明治二十八年十二月:体調の変化

 少しずつ、少しずつ執筆を重ねていくにつれ、段々軌道に乗ってくるのが分かった。幾つもの雑誌に作品を発表し、原稿料を得る。其れは此れまでやってきたことと何一つ変わらない筈だし、暮らし向きも此れまでと殆ど変わらず苦しいままなのだが、此の頃はかつて感じていたこともなかった程の充足感と、確かな手応えがある。

 そしてその手応えは、其れ程間を置くことなく、確かな形となってわたくしの目の前へと表れることとなった。


 自らの経験、想い、考え方を全て小説に注ぎ込み、間を置かず幾つも発表していったことが功を奏したのか、わたくしの生み出した作品たちは次々と陽の目を見るように為っていった。余りに発表した所為か、此の時期は『奇跡』等と呼ばれ持て囃されたくらいである。

 少しずつではあるが原稿料の手取りも増えていくのが分かったし、わたくしの名も徐々に周りに知られるようになっていったのを実感していた。

「最近、頑張っているようね」

「貴女の作品を堂々と読めるように為って、私も嬉しいわ」

 此れまで近くでわたくしの執筆活動を見守って呉れていた母や妹、また離れて暮らす他の家族は、そう言って喜んでくれた。きっと、墓前の父や長兄も喜んで呉れているに違いないと思うと、頑張ってきたことが漸く報われたようで嬉しくなる。

 其れだけでなく、かつて御世話になった歌子先生や竜子様、学問所時代の友人である夏子なつこさんまでもが、態々声を掛けて呉れるように為った。「学問所でも、貴女の話題で持ちきりよ」と歌子先生が言ってくださった時など、照れの余り顔が上げられなくなってしまった程だ。

 特に今年の一月から七回にわたり発表した連載作品が一際高く評価され、鴎外おうがい先生や露伴ろはん先生などといった文壇の方々には勿体ない程御褒めの言葉を頂いた。

一葉いちよう女史の作品は、何と言っても下層階級の暮らしをつぶさに描いている処が魅力である。特に「たけくらべ」は、そんな一葉女史の才覚を余すところなく伝えており……』

 わたくしが小説を書く際に使っている『一葉』という筆名ペンネームは、『御がない』――つまりわたくし自身の貧乏な暮らし向きと、かつての葉一枚で中国へ渡ったという達磨だるま公の逸話と、二つの意味を掛け合わせて付けた。所謂、自嘲めいた言葉遊びのようなものである。

 そんな自らの暮らし振りを其のまま如実に表すような、或る種惨めな名を、わたくしは敢えて好んで使っていた。『一葉』という名の響きが、何処か心地よかったからかもしれない。

 そうすることで寧ろ、わたくしは作家としての矜持を保つことが出来ていたのかもしれない。


    ◆◆◆


 丁度同じ頃――軌道に乗る執筆活動とは裏腹に、わたくしは何処となく自らの体調に違和を感じ始めていた。其れは普段なら気に留めることもないであろう、些細な違和。

 此れまでならば夜通し執筆していても、多少睡眠が足りていなくても平気でいられたのに、近頃は一晩でも其のような過ごし方をすると、ふらりと眩暈を覚えるようになった。長時間の執筆が、苦痛に思えるようになった。

 元々わたくしは頭痛持ちであり、さして身体が強いというわけでもなかった――勿論、特別虚弱であるわけでもない――のだが、近頃は此れまでよりも更に堪えるように為った気がする。

 気づけばわたくしは、余り外出をしなくなっていた。長時間外出すると、僅かながらではあるが身体に障るのだ。最初は何となく気怠さを感じるだけだったのだが、近頃は長時間活動していると倒れそうに為ってしまう程に為っていた。

 妹は其れを案じてか、わたくしを気分転換にと外出に誘うことは殆どなくなったし、母もわたくしを気遣って、家主としての仕事を手伝って呉れるように為った。長時間の執筆も禁じられ、早めに寝るよう命じられた。

