ストロベリーポップキャンディー。
五水井ラグ
嵐は、苺の味がした。
すっかり陽の落ちた夕方の夏、その突風が僕を、車を家を人を町そのものをなにもかも海へ押し出そうとする台風の日に、飛ばされてしまわないよう少し踏ん張ってみる。砂を踏み締め、歩み、荒れる海を一面見渡せる場所にとまる。申し訳程度の狭い岸辺にテトラポットと崖が佇んでいて、其処に仲間入りして僕も佇み、もの言わぬ岩たちのように黙って前を見ている。黒っぽい空と海の境界線が曖昧になっていってすっかり同化してしまっているのがよぅく見渡せる。激しい風が悲鳴をあげてるみたいになにかを攫って通り過ぎた。此処は潮の香りに満ちている。切なさの匂いって感じがする。意味も無いのに涙が出る。そして、こんな世界と完全にちぐはぐな苺の味がする。
ガリッ。噛み砕いたストロベリーポップキャンディーは狂おしいほどに甘ったるい嘘の味で、所詮これはつくりものの苺なのだとふと思い知った。あいつが人工的な苺味と同じつくりをした言葉ばかり口にして、しょっぱい海風に全力で抵抗していたあのときの岸辺に、僕も突っ立つ。ぽこぽことこころもとないキャンディーの爆弾を投げて、あいつは水面を見ていたんだった。その横顔がまぶたに浮かんだ。昨日と打って変わって黒くなった海が、怪物みたいに身を震わせて、僕を威嚇しながらうねる……。嵐へ、嵐へ、僕をたくさんの嵐へ、あいつが迷いこんだのと一緒の深い嵐へ、晴天を暗く塗りつぶして、いざなっている。僕は思い出す。
ざっばぁあん、ざばぁ……。
昨日少女が海のスタート地点から蒼穹を見つめて、ぼぅっと微笑んだこと、唇を湿らせた先にうっかり零した、囁き。
ざっばぁあん、ざばぁ……。
――風と木って、似てるよね?
気紛れに揺れて人を惑わす風と木の影響に、僕たち人間は簡単には抗えない。生まれたときから死んで土に還る頃まで、いやほんとうはその先ももっとずっと長いあいだ、すなわち永遠に、僕たちはこの呪いから逃れられない。人間という生物は野生の本能に逆らっておかしなことばかりに苦しむようにつくられていて、泣いたり笑ったりしながら懸命に抵抗するけど、でも決して愛の呪いに逆らえないのだ。とらわれてしまうのだ。愛は強大だ。僕はそう解っていてひたすら叫んだ。声が枯れそうになっても頑固に呼び続けた。
と、と、き、か、え、で。
◆
「十時楓、だよ。おんなじクラスになった春から夏まで、もう何ヶ月も経つのに。覚えてないの?」
土砂降りの中、文庫本とスマホだけを手に学校へ歩いてきた僕は、朝っぱらからどうしようもなく腹を立てていた。うだるような暑さは不快で、まとわりつく湿気にもうんざりしていたし、髪から滴る雨水が鬱陶しくて、自分の呼吸音にさえ殺気を覚えていた。とにかく目につくもの耳にするものすべてに苛々した。反して教室は喧騒に満ち、明るい挨拶と談笑がちらほら見えた。早朝に叩き起されたクーラーが不満を吐き出すみたいに冷たい風を吹かせ、女子の何人かがセーターを引っ張り出しつつ文句を言う。男子ぃ、寒い! 遅刻寸前にドアの隙間から滑りこんだ気怠げな僕に、誰も注意を向けないあたりまえの日常だった。この日そのあたりまえをぶち壊したのは、二日後にいなくなるある女子高生だ。最初は話し掛けられていると思わなかった。
「聞いてる? ハル君」
差し出された手の折れそうに華奢な指に、女の子らしい薄桃色のハンカチを挟んでいる。高い位置に二つ結びにしたいわゆるツインテールの黒髪をひょいと揺らし、小動物に似た大粒の瞳を向けて、首を傾げた。
「要らない」
僕は吐き捨てると自分の席に座った。同じクラスになっても一度も話したことがなかった少女の突然の気紛れに、無性に怒りがこみ上げた。
