第3話 強者と弱者

「さぁ、着いたわよ。ここが缶蹴りの場所よ」


 そう言って桜野美玲が立ち止まったのはどこにでもありそうな古い町工場だった。


「そ、そうですか……」


 僕らが話している間も絶え間なく作業服を着た人たちが僕らの脇を通っていく。そして、彼らは皆、僕らを最初は学生の恋人同士だと思い、微笑ましく見送るが僕らを通り過ぎた後には僕達から目を離していた。何人かは羨ましいそうに眺めていたが、それは例外だ。なぜなら、今の僕の状況はとてもではないが、目に当てられるような様ではなかった。


「あら、元気ないわね。こんな美人とこんな恋人のような距離でいられるなんて、あなたの人生で一度きりよ。もっと興奮したらどうかしら?」


 そう、僕は今この学校一美人な桜野美玲が言うように、互いの肩と肩とがぶつかるぐらいにまで接近し、恋人繋ぎをガシっと決めている。ここまでなら、男として僕は興奮してはいいだろう……しかしだ!


「えぇ。僕がその例外の人達なら僕はあなたが言ったように興奮していたかもしれません。とりあえず、着いたのですからこの手錠外してくれませんか?」


 僕の手と桜野美玲の手は恋人の愛では繋がられておらず、無機質な金属の輪によって強制的に繋がられていた。歩く度になるカシャ、カシャと鳴る音が僕の興奮を幾度となく打ち消した。


「嫌よ。あなたこうもしてないと逃げるじゃない。もう少し、我慢しなさい」


「は、はい……」


―― しまった! こんなことなら、素直に連れられて来るべきだった……


 このような状況を生んだ要因は二つあった。まず一つ目は桜野美玲の強者としての支配力。二つ目は僕の弱者としての危険回避能力だろう。僕は『流行缶』の話を聞いたあと、すぐに逃げることを考えた。僕の危険を察知する嗅覚がツンと匂ったからだ。桜野美玲がペラペラと流行について話していたので、僕はその隙をついた。我ながら完璧なロケットスタートだった。数秒後には僕と桜野美玲の距離は多分は百…… いや盛った、五十メートル離れていた。ここまでは僕の完全勝利……だった。しかし、強者は罠を張ってじっと待っていた。悠々自適に僕が教室に帰ってきた所を、桜野美玲は僕の右腕を掴み背負い投げを決め、その場で僕を取り押さえた。僕は投げられている最中、悟ったのだった。


 僕はこの女の檻からは一生、出られないと……


「さぁ、中に入るわよ」


「中に入るって…… 警備はどうするのですか?」


「私はこれがあるから入れるのよ」


 桜野美玲が持っていたのはこの会社のパスポートだった。そのパスポートにはこの会社の名前が記されていた。この会社の名前はLITTLE FACTORYと言うらしい。桜野美玲は慣れた手つきでパスポートを機械に読み取らした。しばらくすると、機械にはクリアーという文字が示される。ガシャンというありふれた効果音とともに重くしい鉄の扉のロックが外れた。


「ここからはしばらく別行動ね」


 そう言って桜野美玲は懐から鍵を取り出し、僕の手錠を外した。外された瞬間、訪れた自由への快感はとても素晴らしいものだった。僕は右手を回したり、グッ、グッと力を込めて自由に動くか確認をした。


「あれ、僕のパスポートは?」


「そんなのあるわけないじゃない」


「へ?」


 おかしい、求めていた自由のはずなのに僕は今、桜野美玲から自由になったことによって、とてつもない身の危険を感じた。


ウー、ウー、ウー


 僕の不安を煽るかのように工場に突如鳴り響く、警告のサイレン。桜野美玲はこのサイレンを聞いて何故か笑顔だ。かわいい…… 違う! 騙されるな、宮城結城! この笑顔は出刃包丁、桜野美玲の笑顔だ! こいつがこんなふうに笑う時というのは…… 他人に最悪の不幸がもたらされるときなのだ。もう、僕は涙目です。


「いたぞ! 侵入者だ!」


 僕は警備員の怒号のような声を合図に、なりふり構わずダッシュをかました。僕の超スピードで一気に警備員の視界から消えた…… はずなのに、警備員は僕に向かって真っすぐ向かってくる。どうしてか? 考えればすぐに答えが見つかった。桜野美玲が、僕の逃げた方向を警備員に細かく教えているに違いなかった。


―― やばいです!


 僕は草むらに飛び込んで、身を潜めた。僕の心臓は不安と焦りでバクバクと外に飛び出るのではないかと思うぐらい弾んでいた。しかし、こういうときだからこそか、僕の弱者としてアンテナが働いた。周りの微かな物音、感触にすごく敏感になっている。


―― これなら、いける!


 僕の中に根拠なき自身が満ち溢れたときだった。僕の大事な髪の毛に何か、不穏な空気が漂い始めた。モゾモゾと何かが動く感触がする。僕の敏感なアンテナがこの感触を分析した。三十代のメタボ腹のようなプニプニ感がありながら、少し冷たさを感じる。でかさはそう、今日朝、三月が見せてきたあの気持ち悪いヤモリのキーホルダーぐらい…… ん、ヤモリ?


「ぎゃー!」


 僕は女性に負けないほどの甲高い叫び声を出しながら、草むらを飛び出した。


「ムリムリ、リアルなヤモリは無理だー!」


 助けを求め無我夢中で誰かにしがみついた。


「た、たすけて……」


 今、思うと僕がしがみついた人はとても青い服着ていたと思う。


「こちら、工場内の草むらにて侵入者確保。今から、そちらに連行する」


 僕はその後、警棒で頭を殴られ気を失った。目が覚めたときには僕は鉄格子で囲まれた檻の中だった。弱者はやはり、自由になっても最後には檻のなかに閉じ込められるらしい。



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