春を知らせるもの1




 私、宇賀地うがちみどりは、今年度最大の危機を迎えていた。

 今年度がまだ半月も経っていないのにそんなことを言うのは変ではあるが、そのくらい重大なことだということを分かってほしい。 


 春うららの、穏やかな陽気の朝。一時よりは少なくなった桜の花びらが、ひらひらと舞い落ちている。


「......んくちっ」


 桃色の景色に緑色が混じり始めた、桜川沿いの道。駅から高校まで続くこの道を、私は陰鬱な気持ちで歩いていた。その原因は、一限目の数学でやる新入生テスト、ではない。


「…...んくちっ」


 暖かい風が運ぶもの。花びらでも、電車の音でも、私の吐息でもない。もっと小さな暴れん坊。


「…...んくちっ」


 そう、花粉である。


 さきほどから何度も花粉の攻撃を受け、くしゃみと、鼻をすするのを繰り返す。正確には、花粉に対抗する自分の免疫が、本体である私にも攻撃してしまう現象らしい。けど、そんなの知らない。花粉が悪い。


 迂闊だった。昨日、花粉症の薬をもらいに行くはずだったのを、羽美先輩に連れまわされたり、羽美先輩の提案で歓迎会が行われたりで、すっかり忘れてしまったのだ。あれ、羽美先輩のせいみたいに......。


 そのため、今日は朝から見えない敵に対して厳重に警戒してきた。立体式マスクでがっちりと呼吸器官を覆い、鼻には花粉ブロック用の軟膏を塗りたくってきた。

 それでもこの有様だ。目がかゆいし、鼻水も止まらない。マスクの中の蒸し暑さが不快だし、春そのものを嫌いになりそうだ。



「...んくちっ」

 何回目かのくしゃみをした後、一度立ち止まる。手さげのバッグに箱ティッシュを入れてきてよかった。一枚抜き取って、鼻をかむ。


「緑ちゃんおはよう」左側から声がした。振り向くと、茜音先輩が自転車に乗りながら私に並んでいた。


「おはようございます」

「辛そうだね、花粉症?」


 こくこくと頷く。それからティッシュを丸めて、バッグの中に広げておいたビニール袋の中に入れる。用意周到だなあと、笑われた。

「私も、薬飲んでいるから今は大丈夫だけど、飲まなかったら大変よ。春の唯一の欠点ね」

 言いながら、よいしょ、と自転車から降りて、私と一緒に歩く。カバンにじゃらじゃらと付いているキーホルダーが、彼女の歩幅とともに揺れ動く。それらがTシャツのような形をしているのが気になった。


