明治二十五年二月:雪の日・弐

 『闇桜』と題をつけた此度の自作小説は、わたくしが此れまでに何度か書いてきた片恋という題材を全面的に押し出した物語だ。幾度も推敲を繰り返し、書き直したこともあって、持ち込んだ草稿も可也かなり読みにくい状態に為っていることであろう。

 わたくし自身にまだ片恋の自覚はない心算なのだが、今回此の話を書くにあたって思い出していたのは、何故か何時も……今、目の前に御座おわす此の師匠のことであった。

 そういった訳で、わたくしは此の小説を彼に対して御見せすることに何時も以上の緊張を感じていた。

 伏せられた長い睫毛がわたくしの書き込んだ活字を追うように動く様子も、原稿を捲る白く大きな手も、時折何かを紡ぐように動く唇も……彼の一挙手一投足が、一々気になって仕方なく、如何にも落ち着かない気持ちになってしまうのだ。

 原稿を御渡ししてからどれくらい経ったのか、実際のところは良く分からない。ほんの数分程度のようでもあり、かと思えばたっぷり何時間も経ったようでもあり……。

 兎に角、彼の人は緩慢な仕草で顔を上げた。その表情は限りなく無に等しかったが、心なしか何時もより柔らかなようにも思えた。

 先ほどから閉じられたままの薄い唇が開き、師匠は声を漏らした。

「此れは、良いですね。是非採用しましょう」

「採用?」

「是。実は……此れが、今日奈津さんに御話したかったことなのです。此度、我等一門で文芸書を出版しようと考えておりまして。奈津さんにも、何か作品を提出して頂きたいと御依頼する心算つもりであったのです」

「其れで……」

「此の『闇桜』という作品、是非とも我が文芸書に掲載させて頂きたい。確かに前から申しております通り、新聞に御載せするのには向かぬ文体ですが、斯ういった文芸書という形でならば……或いは、物書きとして名を馳せる先駆けと成るやも知れません。勿論売り上げが上がった暁には、原稿料も弾みましょう」

真実まことで御座いますか」

「是。……勿論、私の見方より幾何か添削をさせて頂く部分もあります。其れでも、宜しいですか」

「充分です。全く未熟なわたくしなどには勿体ない御申し出、有難き幸せで御座いますわ」

 余りの嬉しさに胸が弾み、むしろ恐縮してしまう。初めて出逢った時と同じように、わたくしは師匠に対して深々と三つ指をついた。

「いいえ、其のように固くならず……如何か、顔を上げてください」

 師匠が少し焦ったように言う。其の直後、ふと彼は何かを思い出したかのように小さく笑った。

「……貴女と初めて御逢いした時にも、確か似たようなことを申し上げましたね。何だか、既視感デジャヴを感じてしまいました」

 粗同じことを思っていたわたくしもまた、顔を上げた直後、師匠につられて笑ってしまった。

「わたくしも、同じことを思いましたわ」

「気が合いますな」

「是、本に」

 暫し、二人で笑い合う。

 此の和やかな時間が、何時までも続けばと思った。わたくしにとっては其れ程迄に、柔らかく、暖かく、愛おしい空間であったのだ。

 其の後、鍋の汁粉を時折突きながら、わたくしの持ち込んだ小説の改善点や、今後の文芸書出版に関する計画などを二人で念入りに話した。

「文芸書の題なのですが、『武蔵野』という名にしたいと丁度考えておるところでして」

「良い名ですわ。わたくしが言うのも烏滸おこがましいことではありますが、是非とも採用されては如何でしょう」

「奈津さんが仰るなら、喜んで其のように致しましょう。実は此の名、私が考えたものなのです。奈津さんに同調して頂けて、とても嬉しい」

 本当に、心から嬉しそうに師匠が笑う。

 師匠としての顔とは違う、随分と砕けたその微笑みに、わたくしの胸は大きく轟いた。

 ぱちぱちと跳ねる囲炉裏の火花も、頂いた汁粉の甘さや温かさも、何時もより目まぐるしく変わる師匠の表情も、声も、仕草も。そして、此の二人きりの空間も……今日は周りの何もかもが甘ったるくきらきらしたもののように感じられて、わたくしは飽きもせずずっと胸を高鳴らせていた。


