始まりは翡翠(ひすい)から2
バズーカの音が鳴り響いた。
でもそれはドカンでもズドンでもなく、カシャシャシャ、という、軽い音だった。
例えるならカメラのシャッターを切る音。というか、それそのものだった。
「あれ?」
咄嗟にしゃがみこんでいたらしく、私はゆっくり立ち上がる。きつく閉じていたまぶたを開けると、想像していたような轟々とした景色はそこにはなく、目を閉じる前と同じ草木の茂みがあるだけだった。
金子さんたちは、夢中になってバズーカ、のようなものを覗き込み、引き金、のようなワイヤーを押したり離したりしている。
「やっぱり綺麗だねぇ」
「男の子だね。イケメンだ」
「まあ、私が先週撮ったやつの方がかっこいいけどね」
「それ、メスじゃなかったっけ?」
四人が口々に感想をこぼしている。イケメンとかかっこいいとか、まるでアイドルの追っかけのようだ。
「ん?」迷彩バズーカの人が、一人取り残されている私に顔を向ける。そして私の手に握られている双眼鏡を指さす。
「緑ちゃん、見ないの?」
「えっ、えっと……」
「ほら、見てみなよ。枝のところにいるから」
金子さんが、満面の笑みを浮かべて私を促す。
池のふちにある木から、池の方に伸びる一本の枝があった。その先端近くに、何かが留まっている。
双眼鏡を目に当てて、レンズ越しにもう一度枝を探す。視野に入り、そのまま下に顔を下げる。
留まっているものを目が捕らえた瞬間、私は息をのんだ。
そこにいたのは、まるで宝石のように輝く、一羽の鳥だった。
コバルトブルーの頭。くりっとした目の周りは、オレンジの模様。首元は純白に染まり、お腹には鮮やかなオレンジが広がっている。
ときどき頭を上下に揺らしながら、池を覗き込んだり、辺りを見回したりしている。そうして動くたびに日光が美しい羽根に反射し、きらきらと瞬いていた。
くるっと体を回転させ、今度は背中をこちらに向けた。
はっと、再び息をのむ。
その背中が、全面見事なコバルトブルーで染まっていた。
「きれい…...」
思わず呟く。
「すごい、宝石みたい!」
「
ジャージの人が、答える。
「カワセミっていうんですか?」
「うん。緑ちゃん、見るの初めて?」
初めてだ。鳥なんて今まで意識して見たことがない。
「よく見てみな。くちばし、上も下も黒いでしょ? だから、あの子は雄。それとは違って、下のくちばしがオレンジだと雌なんだよ」
金子さんが解説してくれる。確かに、両方のくちばしが黒い。それに、なんだか凛々しくて男らしい、気がする。
私が見惚れている間にも、カシャカシャと音が鳴り続けている。そこで、はっと我に返った。
「戦争は!? 銃撃戦は!?」
「せんそぉ? 何、言ってるの?」
金子さんが顔をしかめる。
「だ、だって」私は焦って答えた。「じゃあ、それは?」訴えるように、バズーカのようなものを指さす。
「これ? スコープだよ?」
きょとんとする。
「スコープ?」
「カメラの望遠のために使うんだよ。 ほら」
迷彩バズーカの人が身体をよけて、私に自機を見せてくれた。彼女の言う通り。根元にはデジタルカメラが設置されていて、画面にはカワセミが大きく映っている。
はぁ、と一息つく。
もうわかった。この人たちは戦争部じゃない。ついでにいうと、やっぱり美術部でもない。
「みなさんは、写真部なんですか!?」
「んーまあ、名前は写真部だけどね」そう言って、金子さんは私に向き直った。
「私たちは、桜川高バードウォッチング部。通称、
「私が、副部長の
「で、そっちのジャージが
岩水さんが後を受けて、順々に紹介する。それに合わせて、二人がそれぞれ挨拶をしてくれた。
「改めて、新入生の宇賀地緑さん。ようこそ鳥見部へ! 私たちはあなたを歓迎するよ!」
「金子さん……」
金子さんは、優しく微笑んだ。
「はい、よろしくおねが」
……じゃない!
