明治二十九年六月:最後の邂逅
小説を書こうと志し始めてから、あの方に出逢ってから五年。あの方と御逢いしなくなってから、三年。本格的に評価され始めてから、一年。
皮肉にも、わたくしはあの方に学んでいた頃よりも伸び伸びと、世間に評価される作品を執筆することが出来るようになっていた。
――小説書きの基礎を教えてくださったのは、紛れもなくあの方なのに。
わたくしの書く原動力と為っているのは、何時だってあの方なのに。
御逢いしとう御座います、と表立って告げられぬ口惜しさ。御慕い申しております、とも簡単に告げられぬもどかしさ。
契りも交わしておらぬような、未婚の男女が頻繁に逢っているというだけで不審な目で見られる世の中であるから、此ればかりは仕方がないのだと、いっそ割り切ってしまえれば良かったのに。
そうすれば、此のような想いをすることには……。
溜息を吐こうと小さく息を吸えば、喉に引っかかる違和感に眉を顰める。喉奥の想いを無理矢理吐き出そうとするように、わたくしはごほっ、と一つ咳をした。
◆◆◆
針仕事をする母と共に、久方振りにゆったりとした時間を過ごす。妹はまた半井の御屋敷に出掛けているらしく、朝に少しばかり見かけて以来姿を見せていなかった。
穏やかな昼下がり、母の針仕事を見るとはなしに眺めながら、わたくしは傍らの壁にぐったりと身体を預けていた。すると、不意にとんとん、と玄関の戸を叩く音がする。
「奈津、誰か来たようだね」
「是。一寸、様子を見て参りますわ」
ごほっ、と一つ咳をして、立ち上がる。「大丈夫かい」とわたくしを案じるような母の言葉を背に、わたくしは玄関の下駄を足に引っ掛け、相変わらず立てつけの悪い戸を、苦労しつつ開けた。
「御久しぶりです、奈津さん」
頭上から聞こえる懐かしい――最後に御逢いした日に聞いたものと同じ声と言葉に、はっ、と息を呑む。ゆるりと顔を上げれば、何ら変わらぬあの方の柔らかな笑顔とぶつかった。
「師、匠」
思わず、声が引っ繰り返ってしまう。
わたくしの反応を聞きつけたのか、母が下駄を引っ掛け、急いだ様子でわたくしの隣へとやって来た。
「嗚呼、此れは此れは……半井先生。其の節は、娘が大変御世話になりました」
「否。此方こそ、何時も妹が世話に為っております」
わたくしを蚊帳の外に追い出すかのように、畏まって挨拶をし合う二人。「大した御構いも出来ませぬが」という母の謙遜の如き事実を語った言葉に従い、彼は初めてわたくしの宅へ足を踏み入れた。
――ごほっ。
「どうぞ、半井先生。御座りくださいな」
「有難う存じます」
囲炉裏を囲うようにして、わたくしと母、そしてあの方が其々座布団に腰を下ろす。わたくしと母の座布団は、擦り切れて彼方此方綿がはみ出てしまった薄い煎餅のような代物だが、客人であるあの方には、態々押し入れに仕舞っていたふかふかの座布団を御出しした。
「今、茶を御出ししますわね」
母が立ち上がり、台所へ出て行く。
不意に二人きりとなった空間で、師匠がわたくしを見てふ、と柔らかく微笑んだ。
「行き成り訪ねて、不躾でしたでしょうか」
「……否、其のような」
嬉しゅうございます、等とは口が裂けても言えぬこと。其れでも、胸が潰れる程に御逢いしたかったのは事実で。
如何とも告げることが出来ず、わたくしは唯目を逸らし、一つ咳をすることしかできなかった。
やがて、母が三人分の茶を乗せた盆を持って現れる。
「粗茶で御座いますが」
「有難う存じます」と母に打ち笑みつつ告げた師匠は、湯気の立つ客用の湯呑を静かに傾けた。
「結構な御手前で」
「ふふ、勿体のう御言葉で御座いますわ」
微笑み合う母と師匠を、わたくしは何故か妙な心持ちで見つめる。
「して、今日はどのような」
「否、特に用があったわけでは……少しばかり此の辺りに用がありまして、御宅を通りがかりましてな。ふと、奈津さんのことを思い出したもので御座いますから」
――ごほっ、
又、此の方は期待を持たせるようなことを仰る。
わたくしが彼の人への未練を断ち切れぬまま此処まで生きてきたのと同じように、彼の人もわたくしを忘れずにいてくださったのだろうか、等と浅ましいことを考えてしまうではないか。
いっそ、二度と会わずにいてくだされば良かったのに。
まるで気まぐれのように、此のような中途半端なことを為さるから、わたくしは未だに貴方への想いを捨てられずにいるというのに。
……恨み言を言っても、仕方ないことは分かっているのだが。
