明治二十六年二月:たずね人
最後に手土産を携え、師匠を訪ねたのが昨年の七月。
直接の言葉を口にすることは終ぞなかったが、わたくしはあの時既に、彼の人ときっぱり
そうこうしているうちに年が明け、あれから今日でもう
其れでも、下宿人である民子様を訪ね半井家に通っている妹の世間話にも似た報告や、学問所の生徒たちがことあるごとに話している噂から、あの方の近況は幾らか耳にしていた。妊娠していらした民子様が、この冬無事ご出産成されたということも。
此の七月の間、わたくしからあの方に逢いに行こうとは決してしなかったし、連絡の一つもすることはなかった。
本当は、逢いたくて逢いたくて仕方がなかった。一目だけでもいいから、あの方の御姿を拝見したかった。
あの方の血を分けた御子を授かった民子様に、醜い嫉妬心を抱いていたことも認めるし、何時かあの方からわたくしに逢いに来てくださることがあれば……などという、叶いもせぬ浅ましき願いを胸に秘めたりもした。
其れでも、わたくしは自分に言い聞かせ続けた。
わたくしはもう、あの方の手から離れたのだと。わたくしの未来の為に、そして何よりあの方の御為に、敢えてそうすることを選んだのだと。
師匠から離れて以来、わたくしは少しずつではあるが世に小説を発表していた。其れにより、師匠とはまた異なる物書きの方々と知り合い、良い刺激を受けるようになった。
また、小説に関する手解きや出版社との掛け合いなどといったことは、主に学問所にて知り合った
竜子様は女性でありながら、然も御若くてありながら、既に作家として大成されている御方だ。何でも、此の明治という時代に
わたくしは、竜子様が初めて本を出版されたのを機に、自らも物書きの道へ進むことを志し始めた身だ。其の為、此れまでにも幾度か手助けを頂いている。
同じ女性であるということ、また学問所でも同じ歌子先生という師を持つ身であることから、比較的話しやすかったし、込み入った相談をすることもできていた。
竜子様は何時でも、わたくしの話を親身に聞いてくださった。
執筆途中である小説の
男性である師匠の助言とまた違った観点からの意見は新鮮であり、自らを見直すうえでとても参考になった。
――だが、彼の人に関する相談は、流石に竜子様にも出来なかった。
本人はおろか、他の誰にも打ち明けられぬ想いであったから、わたくしは彼の人への想いについて密かに日記へとしたためていた。余りに赤裸々すぎて読み返すのが辛いので、
何時しか我が日記は、彼の人に対する狂おしいほどの想いに溢れた、恋愛日記のような代物へと変化していた。其の事実を恥ずかしく思いながらも、書かずにはいられぬ衝動に任せてどんどん
今書斎で開いている此の帳面も、もう何冊目に為るか分からない。元より、数える気など更々ないのが真実であるが。
其れほどまでに、彼の人に逢わぬ間のわたくしは想いを募らせ、また其れを徐々に悪い方向へと
◆◆◆
そんな折、夜分遅く我が家を訪ねる人があった。
母と妹は既にそれぞれの寝床へ行った後で、書斎を出て
わたくしがつっかい棒に手を掛けるのと粗同時に、外から其の戸を軽く叩く音がした。此のような夜分に一体何方であろう……と訝しく思いながらも、つっかい棒を取ろうとした手で其のまま戸を開ける。
「はい、何方です……」
何方ですか、と問おうとしたわたくしの言葉は、至極中途半端な処で止まった。目の前に立っていた、大柄でわたくしより幾何か背の高い夜中の客人を見上げ、はしたなくも口を開けたまま固まってしまう。
見慣れた着流しの上に防寒用の
「今晩は、奈津さん。御久しぶりですね」
――他でもない、わたくしが焦がれ続けてやまない御相手だった。
「師匠……如何して」
暫し呆然とした後、漸く告げることが出来たのは、唯其れだけであった。其の至極単純である筈の問いにすらも緊張と戸惑いが顕著に表れてしまい、まるで久しぶりに声を出した時であるかのような、滑稽なまでに掠れた声に為ってしまう。
師匠は何時ものように、穏やかな微笑みを絶やさぬまま答えた。
「此のような夜分に、申し訳ないとは思ったのですが……生憎、今しか時間を取ることが出来ませんで」
「其れで、どのような」
「是。まぁ、別に大した用事であるというわけではないのですが……」
「中へ、御上がりになりますか」
「其処までには及びません。直ぐに失礼させて頂きます。奈津さんも、そろそろお眠りになる時間だったでしょうし」
僅かな期待を込めて言ってみたけれど、師匠には素気無く
「では、早く用事を済ませてしまうことに致しましょう」
わたくしの心情などまるで知らぬように、師匠は不意に自らの胸の辺りへ手を伸ばす。襟巻を僅かにずらし、着流しの懐に忍ばせているらしい何かを取り出そうとする白い手と、其の拍子にちらりと覗いた鎖骨がやけに艶めかしく、思わず喉を鳴らしてしまいそうになった。
何度かごそごそと胸元を探ると、何かを掴んだらしい師匠の手が戻ってくる。取り出されたのは、紫色の巾着袋であった。
「此れを」
「わたくしに、ですか?」
「是」
言われるがまま、其の巾着袋を受け取る。其れはじんわりと温かく――恐らく、先程まで師匠の懐にあった所為であろう――、そして僅かにずしりとした重量があった。
好奇心のままに振ってみると、ちゃりん、と硬いもの同士がぶつかるような金属音が鳴る。其れ故中に入っているのが小銭であることに気付いたわたくしは、目を見開いた。
「此れは……」
「此れまでずっと渡しそびれていたのですが、前に発行した『武蔵野』の原稿料です。力及ばず、此の通り僅かばかりの収入でしか御座いませんでしたが、如何かお納めください」
「
「如何いたしまして。……では、私は此れで失礼致します。御休みなさい、奈津さん」
「……御休みなさい」
わたくしが返した挨拶に笑みだけで答えると、師匠はゆっくりとわたくしに背中を向けた。其のまま振り返りもせず、足取りもしっかりと歩いていく。
遠ざかる背中を、息の詰まる思いで唯只管に見つめ続けた。愛しき姿が少しずつ小さく、輪郭さえも徐々にぼやけていき……そうして完全に見えなくなってしまうが、其の後もわたくしは暫く呆然と其の場に立ち尽くす。
頂いた巾着袋からは、僅かに彼の人の香りがした。胸に抱き締め、そっと瞼を閉じれば、頬に一筋の滴が伝うのを感じる。
――きっとわたくしは一生、此の巾着を手放すことが出来ないだろう。
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