チャイムが鳴っている。先生はまだ来ない。豪雨の影響で電車が遅れているから、職員室の朝の打ち合わせが忙しいのかもしれない。いつもはちゃんと時間までに学校に来るクラスメートの幾人かが着いてなくて、不自然な空席が目立つ。僕は黙って濡れた文庫本を広げる。かろうじて読める。
「覚えてるよ。ハル君、五十嵐、晴。名前覚えてほしいな。十時楓。ふうとお友だちになろ?」
学校中の男子学生が憧れの視線を送るその可憐な笑顔で、少女は「ふう」と名乗った。とときふう。僕は無視した。破けそうなページを慎重にめくったりなどしていた。別に破けてしまっても構わないと思いながら紙をつまんだ。
不意に伸ばされた手が、ずぶ濡れの僕の髪をハンカチで拭く。思わずバチンと音がするくらい強く払い除けた。痛そうな音だった。教室の、音が消えた。
「ハル君、風邪ひいちゃうよ?」
「しつこい」
「でも濡れてるから。傘は?」
「どうでもいい」
「クラスメートなのにふうとお話してないのハル君だけでさみしいよ。お友だちになって?」
「断る」
「あのねあのね、怒らせることしたんだったらごめんなさいするから許して? ふう、ハル君になにかしちゃったかなぁ?」
「別に」
「じゃあどうして」
「嘘つき。かえでだろう、とときかえで。心にもない笑顔ばかり振りまいて面白いか? 広く浅く友だちごっこするのは楽しいか?」
もう一度言う、僕はこのとき何故だかとても不機嫌だったのだ。だからだった。
「友だちにはならない。嫌いだ。二度と話し掛けるな」
初めて会話したクラスメートが身をひるがえした。そのまま教室を飛び出していった。
◆
まあ当然のことだが友人たちに散々怒られる結果となった。こう見えても会話する友人くらいはいる。いつもなにかと小言をたれる隣席の女子斎藤とか、弁当を食べていると僕の横に座りこんで勝手に恋愛相談を持ち掛けてくる佐々木とか、スマートフォンのゲームアプリばかりやたら勧めてくる新井とか、エトセトラ。僕は彼らの訴えを呆れて聞いていた。もちろん自分自身に呆れているのだった。普段たいして話さない十時楓の取り巻きたちも席までやってきて、ふうちゃんを泣かせるなんて最低だと男子が、追い掛けて謝ってあげてと女子がまくしたてたが無視した。
あいつは一限目が始まっても帰ってこなかった。僕はだんだん寒気を覚え、からだがガタガタ震え始めていた。思考がのろのろし始めたせいで読書もままならなくなってきた。ふらついてもいた。一限が終わったとき斎藤に「馬鹿なの!? さっさと保健室行って来なさい!」と罵倒された。渋々腰を上げたら入れ違いにあいつが帰ってきて、図書館で間違って寝ちゃった、ふうってほんとドジだから、あはは、と舌を出して笑った。
保健室は好きではないから図書館に向かった。
どこか静謐な空気はしぃんと黙りこくって心地よさを与えてくれる。書物の重たい匂いも、視界を埋める本棚も、ただ在るというだけで落ち着く。ひとり分の足音が広い空間にすぅと吸いこまれていく。火照ったからだがクーラーのきいた部屋で急に冷えて、僕は身震いした。立っていられなくて古びた革張りのソファーに倒れこむ。なにげなく目に入った棚に薄っぺらの冊子が並んでいる。数枚のコピー用紙を画用紙に挟んでホチキスでとめただけの、それは文芸部の部誌だった。退屈だったから一冊手に取って、下手くそなイラストと部員の名が印刷されている黄色の表紙を一瞥した。とときふう、の文字を見つけて僕はがばりと上半身を起こした。
十時楓のくせに小説なんか書いてるんだ……。
友だちについて考えていた。仮面についても考えていた。母親を思い出した。「この人ママの友だちなのよ」。好奇心がわいて部誌を読んでみることにした。絵に描いたような幸せな家族に愛されて過ごす少女の描かれる文章の、隅々までがひどく甘ったるい。必死な甘さだ。作者本人そのものを写しただけという感じがゆき場のない怒りを助長する。僕はそれを放り出して雨のもとに走り出た。