「奈津さんは、此の処作品を次々と発表されておられるようですな」
「……是」
「拝読させて頂いておりますよ。特に、少し前まで為さっていた連載……『たけくらべ』でしたかな」
どくり、と心臓が高鳴る。
美登利という少女の淡い初恋を、そしてわたくし自身の恋慕を、下町の生活と共に余すところなく描いたあの連載。わたくしの想いが少しでも伝わって呉れれば、と、半ば衝動的に書き綴ったあの……。
今更ながらに羞恥が襲い、カッと顔が熱くなる。
そんなわたくしの心情を知ってか知らずか、師匠はちらりとわたくしへ視線をよこした。瞳の奥にほんのりと甘いものがちらついた気がして、再びどきりと心臓が音を立てる。
わたくしの顔色が変わったことは明確だというのに、師匠は少しも触れることなく、ふわりと微笑みを浮かべた。
「奈津さんにしか描けぬ世界観に、題材であると思います。貴女の作品でよく取り上げられる片恋という題材の、まさに真骨頂とでも申しますか。女人の気持ちを至極丁寧に描いていらして……私は男ですが、其れでも感情移入せずにはいられなくなってしまうのですよ」
彼は、御存じであろうか。此の作品に隠された想い、そして其の対象が紛れもなく御自分であるということを。
――ごほっ、
また一つ、咳をする。肺の辺りが、僅かに痛んだ気がした。
「……時に、奈津さん」
「はい?」
師匠の唐突な呼びかけに、茶を飲みつつ返事をする。わたくしを見つめる双眼は、先ほどと打って変わって案ずるような光を宿していた。
「先程から、咳を為されているようですが。御具合でも悪いのでしょうか」
「否、」
「嗚呼。如何も此の半年近く、体調が優れぬようで……近いうちに、医師に診てもらおうかと言っておるのです」
わたくしが何でもない、と言おうとするのと粗同時に、母が其のようなことをぺらぺらと喋るものだから、師匠はますます心配そうに眉を下げた。
「そうでしたか……嗚呼、そういえば御顔の色も宜しくない。余り長居をしては、奈津さんの御身体に障りますな」
「御気に為さらずとも、宜しいのに。わたくしは大丈夫ですわ」
「いやいや」
茶を急ぐように飲み、師匠はそそくさと立ち上がろうとする。其処でふと、思い出したように此のようなことを言った。
「何時かの、逆のようですな。私が体調を崩し寝込んでいた時、偶々奈津さんが隠れ家まで訪ねてこられて」
嗚呼……其のようなこともあった、と思い出す。
あの時は何時も通り、書き上げた原稿を見てもらおうと訪ねたのだったが……余りに師匠の顔色が青く喋るのも辛そうだったので、御身体に障ってはなるまいと早めに御暇したのであった。
本当に、あの頃の逆のようだ。
未だわたくしたちが通常の師匠と弟子であった頃。唯御逢いすること自体が、小説の書き方を学ぶことが、隠れ家の囲炉裏を囲んで御話することが、幸福以外の何物でもないと考えていた頃。
もう、あの頃に戻ることは一生叶わぬのだが……。
――ごほっ。
「嗚呼、また咳を。今宵は早めに御休みに為られた方が良い。私はもう、此の辺りで失礼いたしますから」
「あら、そうですか? でしたら、玄関までお見送りいたしますわ」
「其れには及びませぬ。奈津さんの御身体を、気遣ってやってください」
立ち上がり、玄関へと足を進める師匠。からり、と下駄を履く僅かな音がして、師匠は最後までわたくしを案ずるような言葉をくださった。
「くれぐれも御大事に。また貴女の新作を拝読できますこと、楽しみにしております故」
からり、きしり。
抵抗するような、開きにくそうな戸の音。
「すっかり御世話になりまして」
「大したお構いも出来ませんでしたが」
「否、御気に為さらず。……では、失礼いたします」
「道中、御気を付けて」
母の見送りの言葉に小さく会釈を返すと、師匠は立てつけの悪い戸を閉め、宅を出て行ってしまわれた。
母がわたくしを見て、淡く微笑む。
「良い御方ではないか」
「……是」
「きちんと、恩返しをせねば為るまいな」
「分かっております」
母の言葉に、曖昧に返す。
こほ、とまた一つ咳を零すと、わたくしは自室へ戻るべく立ち上がった。
「けれど、くれぐれも無理はするんじゃないよ」
向けた背に投げ掛けられた案じるような声に、わたくしはただ一言、「是」とだけ返した。
――此れが、師匠と御逢いする最後の時となった。
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