「まあ、これも風物詩と言えば風物詩か。鼻がむずむずし始めると、春の訪れを感じるよね」

「そんな風物詩、いらないですよ」マスクをつけ直して私は反論する。だめだ、もう鼻水が出てきた。


「...んくちっ」

「あざといくしゃみだねぇ」茜音さんが言った。「おばさん、きゅんとしちゃいそうだったよ」

「からかわないでくださいよ」と、彼女を軽く睨む。本当だよーと言いながら、茜音さんは私の頭をぽんぽんと叩く。


「春なんて嫌いです」目がかゆい。今すぐ目玉を取り出して洗いたい。


「そもそも、春の訪れを告げるのが花粉ってのが、もう、気に食わないです」

「別に花粉だけってわけじゃないでしょうよ」茜音さんが笑う。


 そして、頭上を見上げる。


「例えばさ…...お、いるいる」

「......?」

 つられて上を見ると、桜の木々の間から、綺麗な青空が覗いていた。


 その中を、ひゅんっ、と何かが素早く渡っていった。


「例えば、あの子たち、とかね」

 茜音さんが、上空を指さす。ツチチチと、声が聞こえた。



 ツバメだった。



「確かに、ツバメも春を感じさせますね!」良かった、花粉以外にもあった。

「生物季節観測の指標にもなってるしね」気象庁が定めてるんだよ、と茜音さんが付け加える。


「さすがツバメさん!」

「誇らしげね.....。あ、てことはそろそろ…...」


彼女が何か言いかけたところで、校門に着いた。

「そろそろ、なんですか?」

「いや、部活のときに話すよ。ついでに、今日の活動内容にしちゃうし」

「はぁ」

「じゃ、また放課後にね」

 そういって茜音さんは自転車置き場に向かっていった。


 うーん、いったい何の話だろう。中途半端に話が切られたら、一層、気になってしまう。



「...んくちっ」

 くしゃみを一つし、ティッシュで鼻をかむ。


 部活のときに話すのなら、それまで待っていよう。とにかく、今は一刻も早く室内へ入らなければ。


 昇降口に向かって歩き出す。上空で、ツバメが私と一緒に、学校の敷地内に入っていくのが見えた。










「あっははは。ひっどい目だね!」

 私の顔を見るなり、羽美先輩がげらげら笑い始める。放課後までに、私の目はそれはそれは赤くなっていた。


「...んくちっ、うるさいで、んくちっ、うるさいです!」

「くしゃみ! 可愛い! あはは...いてっ」

 私の投げた空のティッシュ箱が、彼女の額に当たる。


 鳥見部の部室は、羽美先輩と出会った第二美術室だった。授業などは第一美術室で行っていたるため、ここはほとんど物置として使われていたらしい。それを、OBOGの人たちが譲り受け、この部の部室として使わせてもらっている、というわけだ。


 棚の上には鳥だけじゃない、猫だったり風景だったりの、いろいろな写真が飾られていたる。そして後ろの壁には、カワセミの絵がはられていた。

 昨日、学校に戻ってきてから、私が描いた絵だった。あのコバルトブルーの輝きが忘れられなくて、描かずにはいられなかったのだ。色鉛筆がするすると進む感覚が、とても心地良かったのを覚えている。

 その他にも、マグネットやら置物やら時計やら、鳥グッズが沢山この部屋にはあった。星羅先輩が飲んでいるマグカップも、カワセミとは違う青い鳥が描かれている。

 まさに鳥見部、って感じの部屋だった。


「羽美、茜音は?」星羅先輩がパソコンの操作をしながら尋ねた。昨日の写真の整理をしているらしい。

「一回コンビニ行くって」羽美先輩はティッシュ箱を潰しながら答える。「ついでにおかし、頼んどいた」

その横で、冴波さんが何やら楕円形のものをしゅこしゅこ押して、空気をカメラのレンズに吹きかけていた。こうして、レンズについたゴミを飛ばしているんだ、と説明を受ける。


 私は今朝の話が気になったが、茜音先輩がいない以上、何もすることがない。


 というかそれ以上に、さっきからどうしても気になっているものがある。正確には、部室に入ったときからだけど。

 目に入っていないのか、これがいつもの風景だからか、みんなは何も気にせずに過ごしている。私もそれに倣って、見て見ぬふりをしようとしたけれど、さすがにそこまでのスルースキルは身についていなかった。


「あの、羽美先輩」たまらず聞いてみる。

「なんだよ、おかしはあげないぞ」綺麗に潰されたティッシュ箱で叩かれそうになるが、私はそれを白刃取りで防ぐ。

「そうじゃなくて、あれ、なんですか!?」


 部室の後ろの方には、ソファーが置いてある。その前には背の低いテーブルがあるのだが、二つの間のスペースに、青い芋虫のような物が転がっていた。昨日はこんなものなかった。

 どう見ても、違和感丸出し。何かの生き物のようにも見える。


「あれって、何もないけど......。まさか、緑ちゃんって見える人!? なんかいるの!?」私の指さす方を見て、羽美先輩が身構える。

「違います!」

「そうだよ、羽美。霊がいると電磁波が起きるはず。でも私、何も感じないよ」 うん? 今、冴波先輩はフォローしたのか?