下校道はもうすぐやって来る台風にざわつき、不吉な暗さで雨水を落とし続けていた。ちいさな水滴が着地してアスファルトの上につぶれる音が、控えめに、でもひっきりなしに聞こえていた。ぱら、ぱら、ぼつっ。あ、水滴が死んだ。ふとなんとなく思いついてコンビニに立ち寄ってみる。四十二円を財布からつまみ出してレジに置いた。なにが好きかなんて知らない、けども、ストロベリーポップキャンディーなら間違いはないだろうと思った。女子なので。
それだけは決して濡らさぬよう気をつけて残りの下校道を進んだ。
◆
そっぽ向いてポップキャンディーを突きつけるクラスメートに、放課後、十時楓は図書館のソファーでびっくりしているようだった。
ざあざあ降りしきる雨に静けさが掻き消され、学生二人だけ、世界から切り離されて閑散とした此処に居る。台風のせいで午後は休講となり、校舎に残っている人間はほとんどいないこんなときに、能天気なアイドル少女は図書館に来た。あとを追いながら少し訝しく、らしくないなぁ、と思った。いつも甘ったるい爆弾をぽんぽん投げてくるからっぽの頭を、高々と振りかざした馬鹿なアイドルらしからぬ。とてつもなく不似合いな場所だった。
「えっ?」
「とときかえで」
ポップキャンディー一つがなんでこうも重くてたまらないのだろう。尋常じゃない疲労感に襲われ息もつけない。はやくも自身の愚行を後悔していた。受け取ってもらえないと耐えかねて腕が折れそうだった。
突然ジジジ、と雑音が聞こえたと思ったら放送がかかった。不機嫌なおじさんがボソボソしゃべっている。まだ校舎に残っている者はすみやかに出ていきなさい。今から私が見まわりします……。学生の遅刻とか服装とかにやたらとうるさい彼につかまることになったら面倒だ。
「……昨日は、その。あー」
彼女に無理やり押しつけて早口で言い切った。
「言い過ぎたごめん」
ん、を言い終える頃には完全に顔を背けた。教科書やらノートやら筆箱やらを入れた鞄を今日ももちろん学校に持ってきていない僕は、いつも通りの不真面目さでもって手ぶらでそそくさ帰路についた。ついた途端に背にばこっとなにかがぶつかって落ちた。
半身を廊下にはみ出した状態で仕方なくソファーの方へ振り向くと、クリーム色の床に『デミアン』が転がっているのが見えた。薄っぺらい、年代物の、変色して茶色がかった本の、しかもドイツ文学なぞを使って十時楓がいったいなにをしていたのだ?
今し方物を投げましたという姿勢でとめていた右手を、緩慢に下げつつ、女子高生はクラスメートへからっぽだと見せかけるのにおおいに成功しているツインテールの頭をひょいと傾げた。
駄々をこねるみたいに甘く囁く。
「ふうって呼んで。お友だちになろ?」
馬鹿かこいつは。
呆れ果てて声も出ないから、黙って床からぼろぼろの本としゃれたブックマーカーを拾い上げ、歩いていって、持ち主に手渡した。もう充分だと僕は帰ろうとするのに彼女は構わず饒舌だった。
「クラスの人はみーんな友だちだよ。ふうのこと大事にしてくれるよ。毎日おしゃべりしてる。ね。ハル君だけなの、全然お話してくれないの。ふうはさみしいよ。お友だちになろ?」
満面の笑みを貼りつけ、絶対に剥がれないようにと注意深くこっちへ向けてきた。そういう嘘っぽいごっこ遊びに僕はどうしても嫌悪感を抱いてしまうのだった。
無言で図書館をあとにする。
ざぁぁぁぁあ。
慌てて少女がついてくる。
ざぁぁぁぁあ。
足早に、置いていく。
ざぁぁぁぁあ。
