春を知らせるもの3



 東棟からグラウンドを挟んで向かいにある、プレハブ棟。ここにやってきたのは初めてだった。一見すると簡素な作りだけれど、一部屋の広さは、部室としては申し分なさそうだ。

 ここには基本的に、屋外で活動する運動部の部室が並んでいる。スポーツとまるで縁のない私にとっては、立ち入れない聖域みたいな場所だ。テニスラケットを持ったり、スパイクを履いたり。汗の匂いとか制汗剤の香りとか。自分に無いもの、自分が出来ないものに憧れるあの感覚と、同じ。 

 

 ほぉーと眺めていると、部室の一つから、ジャージ姿の少女が走りだして行った。練習に遅れたのか、慌てた様子で私たちの横を通り過ぎる。ジャージにはtrack & fieldとロゴが入っていた。

 すれ違いざま一瞬目が合う。元々そういう目つきなのか、それとも何か不快に思ったのか、きつく睨まれた気がして、少したじろぐ。

「怖い人だな......。緑ちゃんなんか恨まれるようなことしたんじゃないの?」羽美先輩にわしわしと頭を掴まれる。

「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ」

「むしろ、羽美の方がその可能性高いからね」

「えー何でよ茜音。こんな誠実な子が、人から恨まれるわけないじゃん」

 誠実の意味、分かってるのと、 茜音先輩は呆れている。「部長会議。真面目にやってくれって、副会長からお達しがきてるんだけど?」

「あれ面倒臭いんだもん。茜音、今度代わりに出てよ」

「本当に名ばかり部長になるからダメ」


 羽美先輩が駄々をこねるのを隣で聞き流しながら、私たちはプレハブ棟の裏手に回った。銀色の鉄枠が太陽を反射し、きらきらと輝いている。そこにも一本桜の樹があった。本当、どこもかしこも桜の樹...。


「巣、ありますか?」目的のものを尋ねると、ん、と冴波先輩が壁の出っ張りの下を指差した。顔を上げて、眺めてみる。


 土のような、茶色い塊が付着していた。



「あれが......?」

「あれは去年の巣。結構壊れてる。そしてこれ以外、何かがあるようには見えない」

 ということは......。

「今年はまだ作ってないね」

 なんだーと羽美先輩が声を漏らす。星羅先輩の見立ては当たっていたようだ。少しタイミングが早かった。


「ちょっと、残念ですね」

「でもさ、どっかで作ってるんじゃない?」茜音先輩は辺りを見回す。「泥を咥えてた気がするんだけど」

「泥で出来てるんですか?」

「泥と、後は枯草とか。草を骨組みにして、泥と唾液を混ぜて塗りたくるの」説明しながら、べっと舌先を指さす。

「えっ、じゃあ中華料理とかに出てくるツバメの巣って、泥とか食べてるってことですか!?」それじゃあ高級料理というよりゲテモノ料理だ。

「あれはツバメって言ってもアナツバメの巣だから」

「普通のツバメと違うんですか?」

「全然違う種類なんだよ。アナツバメはアマツバメ科で、ここにいるのはツバメ科」

「あな、あま......えっ?」

「まあ、毎年この辺に作ってるし。そのうち作り始めるかもね」星羅先輩も双眼鏡であたりを見回している。「上手くいけば、だけど......」その横顔は、少し心配そうだった。


「星羅先輩?」

「よし、今日のところはこれでお開きだな」

 思い立ったように指示出すよね、部長っぽく、と羽美先輩が星羅先輩に野次られる。さっきの物憂げな表情は、もうそこにはなかった。

 ぞろぞろと、みんなが引き上げていく。星羅先輩の今の表情は、いったい何だったのだろう。気になりつつ、何となく、もう一度壁を見上げてみる。崩れた土の塊が、むき出しになった中のくぼみを見せているだけだった。





 部室に戻り、帰り支度をする。ずっと外にいた所為か、戻ってきた瞬間から目と鼻のかゆみがひどくなった。これは一刻も早く耳鼻科に行かなければならない。市販の薬ではどうも効き目が薄いようだ。


 先輩たちはまだ帰らないらしく、さっき撮った写真を見たり、お菓子を食べたりしている。綾姫先輩はずっと寝っぱなしで、お腹が見えたりスカートが少しめくれていたりと、ちょっとはしたない格好でソファーに寝っ転がっている。さすがに目のやり場に困ったので床に落ちていた毛布をかぶせると、彼女は目を薄く開けて、むくりと起き上がった。


「あれ、みんな帰ってたの」

「とっくに」星羅先輩の呆れた声を気に止めることなく、綾姫先輩は時計を眺める

「ああ、こんな時間か。なんかいた?」

 茜音先輩がこれこれと説明するのを聞きながら支度を済ませると、窓の外をツバメが飛ぶのが見えた。星羅先輩の方にちらっと顔を向けると、いつものつんとした表情で、羽美先輩と話をしていた。

