明治二十八年三月:想いの丈を原稿に
寒くなる前に、わたくしたち家族は幾度目かの引越しを終えた。無論、再三訪ねて来られる阪本様から逃れる為である。
其れからわたくしは、浮世での嫌なことを全て忘れたいと願う余り、書斎に閉じこもっては
わたくしは、時を置かずして複数に及ぶ作品を、実にあらゆる場所にて発表した。
今自らが生きている時代は、女子にとって道ならぬものでしかない。
あの方はかつて『女性が一生の暮らし向きを考え、安全な良人を求め得ることこそがまことの愛』だと仰った。然し女子とは所詮、望んだ相手と結ばれることなど叶わぬ身なのだ。
決定権は、全て殿方に委ねられる。其れこそが当たり前のことであると、暗黙の了解が為されているのだ。
学友や親戚などといった身近な人間たちの姿を見ながら、また阪本様とのことを初めとした自らの経験を思い出しながら、わたくしはそう結論付けずにいられなかった。
恋路に悩み、自らの立場や生活の困窮に苦しむ。そんな女の姿を、わたくしは幾つも小説にしたためた。
横柄な亭主に愛想を尽かし離婚を決意するものの、腹を痛めて産んだ息子を失うことを恐れ、ただ耐えることを選んだ女。
或る自らの客を愛したものの、未練を断ち切れぬまま落ちぶれて妻子共に失った別の客に、半ば無理心中のような形で殺されることとなった遊女。
貧乏な余り借金を返すことが出来ず、大晦日に仕方なく店から金を盗んだ奉公人の女。
時に自らの経験を、時に周りの経験を、其々織り交ぜながら、人物や時代背景、そして物語を丁寧に描写していく。
そんな風にして書いた幾つもの物語は、徐々にではあるが周りから評価して頂けるようになっていった。
短篇小説を次々と発表する合間に、わたくしは或る一篇の連載小説を細々と始めていた。言ってしまえばわたくしは、此の話が一番書きたかったのかもしれない。此れまで書いてきたどの小説よりも、わたくし自身の実感がこもっていたことを自覚しているし、主人公の姿もはっきりとわたくしの脳裏に浮かんでいた。
主人公は、十四歳の少女。後に遊女と為ることが決まっているが、僧侶の息子である幼馴染の少年に恋心を抱くのだ。
少女の名は、『みどり』。
そう。流石に漢字や設定年齢こそ異なるが、わたくしは此の主人公に自分自身と、もう一人或る少女の姿を重ねていた。
『あたしはね、姉さん。行く行くは遊郭に売られる身なんだ。其れでね、あたしが懸想している幼馴染は、僧侶に成る。……抑々、あたしと彼奴じゃ住む世界が違うんだ』
未だわたくしが駄菓子屋を開いていた時。寒い冬の日のことだ。
『もう、あたしは……彼奴を想うことさえも、叶わない。此のまま売られちゃ、あたしの中には如何したって後悔しか残らないよ』
如何したらいいの、と泣いた彼女。
あの時同時に、わたくしの心も口惜しく涙に呑まれた。少女の心が、わたくし自身の心の動きと重なっていくような心地がした。
彼の人に心惹かれる自らの心。あの方の一挙手一投足に、笑顔に、御言葉に、温められていく己の穏やかさと心地良さ。連絡があった、唯そんな些細なことだけで心躍る、少女に戻った時のような瑞々しい幸福感。
其れは甘く、優しく、穏やかな、唯の純粋な恋情だった。わたくしの中でだけで勝手に育ち、緩やかに膨らんでいく筈だった。
其れでも、此の想いが決して叶わぬことを示唆するように、余りに冷ややかすぎた周りの反応。自らの軽はずみな行動が招いた、あられもない評判。彼の周りを取り囲む女性の影、核心に近い噂話。其れ故に、愛おしい方から離れなければ為らなくなった時の口惜しさといったら。
わたくしは唯、小説を書きたかっただけなのに。
あの方の許で、文章を磨いていたかった。少しでもいい、稼げればよかった。弟子としてでもいいから、何の
唯、其れだけだった筈なのに。
――師弟関係にある方に、恋などしていい筈がないでしょう。
阪本様の御言葉が脳裏によみがえり、わたくしは口惜しい気持ちで唇を噛み締めた。
「何処で、間違えたのかしら」
一人きりの書斎で、小さく呟く。
「姉様」
其の時、襖が開いた。隙間から妹が顔を覗かせ、心配そうにわたくしを見つめてくる。
「余り気を詰めていては成りませんわ。如何でございましょう、共に参りませぬか。姉様にとっても、良い気分転換に為りましょう」
◆◆◆
出掛けるという妹に着いて、久方振りに外へ出た。此処のところずっとわたくしは小説執筆に掛かりっきりで、特別用事のない時以外は粗一日中書斎に籠りきっていたのだ。
よく晴れた青空と、程好く冷えた空気が、多く着込んだわたくしたちの身体を包み込む。
