明治二十七年十月:元婚約者の来訪
引っ越し先ででも相変わらず母と妹に家事の一切を任せ、わたくしは書斎で筆を執っていた。然し紙に文字が増えることはなく、頭の中で物語を考えようとしても、如何しても何処かで煮詰まってしまう。
如何したものか、と思案に暮れていると、不意に書斎の襖が僅かな音を立てて開いた。
「姉様」
振り向けば、妹が此方に向けて三つ指を突いていた。「如何したの」と静かに問えば、頭を上げた妹の表情は何処か戸惑ったようで、わたくしは怪訝に眉を顰めた。
「あの……」
「如何したの、邦子?」
もう一度、今度は語気を強めて尋ねる。妹は言いにくそうに、ぽつりと一言斯う言った。
「姉様に、御客人がいらしているのですが」
「何方だい」
「其れが……」
困ったように、視線を右往左往させる。焦れたように「早く御言い」と告げれば、意を決したように妹は続けた。
「
「阪本様?」
久方振りに聞く名に、わたくしは眉根を寄せた。恐らく、今のわたくしの表情は
「何故、今更」
「分かりませぬ」
わたくしの心情を察してのことであろう。妹の声は、何処か相手方に対する毒を含んでいるように聞こえた。
「勿論昔の因縁も御座いますから、御暇して頂くようにわたしからも母からも御頼み申し上げたのですが……如何しても、奈津さんに直接御逢いしたいのだと」
昔の因縁、という言葉を、妹は態とらしく強調する。
「何と、厚顔無恥な御方で御座いましょう」
一瞬、わたくし自身がそう口にしたのかと思った。其れ程迄に、妹の言葉は非常に雄弁にわたくしの心情を語って呉れたのだ。
「如何致しますか、姉様」
「……致し方あるまい。今更何の御用かは存じ上げませぬが、一度わたくしが逢って御話をすれば、あの方も納得してくださるでしょう。邦子、阪本様を此方に御通しなさい」
「分かりました」
そそくさと出て行く妹を見送りながら、わたくしは書斎の机に背を向け、姿勢を正して座り直す。
そうしてわたくしは唯、其の時を待つ。間もなく此の場に現れるであろう因縁の相手を、堂々と迎え入れるだけの準備を整えて。
「――久方振りですな、奈津様」
「是」
目の前に鎮座する男――阪本
噂には聞いていたが、成程……。
「随分、御出世為されたようで御座いますわね」
勿論此れは、皮肉というものだ。
然し鈍い彼にはやはり通じなかったようで、「まぁ、其れなりに」等と答えながら、何処か自慢げに上着を羽織り直した。
「其れで……官僚の仲間入りを為された、貴方様のような御立派な御方が、此度はわたくしのような没落士族の娘などに、一体全体どのようなご用事で逢いにいらしたので御座いましょう」
少しばかり、強い口調で尋ねる。此方は貴方などに用事はないのだから、もう御引取下さい、と言外に込めて。
彼は意に介すことなく、「厭ですねぇ」とおっとり笑った。
「其のように、刺々しく私を拒絶為さるのはおやめください。一度は婚約していた間柄ではありませぬか」
「其の婚約を破棄せねば為らぬ原因を作ったのは、どちらの方で御座いましたか。忘れた等と、戯けたことは言わせませんよ」
あの時の恨みを、憎しみを、我等は決して忘れませぬ。
そう、忘れもしない――大黒柱であった父が亡くなり、わたくしの家がいよいよ没落してしまったあの時。此のような惨めな暮らしを余儀なくされるきっかけとなった、瞬間。
当時婚約していた目の前の殿方は、そんな我等に手を差し伸べることもせず……あろうことか金欠に喘ぐわたくしの家に対して、多額の結納金を請求してきたのである。
「あの頃は、私も浅はかで御座いました。金にばかり執心して、貴女の本当の魅力というものが見えていなかった」
飄々と告げてみせる阪本様に、漸く収まりつつあった筈の強い憎しみが、再びふつふつと湧き上がってくる。
わたくしの、本当の魅力ですって?
