明治二十五年二月:雪の日・壱

「私のことは男だとか師匠だとかではなく、昔ながらの女友達とでも見て頂ければ結構」

 幾度目の訪問だったか、彼の人はそう仰った。

 其れでもわたくしにとって師匠は師匠であり、昔乍らの――たとえば同じ学問所で学んだ女友達とは、やはり違う性質の御方なのであった。

 此れは人伝に聞いた話だが、彼の人は数年前に奥方に先立たれた、所謂男やもめという類の御方らしい。彼は其の部分を気にしてそう仰ったのであろうが、わたくしは其の点に関して余り気に留めることはなかった。

 彼の人に出逢った瞬間から、わたくしは此の方こそが唯一の師であると、心の底から彼の人を慕っていた。彼の教え通り、大衆向けの小説を書き続けた。わたくしが師匠に対して抱いていた、其の気持ちは紛れもなく、単なる憧憬に似たもので在る筈だった。

 其れが徐々に、ほんのりと甘く、同時にわたくしを苦しめる程狂おしい気持ちへと変わっていったのは……其の切っ掛けと為ったのは、忘れもせぬあの日――師匠と初めて出会ってから一年近く経った後の、二月の或る雪の日であろう。


『明日、お尋ね申し上げても宜しゅう御座いましょうか』

 御指導と自己学習の果てに一篇の小説を漸く書き上げ、上記のように書き綴った葉書を師匠の許へ投函したところに、師匠からほぼ入れ違いで葉書が届いた。内容を目にし、それはそれは吃驚びっくりしたものである。

『明日、我が許へ来て頂いても宜しゅう御座いましょうか』

 数奇にも、わたくしが書き送ったものと全く同じ内容。

 嗚呼、此れ程迄に互いの心が通じ合うことの奇妙さと云ったら!

 其の日は朝から雪が降っていたけれど、わたくしの心は文字通り晴れ模様という塩梅であった。其れこそ、すっかり女所帯となってしまった我が家を出る際、見送って呉れた母や妹が驚いていた程だ。

「奈津は今日も、御師匠様とやらの処へ向かうのかい」

「是。姉様のあのはしゃぎ具合と云ったら、間違いないでしょう」

「御師匠様とは云え、男やもめであろう? 大丈夫なのかね」

「御安心くださいませ、母様。何せ、わたしの友人を介して知り合わせたのですから……其れよりも、姉様には早く小説家として大成して頂きたいものですわ」

「そうだね。そうしたら少しは、我が家の暮らし向きも良く成ろう」

「此の家のおさは、今や姉様御一人なのですから――……」

 母と妹の会話が、耳に痛い。其れでも、少々夢見心地に為っていたわたくしの目を覚まさせるには丁度いい刺激でもあった。

 ――そうだ、浮かれている場合などではない。

 わたくしは師の教えを仰ぎ、一日でも早く文章書きとして生計を立てて行かねば為らぬ身なのだから。

 改めて気を引き締めたわたくしは、雪の降る中、手近な俥を呼び止め乗り込んだ。


    ◆◆◆


「御免下さいませ、師匠。奈津で御座います」

 師匠の隠れ家に辿り着くと、早速戸を叩き、幾何いくばくか待つ。

 然し、中にいるはずの彼からは何の返事もない。約束をしている身であるので、外出されているなどということはまさかないと思うが……。

 寒さに耐えかねたわたくしは、鍵が開いているという事実に甘え、不躾と思いながらも勝手に上がらせて頂くことにした。

「御免下さいませ……」

 小さく断りを入れながら、こっそり中を覗く。

 床張りされた部屋の中心部は掘り炬燵のように窪んでおり、ぱちぱちと火花の散った囲炉裏いろりがある。其処には鍋が一つ置いてあり、湯気と共に良い匂いが漂ってきていた。

 傍らには御盆と、二人分の食器が置かれている。御優しい彼の人のこと、きっとわたくしを持て成してくださろうとしていたのだろう。

 そして……御盆の置かれた近くに素足を投げ出すようにして、此の家の主が横たわっていた。自らの肘を枕にした姿勢で、眠っているようだ。すぅ、すぅ……と、規則正しき寝息が耳に届く。