 其れから、どれ程の時間が経っただろう。

 いつの間にやら、囲炉裏の鍋はすっかり空となっていた。其の事実に気付いて漸く、わたくしは自らの満腹感を覚える。まことに時間の経つのを忘れてしまう程迄に、わたくしたちは談義を続けていたらしい。

「おや、もう此のような時間ですか」

 懐から取り出した懐中時計を見ながら、師匠が呟いた。見せて頂くと、時刻は既に夜中の三時頃を指している。

「夜通し、御話してしまったようですね」

「是。わたくしが師匠を訪ねたのは確か、未だ昨日の昼過ぎであったと記憶しておりますのに」

 わたくしが言うと、師匠は豪快に笑った。「まったく、仕様がないですね」と、全く悪びれてもいないように言う。

「如何です、奈津さん。今宵は泊まっていかれたら」

 予想外の申し出に、わたくしは目を丸くした。

 そんな……夕餉ゆうげまで御馳走になった上、寝床まで貸していただくなど。然も、まさか師匠と共に?

 わたくしが内心慌てていると、自らの発言に大きな穴を見つけたらしい師匠が、はっとしたように口元を手で押さえた。其れから、此方を安心させるように柔らかく微笑む。

「御心配なさらずとも。私は知り合いの家へ参ります故」

 其の一言に、ほっと安心したような、何だかほんの少しだけ残念なような。わたくしは誠に、不思議な心持ちを覚えてしまった。

「否、ですが……」

「丑三つ時、然も今宵は月が出ていない様子。此のような時間帯に、女性を一人で家まで帰すわけには参りません」

「……心配御座いませんわ」

 折角の申し出であったが、わたくしは丁重に御断りすることにした。

 此のように幸福な時間をわたくしの為に作って頂いたと云うだけでも有難いことである。夕餉まで御馳走になったというのに、流石に其処まで御迷惑を御掛けするわけにはいかない。第一、自らの寝床の為に師匠を外へ追い出すなど、弟子として失礼極まりないではないか。

 其れに……此れ以上師匠の御優しさに触れてしまっては、わたくしの心臓が持たないような気がした。此の時点で、もう後戻りは出来ない程にわたくしの心は泥沼へと沈んでいきつつあるというのに。

「此処から大通りまでは、然程さほど時間も掛りませぬ。其処まで行けば街灯も御座いますし、俥の一台も捉まりましょう」

 大通りまで送る、という師匠の申し出も丁重にお断りし、わたくしは師匠の隠れ家を後にした。別れ際「御気をつけて」と仰った師匠の案ずるような表情までも、嬉しく思ってしまうのは可笑しいであろうか。

 数分ほどで大通りへ出ると、丁度俥を見つける。丑三つ時とはいえ、此の辺りの人通りは然程少なくないので、未だちらほらと停まっている俥はあるようだ。

 転寝うたたねしていた車夫の肩を叩いて起こすと、わたくしは別れ際断りきれずに頂いた師匠の金を支払い、行き先を告げ中へ乗り込んだ。

 俥に揺られ、街灯に照らされる真っ暗な街を見るとはなしに見ながら、わたくしは先程迄の幸福な時間に浸る。

 思い返すは、御優しい師匠のことばかりであった。

 今日のような時間を、此れからもずっと過ごしていければいいと、胸が焦がれるほど願った。

 嗚呼、神様。如何かわたくしと師匠が、出来る限り長い間繋がっていられますように。

 欲に満ちたことは言いません。此れ以上のことは願いません。ですから如何か、わたくしと師匠が、ずっと今のままの関係でいられますように。


 ――然し此れは、叶わぬ願いであった。

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