廊下にもやはりだぁれもいなくて、いつもの喧騒が夢のごとく閑散としていて、二人分の足音だけが世界の真ん中にぽつんと取り残されてしまって、そのまわりを静けさと豪雨が取り囲んでいる、と知りつつ僕たちはなにも言わず、示し合わせたみたいにたったふたりぼっち、前後に並んで歩いていた。
ぱたぱた軽い足音が雨に濡れそぼってばちゃばちゃに変わったら、つと頭上だけ雨がやんだ。レースつきの派手なピンク色の傘が雨空と頭の間でくるりくるり花の如く咲いた。高校生二人で収まるにはちょっとばかりちいさめであって、外側の肩を二人して無惨に濡らしている。僕が傘を払い除けようとする寸前に彼女はしたり顔でうそぶいた。
「友だち、でしょ?」
「断じて違う。一人で帰れ、とときかえで」
「ふうって呼んで」
「嘘つき。と・と・き・か・え・で」
大股で歩くと小走りにばちゃっ、ばちゃっ、しつこくついてきた。
家に帰る気になれず東の方へ無計画に突き進む。なにを想ってか、空が泣き続ける。風が足元のごみをさらって走る。缶から、ティッシュ、おにぎりの袋。誰かの五円玉。今にも崩れ落ちそうなトタンの物置が大袈裟に揺れて、壊れてやる、と人間を脅してくる。その横を通り抜けて、目的もなく進んでいく。いっこうに駅へゆかない僕と一緒に、友だちでもないのに何処まで行くつもりなのか。
二人の間の沈黙は雨がほどよく埋めてくれる。
いきなり視界がひらけて、黒ずんだテトラポットとごつごつした大岩と、申し訳程度の狭い岸辺が、僕等の影法師のそのまた先に出現した。思ったより海は静かだ。怒り狂ってめちゃくちゃに荒れた水溜まりを想像していた僕は、拍子抜けして海を見やった。
もしかすると実はがっかりしているのかもしれなかった。特に用もなく、並んで佇んだ。
「……ハル君の嘘つき」
「はぁ!?」
テトラポットに水が反響してくぐもった音を鳴らした。狭い岸から見える広い海が、静かにうねる。雨は縮んでいった。減った。見えなくなった。終わらない悪夢は無く、出口のないトンネルも無く、やまない雨もありはしない。でなければ人間は弱すぎて到底生きていけないこの世であった。地球という名の星はそうできていた。
「『もしあなたが人を憎むなら、あなたは、あなた自身の一部でもある彼の中の何かを憎んでいるのだ。我々自身の一部でないようなものは、我々の心をかき乱さない』。ハル君はふうを嘘つき呼ばわりした、じゃあハル君も嘘つきなんだよ。なにをそこまで憎悪しているの」
「っ……!」
はははははははははは!
五歳児に友だちを紹介した愚かな女が僕の脳裏でけたたましく哄笑した。もうこれは太古の昔のことなのに、何千年も過ぎたような気がするのに、深く穴を掘って、入れて、どれだけ其処に土をかぶせても葬り去れない。この人ママの友だちなのよ。秘密の友だちとベッドであえぐ女の気配が家族をつぎはぎだらけにした日のことも、繋ぐために貼りつけた笑顔の仮面の息苦しさも。忘れまい。仮面をつけても愛は返ってこない。僕は身に染みてそれを知っているから、無駄な希望を捨てないこいつが嫌いだ。全人類と友だちになりたくて、人口と同じ数の仮面を取っ替え引っ替えして、甘ったるい嘘を吐くこいつが嫌いだ。封じていたいものを思い出させて、自分だけ楽しそうにしているこいつに腹が立つのだ。
なまぬるい風がびゅうううっと叫んだ。とうとう雨はやんだ。僕の隣でツインテールが揺らめいた。海がひときわおおきくうねった。
「――風と木って、似てるよね?」
たたんだ傘、制服の裾、足元の砂、いっぺんにはためいたかと思うと舞い上がり、海の方へ向いた。
彼女は未だ僕の渡したまま握っていたらしいストロベリーポップキャンディーを、撫でたり、見つめたり、手のひらで包んだりする。ビニールがかさかさ……と乾いた音をたてる。ピンク色の、女子ならみんな好きだろうって適当に選んだ、単なる安いキャンディー、その辺のコンビニで買った、なんでもない謝罪の代わりを、いつまでも握っている。少女はうつむいて棒をさすりつつ、ふわ、と微笑んだ。