「もう弥生だというのに、冷えますね」
「是。然し、此のひやりとした空気が寧ろ心地良いわ」
「真実でございますわね、姉様」
白く薄い息を吐きながら、妹と並んで歩く。
十分程歩いた処で、見覚えのある景色が見えてきた。甘い感情や苦い感情、様々なものが心に打ち寄せてきて、心臓がどきりと音を立てる。
「半井先生の御宅ですわ。久し振りに御目にかかりますわね……」
「……是」
勿論、妹が今日出掛けるという先は、此の邸宅ではない。
わたくしは隠れ家の方で何時も御会いしていたので、余り馴染みがあるわけではないのだが、何度か立ち寄らせて頂いたことはあった。師匠の、本来の御宅だ。
洗濯でもしているのだろうか、少しだけ縁側の戸が開いている。其の隙間から、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「姉様、御覧になって」
声を潜め、妹が手招きしてくる。周りの目を気にし、目立たぬよう頭を下げながら寄っていくと、妹が控えめに指差す先へ目をやった。
開いた戸の隙間から、僅かに見える人影。女人が二、三人ばかり、楽しげに談笑していらっしゃるらしい。
一人は、師匠の妹君。もう一人は、師匠の御子を産まれたという民子様。着物の袖に包まれた細い腕には、ふくふくと可愛らしい赤ん坊を大事そうに抱いている。
そして、もう一人は――……。
「もう御一方は、何方かしら」
余計なことと分かっていつつも、つい口に出してしまう。
「嫌ですわ、姉様ったら」
くすくす、と可笑しそうに笑った妹は、悪戯っぽい眼差しをわたくしに向ける。そうして耳元へ寄ってくると、こっそりと――まるで内緒話でもするかの如く、わたくしにこう告げた。
「奥様で御座いましょう。半井先生の」
――え?
「……如何、して」
師匠の奥様は、民子様ではなかったの? だって、師匠の尊い血を引く御子を、其の腹で御産みに為られた身であるというのに。
「間違い御座いませんわ」
わたくしの心情など少しも知らぬ妹は、ふふ、と尚も可笑しそうな、楽しそうな笑みを其の整った顔に乗せる。
「先生も、罪な殿方ですわね。ねぇ、姉様。……姉様?」
意地の悪い笑みを
「姉様、如何されましたの。顔色が、御悪いわ」
「……」
「又、持病の頭痛ですか?」
連れ出さなければよかったかしら、等と後悔したように呟く妹に、わたくしは半ば意地で「大丈夫よ」と力なく笑いかける。
「久方振りに外へ出たから、少し疲れてしまったのでしょう。……悪いけれど、わたくしは先に帰らせて頂くわ」
「分かりました、姉様」
如何か、お大事に為さってくださいませ。
本気でわたくしを心配してくれる妹に感謝と申し訳なさを感じながら、わたくしは師匠の邸宅に背を向け、足早にそそくさと来た道を戻っていった。
――嗚呼、嗚呼。
女人の矜持も何もなく、唯恥を掻き捨て続けながら如何にか辿り着いた我が家。一人家で針仕事をしていた母が目を丸くしながら見てくるのにも構わず、わたくしは一目散に書斎へと飛び込んだ。
文机に開いたままの、書きかけの原稿を前にする。体調の悪さなど、最早気にする余裕はなかった。
わたくしを突き動かすのは唯、逸る程の衝動。
――書かなければ。
溢れる此の想いを。苦しみを。辛さを。わたくしが未だ断ち切れぬままでいる、あの方への処理しきれぬ恋慕の丈を。さぁ。早く。此の、原稿に。
恐らく此れこそが、わたくしの恋の集大成に為るだろう。何より伝えたい、伝えなければ為らない、わたくしだけが書き得る物語。
震える手で筆を執り、現行へ思いの丈をぶつけるように、唯想いのままに、書きつけていく。
――せめて彼奴に、あたしの気持ちだけでも知ってもらいたかったから。
かつて聞いた少女の声が、頭の中へと蘇る。
わたくしの真実の想いを、あの方が知る日は一生来ないだろう。けれどもせめて、わたくしの文章を通して、わたくしに其のような相手がいるということをあの方に知って頂きたい。
溢れ出しそうな想いを、燻らせたまま余生を過ごせなどしない。
後悔だけは、したくない。
唇を噛み締めながら、一行一行、自らの筆運びにより埋まっていく原稿用紙を目で追っていく。
一生を懸けられる程強い、一人の少女の恋慕。叶わぬ恋に苦しみながら、運命に翻弄される彼女の生き様。
如何か、如何か伝わりますように。
心の何処かで強く願いながら、わたくしは唯、我武者羅に筆を運び続けた。
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