其のようなことを、わたくしは認めてほしかったわけではない。
此の方を愛していたわけでは決してないけれども、其れでも共に人生を歩んでいく殿方として、此の方を支えていこうと決意していたのは真実だ。少し卑怯な考え方であったかもしれぬが……誠意のある通常の御方なら、妻と為る女子の窮地を、きっと救ってくれると信じていた。
其れなのに。
わたくしを見捨てたばかりか、罪悪感さえ抱くことなく、此の方はわたくしを初めからなかった存在として扱ったのだ。
そうやって、御自分だけ勝手に出世為さって……。
然し怒りを露わにすることは、女子として非常にみっともない。そう理解していたからこそ、わたくしは彼に激昂することを躊躇っていた。
「奈津様」
わたくしの迷いを制そうとするかのように、阪本様は口を開かれた。せめてもの抵抗にと、わたくしは彼を強気に睨んでみせる。
「其のような、親の仇を見るかのような目を為さらないで」
「親の仇も何も、貴方はわたくしたち家族の仇ですわ」
「つれないことを仰らないで。私の話を、聞いていただけませんか」
嗚呼、腹が立つ。
何を言っても、きっと此の殿方は皮肉と取らないのだ。単に鈍いのか、其れとも態となのか……今更わたくしに接近して、どのような心算かは知らぬが、此処はきっぱりと拒絶しなければ。
そう決意し、口を開こうとした其の時。
「奈津さん。此の私と、改めて結婚を前提に御付き合いして頂きたい」
「……はぁ?」
自分でも其れと分かる程に、素っ頓狂な声が出た。思わず、目の前の阪本様をまじまじと見つめてしまう。
阪本様は、至極真剣な顔つきでわたくしを見ていらした。射抜くような瞳の光が、わたくしを捉える。
「……何を、仰っているのです?」
暫しの沈黙の後、漸く出たのは、其の一言だけだった。此方の気持ちなど少しも察そうとする様子はなく、阪本様はふわりと笑う。
「其のままの意味ですよ。私と、もう一度恋仲に……」
「戯けたことを」
自分の口から出たのは、酷く冷たい響きを伴った言葉だった。
「女子だからといって、
「あの頃の私は、唯
「だからといって、そう簡単に赦すわけには参りません」
「援助ならば、幾らでも致しましょう。貴女と御家族が、常に幸福であれるよう、私に出来ることならば何でも致します」
其の言葉に、心が揺れなかったといえば嘘になる。阪本様ほどの御方が味方に為ってくだされば、此の没落した我が家も直ぐに立ち直るであろう。父が生きていらした時のような、人並みの――否、其れ以上の生活が、出来るように為るであろう。
けれど、其れでも――……。
「……我々の、尊厳が傷つきますわ」
わたくしは勿論のこと、母も妹も、他の家族も、彼からの援助を認めないであろう。過去に因縁のある相手へ助けを乞うなど、士族としては屈辱以外の何物でもない。誠に、由々しきことだ。
父も、我が枕元で恨み言を並べ立てるに違いない。
其れに……わたくしには如何しても、此の方を愛おしいと思うことは出来そうになかった。そしてきっと、其れは一生掛かっても出来ないことなのであろうとも思う。
彼の言葉は、わたくしに響かない。
唯一、わたくしの心を轟かし、わたくしという人格さえも変えようという程の影響力を持つ、殿方といえば……。
此のような時でさえも、師匠のことを自然と思い出してしまうわたくし自身に、辟易する。
そんな考えが、顔に出ていたのだろうか。
「……奈津様」
俯いて黙り込むわたくしの名を、阪本様がもう一度呼んだ。顔を上げれば、やけに神妙な阪本様の御顔とぶつかる。思わず怪訝に眉を顰めると、阪本様はおずおずと口を開かれた。
「貴女には、想い人がいらっしゃるのでしょうか」
「……」
答えあぐねていると、更に阪本様は断定するかの如く言い募る。
「小説の御師匠様であるという、半井殿ですか」
たまらず息を呑んでしまった、わたくしの心情を、彼は此処に来て漸く察したのかもしれない。わたくしが答えぬのをいいことに、阪本様はつらつらと言葉を並べ立てた。
「あの方と貴女とでは、随分年が離れていらっしゃる。其れに、あちらは男やもめであられるばかりか、数多の女子と浮名を流しているようでは御座いませんか。其のような……然も師弟関係にある方に、恋などしていい筈がないでしょう。後々、辛くなるだけだ。私なら、貴女に辛い思いはさせません。如何か、目を御覚まし下さい」
「……っ、わたくしは、あの方に其のような気を起こしたことなど、一度たりとも御座いませぬ!」
感情の抑えが利かず、つい声を荒げてしまった。阪本様の驚く御顔も気にならず、わたくしは唯、怒りのままに言葉を続ける。
「わたくしとあの方の、穢れなき間柄を……わたくしのあの方に対する純粋な尊敬の気持ちを、踏み
言葉を挟もうとする阪本様を阻み、わたくしは立ち上がると、強引に彼を部屋から追い出すべく襖を開けた。其の向こうに控えているであろう妹に、声を掛ける。
「邦子や、邦子。阪本様はもう御帰りのようだよ。御見送り差し上げて」
「もう、宜しいのですか。姉様」
「……是」
「奈津さんっ」
焦ったような阪本様の声も無視して、わたくしは妹と強引に阪本様を玄関へ追い立てた。事前に母が準備していた適当な手土産を御渡しし、半ば追い出すような形で家から出す。
此方の頑なな拒絶に、此れ以上の抵抗は無駄だと諦めたらしい阪本様は、素直に引き下がった。玄関に控えさせていた俥に乗り込み、一言此方へ声を掛ける。
「また、伺います」
阪本様を乗せた俥が道を駆け抜けていくのを見送りながら、わたくしは母と妹に対し、あの方を二度と此の家に入れることのないよう、家主としてきっちりと申しつけを行った。
阪本三郎は此の家に害を為す人物であるから、気を付けるように……と。
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