「見紛うくらい似てる。でもふうは完全に風になってしまいたいなぁ。もっと愛してもらいたいなぁ。あーあ」
「馬鹿か。風は風だし木は木だ。ちっとも似ていない。わけ分かんないぞ」
「でも暗闇の中ではうりふたつだよ、夜には見分けがつかないよ」
「意味不明だな。とときかえで、頭でも打ったか?」
「ふうって呼んで」
「断る」
「お願いだよ、ハル君。ふうは、ふうなんだよ……」
僕はこのとき予想もしていなかったけれど、次の日の早朝の、ほとんど夜とおんなじ色の暗い空の真下で、彼女は一家で心中する。一家とは言っても父親と彼女の二人だけだ。母親は十年以上前に病死していて、長く父娘だけで暮らしていたと聞く。事件のあとにそういう噂が嵐のように学校中を駆け巡ったのだ。今では知らない者のいない、有名なクラスメート……。台風が海を黒く巨大な怪物に仕立てている隙に、十時家は二人連れ立って此処じゃない何処かへ呆気なく飛び立ってしまった。誰も止められはしなかった。父娘は深く愛し合っていた。
遺書は非常に素っ気ない。
『十時司は、愛する十時風といきます』
父親の悪筆からは不審なものがなにも読み取れないので、結局学校も警察も父娘の行動の理由が分からずじまいになりそうだ。と言うか、理由なんか別に誰もほしがっていなかった。確かな理由が無いまま何百人もの人間がああだこうだと勝手に推測して、楽しんだ。
彼女の死んだ日、つまり今日はいつも通りなんの変哲もない朝で始まって、僕はあたりまえに昨日の続きを生きていて、やっぱり傘をささなかったから髪からしたたる雨が鬱陶しくて、濡れた本を読みながら、教室で苛々していた。クーラーのききすぎた部屋で女子が叫んでいる。男子ぃ、寒い! 苛々してはいたけど実はすこぅしほっとしてもいた。そして気恥ずかしくもあった。どんな顔して会えばいいんだろうって、らしくなくうじうじと頭の中で考えていた。窓ガラスの向こう側は相変わらず暗くてじめっとしている。台風で学校が休みになることを期待するクラスメートたちが浮かれたテンションで騒いでいた。僕は本を読みつつ胸騒ぎがしてくるのを感じていた。チャイムが鳴っても先生がこない。異変に、みんながちょっとずつ気づき始めた。授業が始まる時間になってもどのクラスにも担任が来なくて、なんだかざわざわしていて、五分ほど経ってから、沈痛な面持ちの先生たちが入ってきた。非常に悲しいことだけど、と前置きして、十時さんが崖から海に飛びこむ姿を目撃した方がいて、学校に連絡がありました。教室は授業どころではなくなった。台風とか、部活とか、テストとかの、学生らしい多彩な話題の数々もこのときばかりは全部吹っ飛んで、あいつ死んだらしいよ……。えっ。お父さんと死んだんだって……。まじで? なんで? 部屋中を引っ掻く泣き声に僕はかすかにどきりとする。学校が早々と切り上げられた。帰りにコンビニへ寄ってまた四十二円を払う。海の前に昨日と同じように突っ立って、ストロベリーポップキャンディーを食べた。深夜みたいな黒を胸に抱えて何時間も海を見ていた。
数日のちに死体は回収されることになる。ありふれた事件のうちの一個にすぎない、つまらない終わり方をする。世界にはもっと奇々怪々な事件が立て続けに起こっていてそれはもうほんとうにきりがないから、警察たちもあまり長いことこの件には関わっていたくないのだった。ただの心中、でしょ? あんなにおかしな遺書もどうせたいした問題とはならない。最後に彼女と会話したクラスメートであるところの僕にしか、きっと解らないのだろう。
