明治二十五年六月:実しやかな噂
其れは、あの雪の日の少し前になろうか。
何時もの如く御逢いした時、師匠から小説に関する趣向について尋ねられたわたくしは、戸惑いつつもこう答えた。
「片恋、で御座いましょうか」
そうして現在構想中の話――あの雪の日に持参した、一篇の小説のことである――について軽く説明を加えたところ、師匠は近頃新聞沙汰になっているふしだらな男たちの悪評を批判しつつ、自らが御持ちになっている恋愛観について此のように語られた。
「まことの愛とは、其の女性が一生の暮らし向きを考え、安全な
彼の人の御言葉は、全てが輝いているように思う。中でも恋愛について語られたこの御言葉は、わたくしにとって生涯忘れ得ぬものの一つになるであろう。
後に為って思えば、此の時から、わたくしの心に燻る予感は徐々に転がり始めていたのかもしれない。
彼の人への恋慕という、明確な感情へと。
◆◆◆
「奈津さん。
十代半ばの頃より通っている学問所にて、わたくしにとってのもう一人の師である
「今、学問所は此の噂で持ちきりですわよ」
「まさか。根も葉もない噂ですわ……何故? 何処から、其のような
「此処だけの話なのですけれどもね」
歌子先生が、眉根を寄せる。首を傾げていると、歌子先生は予想だにしなかった衝撃的なことを口にされた。
「何でもあの方、奈津さんのことを自らの妻だと言い触らしていらっしゃるとか何とか……」
「師匠が?」
あのお優しい師匠が、其のような色事めいたことを口にするなど……何を如何したら、其のようなことになってしまうのであろう。
勿論、其れは単なる噂だ。師匠の言葉も何もかも作り話であろうと、一蹴することも可能であった。其れなのに、歌子様が口にされた言葉が、まるで呪いのように耳にこびりついて離れず……口惜しさと師匠に対する怒りに似た感情が、少しずつ自らの心に燻り始めて行くのを感じた。
「如何して……?」
如何して、其のようなことを軽々しく口にできるの?
あの日仰ったように、わたくしが幸福な人生を送れるようにと心から思ってくださっているとでも?
「互いに結婚を約束していらっしゃるのなら兎も角、そういった
歌子先生の御忠告は、心の底からわたくしを想ってのことであろう。分かっている。だからこそ、耳に痛いのだ。
「第一、可笑しいとは思わなくて? あの方は数年前に奥様を亡くされた、いわば男やもめ。其のような方が一人暮らしでいらっしゃる御宅に、嫁入り前の年若い
――嗚呼、やはり世間の目からは其のように見えてしまうのか。
師匠は『昔乍らの女友達とでも見て頂ければ』などと仰っていたが、抑々其の考え方こそ無理のあるものだったのだ。
師匠と弟子でも、所詮は男と女……。
師匠は長い人生の中で恋愛のいろはを知り尽くしておられる、成熟為さった立派な殿方。一方わたくしは……まだまだ世間を知らぬ、
ざわり、心が騒ぐ。
在りもせぬ筈の色恋を軽々しく口にされた、あの方を憎いと思う。けれど……同時に、浅ましくも考えてしまうのだ。
若し、二人の噂が真実であると認められるなら。其のための言葉を、あの方がわたくしにくださったなら。互いに恋い慕っていると口にし合い、蜜月のような日々を二人きりで送ることが出来るのなら。
あの方が、本当にわたくしを妻として貰ってくださったら……掛け値なしで、どれ程までに幸福であろうか。
……――否。
わたくしとあの方は、小説を通じた師と弟子。此れまでも此れからも、そうでなければ為らぬ筈。
此のような在らぬ噂を立てられてしまったのは、わたくしが師匠に、このようなあらぬ感情を抱いてしまった所為なのかしら。若しや浅ましきわたくしに対する、世間からの罰なのかしら。
嗚呼。若し、そうであるとするならば……!
「……明日、師匠の許へ参ろうと思います」
長時間黙りに黙って俯き続けていたわたくしが、案じるように見つめてくる歌子先生に対し、其の時伝えることができた言葉は、唯此の一言のみであった。
◆◆◆
事前の便りもなく急に尋ねたわたくしを、師匠は何時もと何ら変わらぬ様子で迎えてくれた。
「丁度、私の方からも奈津さんに御話したいことが在りましたから」
其の一言が、妙に引っ掛かったが……。
隠れ家に上げて頂き、向かい合って座ったところで、師匠は行き成り此のように口火を切られた。
「貴女の御通いに為られている学問所にて、私たちのことが
「……是」
掠れたような声が、口から漏れる。わたくしは唯、肯定の返事と、歌子様から聞いた話を師匠に伝えることだけで精一杯であった。
「何でも、師匠。貴方が、わたくしを自らの妻であるなどと言い触らしていらっしゃるとか如何とか……其のように、御伺い致しました」
「嗚呼」
ふ、と師匠の唇が緩む。
さては真実か、如何いう心算で其のようなことを軽々しく口にしたのか……訊きたい言葉が、矢継ぎ早に頭の中で荒れ狂う。
そんなわたくしの心境など知らぬ存ぜぬとでも云うように、師匠は静かに――何処か自嘲的にも見える笑みを浮かべながら、こう仰った。
「一度、あの学問所へ訪ねた時のことです。私が……『奈津さんのような働き者の女性に、是非とも嫁に来て頂きたいものだ』と、生徒さん方が多くいらっしゃる前で、冗談交じりに言ってしまったのですよ。広まるうちに随分
貴女には、さぞや不愉快な思いをさせたことでしょう。申し訳ない。
正座のまま、師匠が頭を下げる。まさか其のようなことをされるとは思いも因らなかったので、わたくしは慌ててしまった。
「そんな、師匠……どうか頭を御上げください。師匠の所為では御座いませんわ。わたくしが、世間に怪しまれるような行為を重ねていたことが抑々の発端なので御座いましょう」
そっと、下がった肩に触れる。
「わたくしが、師匠の許へ半ば押しかけるように訪ねておりましたから……たとえ、小説書きのいろはを教わる目的とは申しましても」
わたくしの手に導かれるようにして、師匠が顔を上げる。再びわたくしの顔を見つめる師匠は、妙に苦い御顔をされていた。
「……其のこと、なのですが」
心臓が、どきりと跳ねた。先ほど仰っており、わたくし自身気に掛かっていた『話したいこと』であろう。
何故か、嫌な予感がしてしまった。何度も、心の中で唱える。
「貴女の小説のことについては、前から申しております通り、如何にも大衆向きではない。はっきり言いますが、前に出した文芸書の評判は芳しくなく、近頃私は貴女を指導することに限界を感じておりました」
止めて、其れ以上口にしないで。
「ですから……他の物書きの師匠に御指導頂く方が適切と申しますか、貴女の御為であるのではないかと考えたのです」
御願い、止めて……。
「我々と同じく小説書きでいらっしゃる
止め――……。
「此の際私から、尾崎先生に貴女を託したいと……」
「――……っ!!」
刹那、頭に血が上ったように感じながら、わたくしは唯衝動のままに、勢い良く立ち上がっていた。座ったままの師匠が、驚いたようにわたくしを見上げている。
唇が、言いようのない怒りで震える。上手く、言葉に成らない。
「……っ。帰り、ます!」
「奈津さんっ」
呼び止められる声も無視し、わたくしは足早に師匠の家を後にした。
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