情を動かしたのは桜川さんだった。


「ず――」


 桜川さんの顔がくしゃりと歪んで、泣く寸前の顔になる。歪んだ顔でさえ魅力的だった。本気で見とれてしまった。

 だから、


「――ずっと探してた!」


 感極まった声でそう言いながら胸に飛び込んできた桜川さんを、抱きしめることも押し退けることもできなかった。ただ直立不動でいることしかできなかった。

 桜川さんが来るのを待っていた茶髪チャラ男たちのみならず、教室内に残っていた生徒全員からの視線が俺に突き刺さる。でも、俺は指先ひとつ動かせない。桜川さんは俺の背中に両手をまわしてぴったりと抱きついているから、身動ぎしただけで色々と伝わってきてしまうので動けなかった。

 桜川さんの身体は華奢なのに柔らかくて、一部にはゴムボール的な量感もある。制服越しとはいえ、そんな感触がぐいぐい押しつけられるのはヤバい。というか、息をしているだけでもヤバい。顔のすぐ下にある桜川さんの髪からふわりと立ち上ってくる香気に、頭がくらくらしてくる。理性が弾け飛ぶまでの秒読みが始まっている。


「あ……ぁ……」


 意思とは関係なしに、口が勝手に何か言おうとしたけれど、はずみで深く吸い込んだシャンプーだかリンスだかの香気に言葉が吹っ飛ぶ。いよいよ収まらなくなった思春期の衝動が、両手を勝手に動かそうとする。


 ――駄目だ、堪えろ。触っちゃったり揉みしだいたりしちゃったら、明日から学校に来られなくなるぞ!


 それが理性の遺言だった。

 俺の両手はゆっくりと桜川さんの腰にまわされていって、それなりに短いスカートに包まれた丸みを手の平で抱きしめようと――。


 そのとき、桜川さんが顔を上げた。俺に抱きついたままだから、目と目の距離がものすごく近い。至近距離でもすごく可愛い。可愛すぎて、欲望までもが吹っ飛んだ。

 堀川の大きな瞳が俺を見つめる。艶めいた唇が開く。


「ずっと探してたんだよ、ヒダリ」


 遠恋中の恋人と数ヶ月ぶりに会ったみたいな蕩ける笑顔。

 それに対して、理性も欲望も吹っ飛んだ俺の真っ白い思考は、


「人違いです」


 淡々とそう答えた。

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