 此れが例えば、母くらいの年齢――四十代、五十代程ならば、年齢の所為にすることが出来ただろう。然しそう言い切ってしまうには、わたくしはまだ若い。

 何か病を患ったのではないか、と再三医師に診てもらうよう勧められたが、わたくしは其れを幾度となく拒んだ。其のような余裕は我が家になかったし、何より今のわたくしには、自身の体調よりも執筆が大事だったのだ。


 書かねばならぬ。其れは、一種の強迫観念のようでもあった。家の為ではなく、自身の為。

 当初の切っ掛けと段々かけ離れている気がするのは分かっていたが、最早わたくしの中で執筆とは生活の一部になっており、正に無くてはならぬ存在であった。欠けるなど、決して許されることではない。

 身体に違和を感じ、筆を取り落とすたびに、わたくしは幾度となく自身を奮い立たせた。此のようなことではいけないと、自身に言い聞かせた。

 わたくしには、わたくしの物語を待ってくださる方がいる。

 わたくしには、わたくしを支えてくださる方がいる。

 わたくしには……わたくしに小説書きの基礎基本を教えてくださった、師匠がいる。

 あれ以来、未だわたくしはあの方に御逢いしていない。御逢いすることが、出来ずにいた。

 あの方を断ち切れないのは、わたくしだ。わたくしだけが、あの方のことを未だに忘れることが出来ぬまま、師匠として、一人の殿方として、あの方を一心に御慕い申し上げている。

 師匠の方は、わたくしのことなど疾くに忘れているかもしれないが……。

 縁を切った今でも、わたくしの師匠はあの方だけ。他に小説書きをされている方はたくさんいらっしゃるし、其れこそ一度御紹介を受けたことのある紅葉先生などの方が、あの方よりずっと知名度も才能も上であろう。

 其れでも、如何しても。

 ――師弟関係にある方に、恋などしていい筈がないでしょう。

 あの時阪本様には『わたくしは、あの方に其のような気を起こしたことなど、一度たりとも御座いませぬ!』などと啖呵を切ったり、日記にも似たようなことを綴ったりしたが、此の気持ちだけは如何しても偽れぬし、譲れぬ。

 わたくしの師匠は、あの方だけ。

 わたくしが御慕い申し上げているのも……ずっと、あの方だけ。


    ◆◆◆


 如何にか来月の雑誌に載せるための作品を仕上げたわたくしは、其のまま雪崩れるように床へ就いた。近頃敷きっ放しの布団からは、ふわりと何時もの香りがして、何処となく落ち着く。

 そういえば、とふと考えた。

 あの方に頂いた巾着袋は、捨てることも出来ぬまま何処かの日記帳に挟んであった筈だ。探してみたい衝動に駆られたが、最早起き上がるのも怠かったので、断念した。

 目を閉じて、あの方の匂いを思い出そうと試みる。別れたのはずっと前で、通常は記憶などゆっくりと薄れつつあるものなのだろうが、あの方のことだけは今でも鮮やかに思い出される。

 あの日、巾着から香ったあの方の匂い。記憶の底から引っ張り出された其れに、心が疼いた。

 ――逢いたい。笑顔が見たい。声が聞きたい。

 『奈津さん』とわたくしの名を呼んで、笑ってほしい。

 嗚呼。あの方の隠れ家で、雑煮を御馳走になったのは、一体何時の日のことであっただろうか。

 あの時が、一番幸福であった。此の幸せがずっと続きますようにと、焦がれるように願ったあの日が懐かしい。

 今はもう、其のようなことを願うことすら烏滸がましいのだけれど……。

 今はもう失われてしまった、幸福だった日に思いを馳せながら、わたくしはそっと目を閉じる。息が苦しいのは、何故であろう。

 目尻を伝った一筋の滴が、枕に染み込んだのが分かった。

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