明治二十七年一月:時は経てども

 其れは、店を始めてから半年程経った、或る寒い冬の日のことであった。

「姉さん」

 客足も落ち着いてきた頃、丁度一人の少女が店へとやって来た。此の寒い中を走ってきたのであろう、頬が紅潮している。

「嗚呼、みどりちゃん。いらっしゃい」

 定位置で火鉢に当たりながら、わたくしは声を掛けた。

「如何したの、そんなに思い詰めた顔をして」

 顔見知りと為った子供の一人である緑は、確か今年で十二に為る筈だ。まだまだ子供ではあるが、徐々に女としてのたおやかさと艶やかさを身につけつつある……所謂、発展途上の少女。

 そんな彼女は此の時、何故か切羽詰まったような顔をしていたので、わたくしは思わずどきりとした。

 此の類の顔つきには、覚えがある。

「兎に角、入って御出で」

 俯く緑を招き入れると、店番をしているわたくしの向かいにもう一つ椅子を出し、其処へ座らせた。

「如何したんだい」

 辛抱強く静かに問うてやると、緑は初めこそ躊躇していたものの、やがて少しずつぽろぽろと言葉を零し始めた。

「……幼馴染が、いるのだけれど」

 緑の声はか細く、震えていた。何らかの強い不安を、其の小さな胸に抱えているのかもしれない。

「そいつとは小さい頃、よく一緒に遊んだ。家も近かったしさ。何時もあたし達は一緒で、あの頃は毎日がとっても楽しかったよ。……今はもう、そういうこともなくなっちまったけれど」

「……うん」

 相槌を打ちつつ、さり気なく続きを促せば、緑は更にゆっくりとした口調で続けた。

「あたしは、物心ついた時からずっとそいつの背中を追いかけてた。何時の頃からかあたしには、彼奴あいつのことしか見えなくなってた。幼馴染とか、友達とか、遊び相手とか。確かに立場はそうだったかもしれないけれど、そういうんじゃなくてさ……何ていうか、何だろ。上手く、言葉じゃ言い表せないんだけれど」

「……胸が甘くて、それでいて時折苦くって、辛いけど、其れでも幸せな気持ちに為れる。その子といる時、緑ちゃんはそんな風に感じていた?」

「姉さん、如何して分かるの」

 緑の告白に、自らでも気づかぬうちに吐露していた心情。自らの心を的確に言い当てられたとでも言わんばかりに、緑は驚いた様子でわたくしを見た。

「分かるさ。其れは、懸想けそうってやつだ」

「懸想?」

 首を傾げる緑に、肯定の代わりとして小さく微笑んでみせる。

「恋だよ」

「恋……あたしは、彼奴に恋をしているのか」

「そうだよ」

 迷いなく、答える。人生の先輩として、躊躇などしてはいけないような気がした。きっぱりと、自らの気持ちに気付かせてやるべきなのだ。

 わたくしの言葉で自覚したのか、ほんのりと頬を染める緑。うっとりとした其の表情にまた、胸がちくりと痛んだ。

 彼女から視線を逸らし、少しだけ目を伏せる。

「……わたくしも、同じだ」

「姉さんも、誰かに懸想していらっしゃるの」

「……嗚呼」

 無邪気さの残る双眼が、じっと此方を見ているのが分かる。其処から逃れるように、わたくしは目を閉じた。

 瞼の裏に浮かぶのは、離れてから随分と久しい筈の、唯一人焦がれた御方の姿。

 あの方は今、何処で何をしていらっしゃるのだろう。何を考えて、此の時を過ごしていらっしゃるのであろう……。

「……緑ちゃんは、幾ら叶わぬ恋路であっても、決して後悔なんてしないように為さいね」

 心に満ちた感情に、押し出されるようにして出た言葉。

 緑は其の時一瞬だけ、確かに泣きそうな顔をした。

 然し直ぐに表情を改めると、今度は先程よりもはっきりとした、或る種覚悟を決めたような顔つきで話を再開させる。

「あたしはね、姉さん。行く行くは遊郭に売られる身なんだ」

 其れでも声だけは、やはり今にも泣き出しそうに震えていた。伏せがちの睫毛が、彼女の感情を表すようにふるりと揺れる。

「其れでね、あたしが懸想している幼馴染は、僧侶に成る。……抑々、あたしと彼奴じゃ住む世界が違うんだ。もっと小さい頃には、互いの立場なんて何にも知らないまま仲良くしていられたけど……定められた運命を知った途端に、あたし達は引き裂かれちまった。一緒にいることさえ、世間は許してくれない。誰も……あたしの背中を押してくれる人なんていないんだ」