なんとか我に返る。危ない。危うく雰囲気に流されるところだった。私の目的は美術部だったはずだ。
「……あの、私、入部希望じゃないです」
「ええっ」驚いたのは、当然、勘違いをしていた金子さんだ。「入部希望者じゃないの!?」
「はい。その、私も途中まで勘違いしてて、言うに言い出せなかったというか……」
「羽美、散々歩かせた新人が入部希望者じゃないって、あんた鬼だよ」
「だ、だって、部室の前にいたんだもん! 期待するじゃん!」
「確認しなかった羽美が悪い。人の話を聞くことを覚えなよ」
部長が副部長に怒られている。階級とは何なのか。
「いえ、私も悪いですから」私も慌てて謝る。
「勘違いってことは、ほかの部活に行こうと思ってたんだよね?」尋ねてきたのは御園さんだった。「どこに行こうとしたの?」
「美術部です」
昔から絵を描くのが好きで、よく母親から貰ったスケッチブックを、姉と一緒に、いっぱいの絵で埋め尽くした。中学に入って、美術部に入って、初めて賞をとったとき、自分の気持ちに嘘がないと気付いた。高校に入っても、沢山絵を描いていきたい。入学前から、私は意気込んでいた。
そうだ、これからまた絵画だらけの生活が始まるんだ。それがもう、楽しみでしょうがない。
「勘違いさせてしまって、おまけに、こんなに綺麗なもの見せてもらって申し訳ないんですけど、やっぱり美術部に入りたいんで……」
失礼のないように、丁寧な姿勢を心掛ける。わずかな時間とはいえ、去るときは誠意を持って。お互いの仲を悪くしないようにするものだ。なんて言うんだっけ。立つ鳥あとを濁さず、ってやつ。あ、これも鳥だ。
御園さんは、何故かうーんとうなり始める。私はなんだか、嫌な予感がした。
「ねえ羽美。美術部って確か、廃部になってなかったっけ?」
ドカンと、バズーカの音がした。スコープからじゃなくて、私の頭の中で。
「えっ!? 」
「うん。三年生が引退して、部員がいなくなっちゃったからね」
ズドン。今度はクリティカルヒットだ。命中したのはもちろん、描いていたハイスクールライフ。
「そ、そんな……」私はその場でへたり込む。私の、華の絵画ライフが。キャンパスと絵の具に囲まれた、夢の高校生活が……。
私が落ち込んでいるのを見たからか、金子さんが優しく言った。
「まあさ、緑ちゃん。これも何かの縁だし、この際、うちに入っちゃえば?」
「……でも私、写真のこと詳しくないです」
「大丈夫大丈夫。私たちだって基本知識しか知らないし」
「それに、写真が目的じゃないからね。鳥を見るなら、双眼鏡だけでも十分。なんなら、絵にしてもいいじゃん」
おお、そうだよと金子さんが手を叩く。
「いいこと言うじゃん、
「写真は、こんなの見たよって記録のためにやり始めたわけだしね。」私の場合は、ちょっと本格的にやり始めているけど、と御園さんが続ける。「それを絵でやるのも、いいと思うな」
確かに、それなら絵も描ける。それに、あの美しい鳥を絵にしてみたら。青く輝く宝石を、キャンバスの上に描いたら......。
私が答えないでいると、金子さんが勢いよく頭を下げた。
「お願いだ、緑ちゃん!」そして手を合わせる。「見ての通り、うちも部員数ぎりぎりなんだ! 部員は多いに越したことはない。頼む、入部してくれ!」
彼女の必死な姿勢に、私はたじろぐ。周りを見ると、他のみんなも、期待を込めた眼差しでこちらを見ていた。
ここへきて、私の気持ちは揺らいでいる。もちろん、美術部に入るのを諦めきれない思いもある。私と同じ新入生に声をかけて人を集め、部を復活させることだって出来るだろう。絵に囲まれた日々を再現できる可能性は、まだ、残されているのだ。