 さっきの表情。星羅先輩だって、心配なのだろう。ひょっとしたら、一番気にかけているのは、彼女なのかもしれない。


 巣作りしてくれるといいなぁ。


「それじゃ、耳鼻科行くので、これで失礼します」カバンを持ち、挨拶する。

「待った緑ちゃん。もしかして、直接病院に寄るのかな」羽美先輩が歌舞伎役者のように、手のひらを前にかざす。

「そうですけど」

「傘持ったか、傘」

「またそれですか。本当に降るんですか?」思わずため息。

「降る降る。もうドシャーっと」

 もはや胡散臭さしかない。いったい何を根拠に言っているのだろう。

「あー、信用してないな」

「だって......。それに、傘持ってきてないですし」

「じゃあ私の折りたたみ傘を貸してあげるよ。部長からのお恵みだぞ? 感謝しなさい」

「そういう余計な一言が、胡散臭さの原因なんですけど」

「ご愛嬌でしょ」

 そう言いながら自分のリュックをがさがさと漁り、取り出した折りたたみ傘を、ひょいっと私に投げ渡す。

「いいから持っとけ。持っといて損はしないぞ。あ、大丈夫。私はもう一本、部室に置いてあるのがあるから気にするな」

「うー。じゃあ、借りときます」なんだか強引だが、とりあえず、カバンに入れておく。カバンの紐が、傘一本分の重さだけ、肩に食い込む。

 これで降らなかったら、本気で信用失くしそう。にこやかな羽美先輩の顔が余計に不信感を煽る。

「それじゃ、失礼します」

 窓から入る日差しを背に、私は教室を後にした。

 




「お大事になさってください」

 病院付属の薬局の窓口で待ち焦がれていた花粉症の薬をもらうと、対応してくれた若い女性に営業スマイルで見送られる。エレベーターが来るのを待つ間に、二週間分の錠剤と目薬、それと点鼻薬が入った袋をカバンにしまう。

 

 これで安心だ。変なくしゃみで笑われることももうないだろう。

 というか、普通のくしゃみがしたい。練習しなきゃな、と思ったところで、いやいや、くしゃみの練習ってなんだ? と、そのばかばかしさに気付く。私って、少しズレているのだろうか......。

 薬をしまうと、カバンの中の折りたたみ傘が目に入った。柄の輪っかの所に、朱色の綺麗な鳥のストラップが括り付けてある。

 耳鼻科に着くまでに、結局雨は降らなかった。この時点で、羽美先輩への信用は半減。本当に、ただいたずらしたかっただけなのかもしれない。そうだとすると、簡単に信じる自分も悪い気がする。


 しばらく煩わしさをこめて折りたたみ傘を睨み、それも虚しくなったところで、エレベーターが到着する。届かない文句の代わりにため息を吐き、傘をしまう。

 エレベーターの中から、親子二人が降りてきた。


「ほら、髪拭いて」

「突然降ってきたねー」


 すれ違いざまに聞いた言葉に、思わず足を止めた。


 「......うそ」振り返ると、母親が子供の髪をタオルで拭いている。


 まさか、本当に?