 草履を脱ぎ、物音を立てぬようそっと上がったわたくしは、横に為っている師匠の丁度頭側へと正座した。師匠の僅かな寝息が、膝の辺りに掛って擽ったい。

 正座のまま、眠る師匠の顔を覗きこむ。

 何時もきりりと凛々しい眼差しは、何の警戒もなく無防備に伏せられていた。長い睫毛が、ぴくぴくと小刻みに動いている。僅かに開いた薄い唇からは、至極穏やかな寝息が漏れていた。

 斯うして眺めていると、目の前の男性が心の底から愛おしいもののように思ってしまう。其れは正に、親が子を想う微笑ましい気持ちと似通っているような気がした。

 さらりと流れる黒髪を、撫でてみたい欲求に駆られる。半ば無意識に手を伸ばそうとした処で、師匠の睫毛が一際ふるり、と震えた。中途半端に伸びた手をわたくしが反射的に引っ込めるのと粗同時に、師匠の瞼がゆっくりと持ち上がった。

「……嗚呼、ついうとうとしてしまった」

 寝起きの所為だろうか、いつもよりとろとろと、掠れた声が唇から漏れる。暫し視線を彷徨わせると、其処で漸くわたくしの姿を認めたようだった。

「奈津さん。いらしていたんですね」

 ふにゃり、と気の抜けたような笑み方が、何時もの師匠と違っていて、更にどきどきと心臓が鳴る。落ち着かぬ心の音を必死で押さえながら、わたくしは平静を装った。

「勝手に上がってしまって申し訳御座いません……不躾でしたわね」

「いや、構わないですよ……奈津さんですから」

 其のような意味深な、聞く者が聞けば誤解を生みそうでもある殺し文句のような一言を平気で口にできるのは、きっと寝惚けて彼の頭がうまく回っていないからであろう。彼に、他意はない。

 頭の冷静な処がそう分析している筈なのに、胸の高鳴りは何時まで経っても止みそうになかった。

「嗚呼、肘が痛い」

「座布団を御敷きに為らないからですわ」

「もっともだ」

 わたくしの軽口に、ふふ、と小さく笑った師匠は、よっこらせ、という掛け声と共に緩慢な仕草で起き上がった。思いの外距離が近かったことに驚いて、思わず後ずさってしまう。

「あ、あの……先日、仕上がりました小説を師匠に見て頂きたく存じまして、本日斯うして御持ちした次第で御座いますの」

「ふむ。……拝見致しましょう。私も丁度、是非貴女の御耳に入れて置きたいことが在りましたので、今日は時間の許す限り御話が出来ればと思っております。宜しいでしょうか」

「はい」

 師匠と、何時も以上に長く御話することが出来る。此れ程迄に有意義な時間の使い方が、他に在っただろうか。

 師匠を訪ねる前から――彼の人に葉書を頂いた瞬間から感じていた心の昂ぶりが、此処で更に現実味を帯びたものとなった。意図した訳でもないのに、自然と笑みが零れる。

 まるで自らも同じであるというように、師匠は優しく微笑んだ。

「其処に、汁粉を用意したのです。御一緒に如何でしょう」

「有難う存じます」

 礼を言うと、師匠が満足げな表情で先述の鍋をかき混ぜる。ふわりと、甘い餡の香りが漂った。

 よそって頂いた汁粉と箸を受け取り、「頂きます」と断りを入れると、わたくしは温かい其れに早速口をつけた。自覚しないうちに身体は冷えていたのか、喉元から身体中に優しい温かさがじんわりと広がっていく。

「美味しいです」

「そうですか」

 思わず又笑みを零すと、答えるように師匠が微笑んでくださる。其の笑み方からは、何処となく嬉しさが伝わってきた。

「喜んで頂けたようで良かった」

 師匠は自らも汁粉に口をつけると、うむ、と納得したように頷いた。

 二人で汁粉を一杯ずつ頂いた処で、食器を横へと置いた師匠が、不意に真面目な表情になった。此れまでにも幾度か見た、物書きの『師匠』としての顔だ。

「では、本題に入りましょうか」

「はい」

 わたくしも、姿勢を正す。そうして、此れまで汚れぬようにと避けておいた小説の草稿を師匠に差し出した。

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