明治二十五年七月:嫉妬と決別

 其れから暫く……ひと月ほどであろうか、わたくしは師匠の許へ通わなくなった。其れまでは頻繁に、週に一、二度くらいは通っていたので、此れだけ足が遠ざかるのは珍しいことであった。

 あのような失態を犯した――思わず彼の前で激昂し、隠れ家を飛び出してしまった後であるから、恥ずかしくて顔を合わせ辛かったというのも勿論あるが……。

 師匠の許へ通わなくなってから、わたくしは一人考えていた。

 わたくしは元々、家計の為に小説を書こうとしていた筈だった。其れが、師匠と共に小説書きとして大成することを……どのような形ででも、師匠の傍にいることを望むようになったのは、一体何時からだっただろう。

 確かに、わたくしが悪いとは思っている。幾ら小説の師とはいっても、師匠は紛うことなき男の方――然も、妻子が在るのであらば未だしも、奥様を亡くされてから長く独身でいらっしゃるという。

 そんな方のもとに嫁入り前の若い女が通っているとあらば、師匠があのようなことを言わずとも、何れは噂が立っていたに違いなかったのだ。

 度々、師匠には忠告を頂いていたというのに……わたくしは、あろうことか彼の人を一人の男の方として見てしまった。

 御逢いしなくなってから、師匠は度々わたくしに便りをくださった。どれも此れも、わたくしを案ずる内容のものばかりで……其れもまた、わたくしを苦しめる要因の一つと為っていたのであった。

 あの方は、わたくしを心配してくださる。わたくしを一人の女として見てくださることは、きっと一生ないであろうが、其の事実だけで嬉しくて心が弾んでしまうのだ。

 其れなのに……。

 思いつけるは、彼の人が仰ったお言葉。

『此の際私から、尾崎先生に貴女を託したいと……』

 一体何故、如何いう心算であのようなことを仰ったのであろう。

 勿論彼の仰る通り、尾崎先生の名は此れまで幾度も耳にしていた。図書館で彼の作品を読み、研究を重ねたこともある程だから、其の実力も良く知っている。

 御逢いしたことは一度もないから、師匠より優れているとも劣るとも未だ断言することが出来ない。

 けれど、其れでもわたくしは、此れまで師匠だけを唯一の師として此処まで書いてきたのに……。

『貴女を指導することに、限界を感じました』

 胸を占める感情が、わたくしを苦しめる。溢れるものが涙と為って、わたくしの頬を伝って行く。

「っ……」

 此れ以上、あの方の迷惑になってしまうのであれば。わたくしという存在が、あの方にとって重荷になってしまっていると云うのならば。

 わたくしは、あの方から離れた方がいいのかもしれない。

 御優しいあの方を……わたくしにとって誰よりも大きな存在であるあの方のことを、わたくしが心から思っているというのなら。


    ◆◆◆


「御聞きになって? 半井先生についてのことですわ」

 或る日、学問所にて久しぶりに彼の人の名を耳にしたわたくしは、思わずぴくり、と反応してしまった。

 掃除する振りをしながら、女生徒たちが話している内容に耳を傾ける。不躾とは思いながらも、聞かずにはいられなかった。

「あの方の御宅に、民子たみこ様という女性が下宿していらっしゃるのは御存じ?」

「是。幾度か、小耳に挟んだことが御座いますわ。何でも、妹君の御友人だとか」

「そう、其のお方よ」

「其の民子様が、如何かされまして?」

「……御懐妊、為さったのですって」

 ぴたり、と雑巾掛けしていた手が止まる。

 御話されていた女生徒たちは、わたくしの存在になどまるで気づいた様子もなく、続けた。

「まぁ。其れって……先生のお子様なのかしら」

「あり得ると思いません? 幾ら他の御家族も御一緒にいらっしゃるとはいえ、二人きりになる機会がないわけでは御座いませんでしょうし……其れこそ、隠れ家にこっそり御呼びになったかもしれませんわ」