「冗談だよ。その青いのでしょ?」羽美先輩が言った。

「気になるなら、近づいてみなよ」

「ええ?」

 言われるまま、不気味な物体に近づいてみる。少し近づくと、私の背よりも大きなものだとわかり、余計に怖い。

 さらにゆっくり、近づいてみる。

 

 そして、間近まできた、瞬間.....。


「ひゃあ!」

 突然、それがくの字に曲がり、思わず声を上げた。


 しばらくもぞもぞと動き、むくりと起き上がる。そして上の方から裂け目が入り、にゅっと、人の顔が現れた。


「人面芋虫!?」

「落ち着け緑ちゃん。普通の人間だ」


 その人は寝ぼけたままあたりを見渡し、こっちまで眠くなりそうな、大きなあくびをした。

「みんな、来てたの」


「姫様おはようございます」星羅先輩が皮肉る。「起きたところで悪いんだけど、新人を紹介するよ」

 しんじん? と、その人は繰り返す。「ああ、昨日言ってた人か。えっと、緑ちゃん、だっけ」

「えっ、はっはい、宇賀地緑です」


 そうか君がー、と、一人頷く。それから、顔をきりっと引き締めて言った。

「初めまして。 私が鳥見部二年、依田先輩だ!」

「......寝袋から出なさいよ、まず」

 

 星羅先輩の呆れた声に従い、もそもそと寝袋から出てくる。まるでチョウの幼虫の脱皮のようだ。

「ふう、改めて。私は依田よだ綾姫あやひめ。よろしく」

 寝袋から出てきた綾姫先輩は、スタイル抜群の長身女性だった。寝ていたからか髪がぼさぼさで、少し猫背。話し方も非常にまったりで、春の陽だまりのような人だと思った。


「特技は寝ること。好きなことわざは”果報は寝て待て”」

「本当に寝てろって意味じゃないから、それ」星羅先輩は呆れている。「ほら昨日、もう一人部員がいるって言ったでしょ。この子がそれよ」

「そうなんですか。こちらこそ、よろしくお願いします」

 私は綾姫先輩の眠たげな目を見て挨拶をした。なんだか私も眠くなりそうだ。


「よろしくー。さてと」彼女は一度背伸びをして、「もう一寝入り、するか」と、ソファーに寝転がる。


「うっわ、まだ寝るの?」羽美先輩が驚きの声をあげる。

「”春眠暁を覚えず”って、昔から言うでしょ? 春に眠くなるのは普通なんだよ」

「冬も散々寝てたじゃん、布団まで持ち込んで」

「当り前よ。冬眠の季節だもの。」いや、その理屈は人間に当てはめていいのか?


「ちなみに、夏は体力の消耗が激しいから極力動かない方がいい。つまり一年の四分の三は寝て過ごしてもいいんだよ」

 一生寝てろ、と羽美先輩が吐き捨てたところで、茜音先輩が戻ってくる。




「ただいまー」

「おかえり茜音! さっそく、お頼みした甘味品を」

 はいはい、と、茜音先輩は羽美先輩の手の上にお菓子の箱を乗せる。最後までチョコたっぷりのやつだ。


「何か買いに行ってたんですか?」袋から出てきたものがそのお菓子だけだったので、気になった。

「ちょっとチケットをね」

「ちけっと?」

「よし、みんな集まったところで、今日は何しようか」お菓子を咥えながら、羽美先輩が切り出した。


「ああ、それなんだけど」そう言いながら、茜音先輩がお菓子を一本奪う。「緑ちゃんにも少し言ったんだけど、今日さ、あれ見にいってみない?」

 そういえばと、今朝の話を思い出した。


「あれって…...」

「あ、そうか。もうそんな時期か」

 口々にみんなが言うが、私にはなんのことだかわからない。

「茜音先輩、あれとは?」

「この時期になると毎年ね、見られるはずなんだけど」茜音さんは答える。

「校舎裏の壁。そろそろツバメの巣が出来ているかもよ」





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