つくりものの先に言葉を宿して。

〈『もしあなたが人を憎むなら、あなたは、あなた自身の一部でもある彼の中の何かを憎んでいるのだ。我々自身の一部でないようなものは、我々の心をかき乱さない』〉

 暑さと湿気にうんざりする土砂降りの日、五十嵐晴こと〈僕〉は同じクラスになっても一度も話したことのなかった十時楓から声を掛けられ、無性に怒りが込み上げる。いつもと変わらない日常は、自らを〈ふう〉と名乗るクラスメートの言葉によって壊れて、そしてそれは件の女子高生が二日後にいなくなるなんて周囲は知る由もなかった日の出来事だった……、というのが、この作品の導入なのですが、物語の導入を説明することは、この小説の魅力、すくなくとも私が感じ取った美点を語るうえで、あまり意味を持たないような気がします(それは決してストーリーが良くない、という意ではないので誤解なきよう。構成の素晴らしさもあって、物語自体も強く惹き込まれるものだと思います)。

 何よりもまず言葉の魅力があり、例えば、映画とか小説であらすじを聞いただけで内容を知った気になって、実際にその作品を鑑賞することはないまま、ってことありませんか? あんまり褒められた話ではないですが、私にはそういう経験があります。実際に触れてはじめて分かる面白さ、それがどれだけ不幸なことかを特に実感させてくれるの、ってたぶん小説ではこういう言葉の魅力に溢れた作品を読んだ時なんじゃないかな、と思います。

 これは嘘の中から真実を探すために言葉を読む物語なのかもしれない、とそんな考えが、ふと頭に浮かびました。それは現実によりうまく似せている、とかもちろんそういう意味ではありません。

 本心とは誰にもさらけ出さないからこそ、本心、と呼ばれるのであり、

 読む側は言葉から言葉通りではない感情を、探し、見出し、想像していく。

〈ガリッ。噛み砕いたストロベリーポップキャンディーは狂おしいほどに甘ったるい嘘の味で、所詮これはつくりものの苺なのだとふと思い知った。〉

 つくりものの先にある心を読み、見てくれではない本質を探し、

 そして本質は、安価なポップキャンディも、名前の呼び方も、その意味を変えていく。

 これは、小説、言葉でしか読めない感情の旅なのかもしれません。