明治二十六年七月:生活苦に喘ぎながら

 師匠と袂を分かつと決めてから、学問所でのわたくしたちに関する噂は少しずつなりを潜めてきつつあった。

 ……が、其れで漸く心身ともに落ち着けるように為ったのかといえば、実はそうではない。

 会わなくなってからも、わたくしは片時も師匠を忘れるいとまがなかった。何時も、どのような時にも、わたくしの心の何処かには彼の人の御姿があった。

 未だ民子様を訪ねている妹や、偶々御逢いした共通の知り合いである御人などに、あの方の詳しい近況を聞くことも少なくはなく……その度に、想いは募った。

 せめて少しの間だけでも、あの方に逢いたい。一目だけでも、あの方の御姿を拝みたい。

 ……けれど、其れは叶わない。

 また、『武蔵野』の原稿料を頂いてから――彼の人が我が家へ訪ねてきたあの夜があってから、わたくしは一行どころか一文字すらも文章を綴れぬ状態が続いていた。

 頂いた原稿料は呆気なく生活費へと消え、其れだけでは到底足らぬので私物を少し売りに出したりもした。だが、彼の人の匂いが染みついた巾着袋だけは売ることも捨てることもできず、書斎の引き出しに仕舞い込んだままだった。

 勿論、家族には彼の訪問について少しも打ち明けていない。原稿料を頂いたという話だけはしたが、師匠の件を口に出すことはなかった。

『御前がそれでいいと言うのならば、構わないけれども』

 師匠と袂を分かつことにしたと家族に告げた時、折角姉様の為に半井先生を紹介したのに、と憤慨する妹に対し、母親は困ったように眉を下げながら言った。

 前よりも少し痩せたように見受けるのは、気のせいではないだろう。其れも此れも、家長であるわたくしが不甲斐ない所為だ。

 だからこそ……斯ういう時であるからこそ、わたくしが筆を取らねば為らぬというのに。

 如何して、斯うも上手く事が運ばぬのであろうか。

 いっそ物書きから離れ、新しく何かをやり直すことで此の生活苦を打開した方が、上手くゆくのではないだろうか。

「……母様、邦子くにこ

 母と、妹を呼ぶ。自らの声が何時もより低くなっているのを、何となくではあるが感じていた。

 其々洗濯や針仕事をしていた二人が、ぱたぱたと駆け寄ってきた。重々しい雰囲気を纏うわたくしを案じてか、二人とも何処か落ち着きのない表情をしている。

 そんな二人に、わたくしは或る一つの決心を告げた。

「引っ越しを、しようと思うのですが」


 ――母と妹には、勿論反対された。斯うして慎ましやかに生活をしようというだけでも苦しい状態であるというのに、何故態々其のようなことをしなければ為らぬのか、と。

 だが、わたくしは此の家の長として、如何してもこの生活苦を打開しなければ為らなかった。如何しても、賛成して頂かなければ為らなかった。

 わたくしの意見を述べつつ、そう考えた経緯について一つずつ丁寧に説明しながら説得すれば、同じく此の生活苦を如何にかしたいと考えていたらしい母も妹も如何にか納得してくれた。

 其れからは、早かった。

 引っ越しの為には、今住んでいる家を引き払い、新たな生活の場を設ける準備をしなければ成らない。其れ故にわたくしたちは、親戚中を回って御金を貸して頂くよう頼み込んだり、身の回りの物を次々と売りに払ったりして、如何にか必要な資金を集めた。

 歌子先生には、暫し暇を頂く旨を伝えた。引っ越しを完了させてしまえば、今迄のように学問所へ通うことはできないと考えたからだ。

 わたくしの生活苦を能く御存じであった歌子先生には、直ぐに承諾を頂いた。別れ際には『寂しくなるわねぇ』と眉を下げながら仰ってくださったので、思わず涙が出そうになった程だ。

 そして……。

 資金集めに多少手間取りはしたものの、三月みつき後には無事、わたくしたちは吉原よしわらの近くに建てられていた新居へと引っ越しを済ませることができたのであった。

 行き成り引っ越しをしようと言い出したのには、勿論理由があった。

 近頃一切文章を紡げず、物書きとしての自らに限界を感じていたわたくしは、心機一転、此処とは異なる環境にてまた別の商売を始めようと思ったのだ。

 何時まで経っても大成しない物書きという仕事を辞め、新しい商売を成功させることで、もしかしたら我らは今の極貧生活から抜け出すことができるかもしれない。そんな、一縷の希望に縋った。

 其れに……母や妹には言わなかったが、態々場を変えたのには、実はもう一つ理由があった。

 要は、頭を冷やしたかったのだ。

 引っ越してあの方の御住まいから遠ざかることで、少しでも此の想いを鎮静化できれば。そして……新しい商売を始めることで、書くという行為から遠ざかることができれば。

 そうしたら……わたくしは、もう少し利己的な人間になれるかもしれない。

 唯一時ひとときの気の迷いでしかなく、一生報われることもない、苦しみしか与えて呉れない此の恋路に、漸く蹴りをつけられるかもしれない。

 其れもまた、わたくしにとっての一縷の希望であった。


    ◆◆◆


あねさん、此れ頂戴」

「はいよ、二厘にりんね」

 新しい商売――駄菓子屋を始めてから、数日余りで近所には評判が伝わったらしく、子供達が一日に何人もやって来た。

 母と妹、そしてわたくしが代わる代わる店番をしていたが、子供達にとっての一番の気に入りは――自分で言うのも何だが――どうやらわたくしらしく、顔見知りと為った子供達にはよく懐かれた。

 売っているものが駄菓子という格安のものである上、つけ・・も少なくはないので、決して売り上げが良いと言えたものではない。けれども、此のような生活は非常に新鮮であり、わたくしは駄菓子屋の経営を其れなりに楽しんでいた。

「此の飴、初めて見るね」

「嗚呼。新しく仕入れてきたものだよ」

「綺麗な色。姉さん、此れ幾らなの?」

「三厘だね」

「うーん……やはり、一寸ちょっと高いなぁ」

「おっかさんに相談して、銭を貰ってこようよ」

「賛成っ」

「姉さん、一寸待っててね」

「構わないよ、行っといで」

 ばたばたと、幾つもの足音が駆けて行く。

 騒がしい間ならば何も考えずに居られるのだが、子供達がいなくなって一気に静寂が訪れると、不意に心に隙間風が吹くような冷たさを感じる。

 独りきりの静寂は、恐ろしい。

 誰かが一緒ならば――其れこそ母や妹などの話し相手がいれば、静寂など訪れることはないのだが、独りだと特別話すこともないので、必然的に黙っているしかなくなってしまうのだ。

 ――でも。

 あの方といる時の静寂は、寧ろ心地よい空間であったな。

「……嗚呼、また」

 こうやってまた、あの方のことを考えてしまう。やはり、独りの空間は好きではない。

 そうこうしているうちに、家事をしていたであろう母君を連れた子供達が再び店にやって来たので、わたくしは内心で安堵しながら接客を再開したのであった。

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