でもさっき見た、あのカワセミのコバルトブルーの輝きが、私の心を掴んでいるのも確かだった。
「......あの」
「そういえば、みんなあの子から目を離してていいの?」
私が迷っていることを告げる前に、御園さんが口を開いた。その声に、「忘れてた!」と、みんながスコープの前に戻る。つられて、私もカワセミの方を見る。
その、瞬間。
ひゅっと、カワセミが枝から飛び降りた。
そのまま池に飛び込み、しぶきを上げる。
そして、水面に波紋を残しながら、再び枝に戻った。
たった一瞬の出来事だった。
「失敗?」御園さんが呟く。
「みたいだ…...あっ」
岩水さんが言い切る前に、カワセミが、飛び立った。
今度は下にではなく、水平に。青い弾丸のように、まっすぐ飛んでいく。水しぶきのように、きらきらと体を輝かせながら、池の外に羽ばたいていく。その一瞬が、スローモーションのように、私の目に映る。
キィ、キィ
甲高い鳴き声が鳴り響いた。
「......撮れた、羽美?」
「ピンボケ。それに半分見切れてる。やっぱ置きピンじゃだめなのかなぁ。星ちゃんは?」
「フレームアウトです」岩水さんが首を振る。そして、駒田さんの方に頭を向けた。
「茜音は? オートフォーカスでしょ?」
「上手く追えなかった。入ってるけど、ピントも構図も微妙かな」駒田さんは首に掛けたカメラを操作しながらため息をついた。
「同じく、フレームアウト」御園さんも後に続いて言った。
見る? と誘われ、御園さんのカメラの画面を覗き込む。上部の輪っかを回すと、くるくると写真が入れ替わっていく。カワセミが池に飛び込んで、華麗に身を翻して飛び上がるまでの一瞬が、コマ送りのように動いていた。でも画面の随分端っこで、確かに良い構図とはいえないかもしれない。
「今日もだめかー」金子さんがうなだれた。
「まあ、またチャンスはあるでしょ。今日はもう戻ろう。少なくとも、新人を魅了してくれたっていう、収穫があったしね」岩水さんが、微笑みながら、私の方を向いた。
「どうかな。私たちと一緒に、鳥のこと、知ってみない?」
私の目には、あの一瞬が鮮明に焼き付いている。
そんなこと言われたら、もう、答えは一つしかないじゃないか。
「はい。よろしくお願いしますっ」滑らかに、軽やかに。私の口から言葉が出ていった。
絵画とは、全然違うかもしれない。でも、全然違う”良さ”が、そこにあるかもしれない。
初めて絵を描いたときのような、わくわくした気持ちが、私の中に芽生えていた。
「そうと決まれば、戻って歓迎会だ! 緑ちゃん、急ぎ足で行くぞ!」
「はい! ......はい!?」
「目標は三十分だ!」そう言うと金子さんは、手際よく道具を片付け始める。
忘れてた! 私、歩いて来たんだった!
「やっぱ不安だな、羽美が部長なの」岩水さんが呆れて言った。
「鬼だね。そしてバカ」駒田さんがつんと言い放つ。
「緑ちゃん。私の自転車の後ろ、乗っていきなよ。あのお馬鹿さんは一人で走らせればいい」御園さんが微笑む。
「こらぁ、部長の威厳を打ち消すな!」
喚く金子さん。三人とも笑いながら、スコープを片付ける。
私もなんだか楽しくなって、一緒に笑った。
桜川高校一年、宇賀地緑。
今日から私は、鳥見部の部員だ。
第二美術室の前に、一人の女子生徒が立ち尽くしていた。
東棟からは相変わらず、部活勧誘のざわめきが聞こえてきている。
各部活の活動場所が記されたパンフレットを覗き込みながら、首をひねる。長髪がそれに合わせて、さらりと揺れた。
「......あれ?」
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