「でも先生には、奈津様が御出でに為られるのでは?」

「男と女の間など、何があるか皆目見当もつきませんわ。其れに、此の時代ですもの。男性で在られる先生には、妾の一人や二人くらい居られて当然でしょう」

「そうですわね……其れにつけても、可哀想な奈津様」

「本に。……あの御様子では、未だ御懐妊もされておられぬでしょうし。愛人風情に、あっさりと先を越されてしまいましたわね」

「まったくですわ」

 後半部分は、殆ど頭に入ってこなかった。

 わたくしは其の部分の掃除を断念し、足音を立てずそっと離れた。既に結構な内容の話を聞いてしまった後なのだけれど、此れ以上聞くのは堪えられなかったのだ。

 幸い、女生徒たちは終ぞわたくしの存在に気付くことはなかったようだ。まぁ、万が一気付かれていたとしても、後で上手く誤魔化せばいいだけの話なのだけれど……。

 兎に角今は、誰とも顔を合わせたくない。

 歌子先生への置手紙に、体調不良であるが故本日は早引きさせて頂く、という旨を告げ、わたくしは荷物を纏めると足早に帰路へ着いた。


「――おや、奈津。もう帰ったのかい?」

「姉様、今日はやけにお早う御座いますね」

 母と妹の声掛けも無視し、わたくしは自室――最早自らの執筆部屋と為っている書斎へ一目散に駆けて行った。中に入るや否や、ふすまを多少乱暴にぱしり、と閉める。向こうから「これ、奈津! はしたない!」という母の声が聞こえたが、気にしていられるような精神状態ではない。

 一人になった途端、張りつめていたものが急にぷつりと音を立てて切れたような気がして、わたくしは閉め切った襖に凭れたまま、ずるずると座り込んでしまった。

 ぽろぽろと、目から涙が零れ落ちる。

「うっ……く」

 悲しいのか、悔しいのか、其れとも憎いのか。

 此れまでの様々な出来事が、頭を次々と過ぎっていく。幸福の絶頂であったあの雪の日のこと、師匠とわたくしとのわれなき噂、師匠が口にした至極残酷な言葉……そして、民子様という方のこと。

 師匠の御宅――半井家には、妹が度々訪問していた。勿論、下宿していらっしゃるという女性の御話も幾度か耳にしたことはある。

 半井家の下宿人である民子様は、師匠の妹君の同級生であるという。御友人の御宅に下宿していらっしゃるくらいだから、嫁入りも未だであろう。女生徒たちが話していた通り、同じく独身でいらっしゃる師匠が民子様と男女の関係を御持ちに為られた処で、何ら不思議なことはない。

 ――詰まる処、民子様の御腹に宿っているという御子が、師匠の血を引いている可能性は十分に在るということで。

 あの方が、心より豊かな生活を送って頂きたいと思うているのは。自らがそう出来る相手と為りたいと、考えていらっしゃるのは……恐らく其の、民子様という御方なのであろう。

 御優しい師匠は、わたくしだけにあのような御優しさをくださるわけではない。あの方は、分け隔てなく御優しいのだ。だからこそ、わたくしのような人間は簡単に陥落してしまうのかもしれない。

 最早はっきりと形になり、後戻りできぬ程に肥大化してしまったわたくしのあの方に対する想いは、所詮一方的でしかない。あの方が最終的に何方どなたを伴侶に選ぼうが、一介の弟子でしかないわたくしには何を言う資格もないのだ。

 勿論わたくしと師匠には、女生徒たちが噂していたような事実など一切ない。わたくしとあの方には、男女の関係など微塵も存在しない。

 けれど……いっそ、そうであったらどんなに良いだろうと思ってしまう。

 若しあの方が、わたくしとの間にも、民子様とのような既成事実を作ってくださっていたとしたら。

 あの方が、一瞬でもわたくしを一人の女子として見てくださることが在ったとしたら。

 そうで在ったなら、わたくしは自らの一方的な想いに、此のような苦しみを抱くこともなかったかもしれぬのに……。

 余りの口惜しさに、唇を噛みしめた。

 涙を零しながら、立てた自らの膝に顔を埋める。暫しの間そうしていると、少しずつではあるが、ぐちゃぐちゃに乱れていた自らの心が平静を取り戻していくのを感じた。

 半刻程経つと、あれだけ流れ続けていた涙はすっかり止まってしまっていた。流し始めた時はもう一生止まらぬのではないかと危惧した程であったが、時の流れとはまことに不思議なものである。

 瞼が腫れ、ひりひりと痛む。其の感覚をまるで他人事のように思いながら、わたくしは心の中で或る一つの決心を固めた。

 文机に向かい、葉書を一枚取り出す。

 かつて彼の人から頂いた万年筆を手に、わたくしはただ一人の愛しい方へ送る文章を綴り始めた。

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