雨のやんだ黒い海に並んで佇んで、ひとりは手ぶらで、ひとりは安いお菓子を握りしめて、台風の真ん中を見つめていたほんのひとときのことだ。僕は訊いた。あのときならなんでも言えるって根拠もなくぼんやり感じて、だから訊いてしまうことができた。
「……なぁ、とときかえで」
「なぁに?」
「ポップキャンディー、いじってばかりいるけど」
「ん」
さぁぁぁぁあ……。
「苺味が嫌いで食べないのか?」
さぁぁぁぁあ……。
「ううん」
さぁぁぁぁあ……。
幾度懇願されたって「とときかえで」の呼び方を変えなかった僕に、一度限り、彼女は仮面を外したのだ。あのとき、昨日の午後、ピンク色のちいさい傘をさしてふたり海辺まで歩いてきて、思いのほか静かだった海面のさざなみとか、うだるような夏の風とか、わけもなくそういうのを眺めていた、あのとき。にわかに雲の合間から晴天が顔を覗かせた海で立ち尽くして。暗さに慣れていた目がひかりを直視できなくて、揃って少しうつむいた。僕はこっそり隣を見た。あっ、と息をのんだ。ツインテールにした髪が熱風にどかされた瞬間に見た。見せ掛けの可愛らしさのみを大切にして生きた少女は、ぐちゃりと歪んだ醜いかんばせをあらわにすると、空の代わりに大粒の涙をぼたたぼたた落とし始めた。かさかさ、ビニールの乾いた音が鳴った。
「う、う、う、う嬉しくて。宝物をぺろっと食べてしまえないの。ひどくもったいないの」
たかが、四十二円なのに?
思わず笑ってしまった僕にただのクラスメートは一生懸命首を横に振ってみせ、再び言った。
もったいないの。
返事ができなかった。唐突な碧空があんまりまぶしくて、目が痛んだ。
これは台風の目だ。
五十回の嵐を超えて訪れた晴れの刹那だ。
「私と友だちになって下さい、とときかえでって名前の、クラスメートと。司と風の娘、十時楓と。嘘でいいから」
風と木は似ている。夜だけ風になりすます木、楓は、蒼穹のもとで一瞬自身を愚かな大人の男から取り戻した。
誰も知らない事実を、しかし友だちが一人知っていればいいのではないか。と思ってる。いや、実際のところ彼女には友だちが多かったからみんなが事実を知っていてくれないとさみしがるかもしれないなあと思う。お父さんが決めたのだろうが、きっと死ぬ日はあらかじめこの日と定まっていて、そのことをよく判った上で、直前にクラスメートと一人残らず友だちになっておこうとした奴なのだ。たった一名だけ教室に生き残っていた、未攻略、の僕にいきなり近づいてきたのは、たぶん死ぬためだったんだ。準備だ。達成して彼女は満足しただろうか。僕はちっとも満足しない。でも構わない。絶対に忘れない。
青い空を反射しながら、そうっと海が凪いでいく。
「僕は嘘の友だちなんかいらない」
「う、ん……」
「つかさとふうの娘、かえで。クラスメート。友だち。傘をどうも」
「う、ん……」
「風邪ひくなよ」
「あははっ。それはハル君だよ」
僕等は不器用に生きている。甘ったるい嘘と冷たい真実を用いて、どうしようもない夏のうだるような暑さに耐え忍んでいる。
人は、嘘だらけの星にどれだけのほんとうを見つけられる?
「そろそろ帰るぞ」
「待って、あのね。……綺麗だから。待って。あとちょっとだけ」
「あの、なぁ……」
「いいじゃんハル君。友だちの一生のお願いだよ」
「あーもう調子に乗るな」
「いいから一緒に見ておこうってば。二人で。えへへ」
「……ったく」
ああ。
「ね、綺麗でしょ?」
このさみしげな笑顔が僕の最後に見た十時楓という少女だった。
そしてこれが十時楓の最後に見た蒼空だった。
僕たちの前には見渡す限りに、空と海の境界が分からないほど鮮やかな青が拡がっていた。
END.
ストロベリーポップキャンディー。 五水井ラグ @KwonRann
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