 驚いていると、無人のエレベーターが、私を置いて出発していった。

「あ......」





 家に帰り、夕飯とお風呂を済ませた後、私は羽美先輩に電話をかけた。

 風呂上がりの火照った体をベッドに投げ出して、枕を抱きかかえる。ひんやりとした布地がとても心地良い。


「もっしもーし」五回ほどのコールの後、昼間と変わらないテンションで羽美先輩が出た。

「こんばんは。あの、傘ありがとうございました」

「ふふふ、言った通りでしょ、雨降ったの。くふふ」勝ち誇ったように彼女が笑う。素直にお礼を言った後でなんだけど、悔しい。

「なんで降るってわかったんですか」負け惜しみを噛み殺し、聞いてみる。

「知りたい? 仕方ないなあ、教えてやるよ。部長のわ、た、し、が」くっ、いちいち癪に障る。


「それはね、ツバメが教えてくれたんだよ」

 一瞬間をおいて、聞き返した。「ツバメが?」

「よくさ、ツバメが低く飛ぶと雨が降るっていうでしょ? あれって迷信じゃなくて、ちゃんと根拠のある現象なんだよ」

 確かに、今日見たツバメは、かなり低いところ、地面すれすれを飛んでいた。

「雨の前って湿気が多くなるから、羽根とか体が重くなって、虫が高いところを飛べなくなるの。すると、それを餌にするツバメも、低いところで餌を捕るようになるってわけ」

「なるほど......でもそれって、正確なんですか? 羽美先輩、あんなに降る降る言ってたし」

 あのときの羽美先輩の言い方は、100%確実、てくらいの勢いだった。でも生き物は機械じゃない。低く飛んでいたからといって、絶対、とは言い切れないはずだ。

「そりゃあ確実、なんて言えないよ。神様じゃあるまいし」あっけらかんと、彼女は言う。

「余計な荷物を持たされた可能性もあるってわけですね」

「そう怒んなって」

 けらけらと笑い飛ばされるが、実際助かってしまったわけだし、文句は言えない。


「巣、出来てませんでしたね」今日のことを思い出す。

「まあな。でも、巣作りの時期はまだ続くからね。私たちがどう思おうと、彼ら次第だよ。」

「星羅先輩、心配そうにしてました」私は、彼女の表情を思い起こしていた。

「あいつね。一番気になってるくせに、強がってクールぶってやんの」

「ツンデレなんですか?」

「そうそう、可愛いとこあるだろ?」愉快そうに羽美先輩が言うけど、当人が聞いたら、きっとすごく睨まれるんだろうな。


「ツバメが生まれてから一年たって生き残ってる確率って、一割くらいしかないんだって」ふと、羽美先輩が言った。

「一割......」

「無事に巣立つ確率が、五割程度。糞害とかうるさいのを嫌って、人間が巣を壊しちゃうこともある。それに、渡りってのもすっごい過酷なものなんだよ。あいつらにとって、生き残るってことは想像以上に難しいことなんだよね」

 今日見たツバメたち。優雅に飛び回る彼らも、過酷な試練を乗り越えて、息も絶え絶えに、学校の付近までやってきた。きっとくたくたになっているはずなのに、休む間もなく巣を作り、雛を育てる。

 そう考えると、なんだかいたたまれなくなる。

 去年、学校で子育てをしていたというツバメ。今日見かけたのと違う個体なら、彼らは無事なのだろうか。


「星ちゃんはさ、鳥見を始めたの、ツバメがきっかけらしいんだよね」羽美先輩が言った。「小学校のときに、自由研究かなんかでツバメの観察日記を付けて、生態とかいろいろ調べたのが始まりって言ってた。今言った生存確率云々の話も、星ちゃんから聞いたんだ。だから人一倍愛着があるんだよね」


 だからこそ、あんなに心配しているんだ。


 でも、私たちが手助けすることはできない。無事でありますようにって、願うことしかできない。それがすごく、もどかしい。

 星羅先輩の心の内を想像すると、私は抱きかかえる枕を、いつの間にかきつく握っていた。



「巣、作ってくれるといいですね」

「うん」


 明日は、もっとちゃんとツバメを見てみようと思った。懸命に今日まで生きてきた彼らの姿を、目に焼き付けたい。そう思った。



「羽美先輩、は......」

「なに緑ちゃん、てか眠そうだけど」

「羽美先輩の、鳥見の、きっかけ......」眠気が襲う。底なし沼のように、身体がベッドに沈んでいく。

 おーいと呼びかける声が、だんだん遠くなる。


 羽美先輩が鳥見を始めたきっかけとか、どんな鳥が好きなのかとか、知りたいことがどんどん出てくる。でもそれを口にするまもなく、私は夢の世界へ引き込まれていった。


 遠くで羽美先輩が何か言ったような気がしたけど、それはもう、耳には届かなかった。









 あれから結局、朝までぐっすりと寝てしまった。

当然だけど電話は切れており、スマホはロック画面に切り替わっている。起き上がると同時に姉が部屋を覗きに来て「部屋の電気、点けっぱなしだよ」と注意される。

「お姉ちゃん、おはよう」

「おはよう、はいいけど、時間見なよ」

 姉に促されて時計を見ると、いつもより遅い時間だった。慌ててスマホを充電器に繋ぎ、身支度をする。

 ふと思い立って、水彩絵の具も用意した。愛用してきた筆と水差しをパレットも合わせて、専用のカバンに入れる。


 朝食を食べて家を出ると、昨日の雨が嘘のように、清々しい天気だった。日光が道端や草木の雨粒に反射して輝いている。普段の晴れの朝よりも綺麗な景色だった。


 電車を降りて桜川沿いを歩く。パレットと筆入れがぶつかって、かたかたと音を立てる。

 頭上の遥か上を、ツバメが飛んでいった。


ツチチツチチツィー

「土食うて虫食うて渋ーい」


 鳴き声に合わせて、聞きなしを口に出してみる。やっぱり無理やりだなあと、笑ってしまう。



 学校に着くと、まっさきにプレハブ棟の裏に向かう。昨日の今日で巣が出来るわけがないけれど、期待してしまう。


 プレハブの壁は、昨日と同じ様子だった。

「当たり前だよね......」

 そう呟いて、少し肩を落としながら、反対側からグラウンドが覗く広い場所に抜ける。


 目の前に、体育倉庫が見えた、瞬間。



 ひゅんと、黒い影が目の前を横切った。



「今の......」

 急いで、体育倉庫の裏手に回る。


 その上の方。屋根のすぐ下に、茶色い土の塊があった。


「あっ」


 その中から、一羽のツバメが飛び立った。

 ぐるっと旋回して、空高く昇っていく。風を切って、滑るように飛んでいき、青空に溶けていく。


 一瞬だけど、しっかり、目に焼き付いた。

 思わず、頬が緩む。



 どうかどうか、無事に過ごせますように。

 心の中で願うと、それに応えるようにツバメが鳴く。その鳴き声は、聞きなしとは違うはっきりとした言葉に、私は聞こえた。


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