 何となく、分かっていたことだった。

 此の辺りは、遊郭で有名な吉原が近い場所に在る。其れは、江戸時代から続く因縁めいたものに他ならない。其れ故、此の辺に住む少女たちは皆娼婦に為る運命なのだと、風の噂で聞いたことがあった。

 緑も、其のうちの一人なのだろう。

 緑の言う通り、何も知らぬ頃だったならば、自分の運命など何も知らぬまま幸せな気持ちでいられる。自分の恋が道ならぬものだと、気付かないままでいられたなら。

 けれど、成長して互いの立場を知ってしまった今となっては……。

「もう、あたしは……彼奴を想うことさえも、叶わない。此のまま売られちゃ、あたしの中には如何したって後悔しか残らないよ。ねぇ、姉さん」

 如何したらいいの、と緑は泣いた。

 わたくしは何も言えぬまま、そんな緑の頭をそっと引き寄せる。着物に包んだ胸の辺りに緑の顔が優しく当たり、間もなくじわりと湿り気のある感触が伝わってきた。

 結わえた髪が乱れぬよう気を配りながら、わたくしは引き寄せた手で緑の小さな頭を数度軽く叩いた。

 独り言のように、小さく囁く。

「……道ならぬ恋は、辛いものだね」

 焦がれる相手を、心の内で想うことさえも叶わない。わたくしの恋も、見事なまでに後悔だらけだ。

 此の、知らず知らずのうちに肥大した恋心を秘めているわたくしでさえもこんなに辛いというのに、同じ想いを其の小さな胸に抱える彼女の辛さは幾何ばかりか……。

「いいかい。決して、後悔だけは残していくんじゃないよ……」

 其れは緑に言っているようで、自分自身に言い聞かせようとしていることかも知れなかった。


    ◆◆◆


 其の年の五月、わたくしたちは一年近く経営を続けてきた駄菓子屋を閉めることにした。

 折角知り合った子供達には「姉さん、もうお菓子売ってくれないの?」などと非常に残念がられ、後ろ髪を引かれるような思いであった。しかし、もう一度決めてしまったことであるから、後戻りなどできなかった。

 集まってくる子供達に「御免よ」と謝りながら、暖簾を下ろす。

 其の中には、あの日話した緑もいた。近いうちに、吉原遊郭へ正式に入ることに為るらしい。

「……昨日、恋文を送ったよ。せめて彼奴に、あたしの気持ちだけでも知ってもらいたかったから」

 わたくしの許へちょこちょこと近づいてきたかと思うと、緑は頬を赤らめながらそっと、しゃがんだわたくしの耳元で囁いた。其の小さな頭を撫で、わたくしは唯「そうかい」とだけ言って微笑んだ。其の時に見た緑の恥らうような笑みを、わたくしは生涯忘れることはないだろう。

 ――此の一年、駄菓子屋を経営し続けたけれども、結局わたくしたち家族の暮らし向きは良く成らなかった。仕入帳と売上帳を見比べれば一目瞭然である通り、眩暈がするほど赤字が続いたのだ。

 此の辺りには、わたくしの処以外にも駄菓子屋などというものは幾つも存在するし、仕方のないことだろうとは思う。抑々最初から、失敗だったのだ。

 また、幾ら苦しかろうとも、此の時のわたくしの中には確かに、再び物を書いてみたいという気持ちが起こっていた。

 恋とは何時の時代も、道ならぬものだ。

 実際に経験し、嫌という程其の事実を実感した今ならば、昔より遥かに現実的な片恋の物語を紡ぐことができるかもしれない。

 締め切った部屋――久方ぶりに日記以外の物を前にした、書斎の文机にて、わたくしは決意を新たにもう一度筆を執った。

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