若葉かげ~或る恋の譚(はなし)~

明治二十四年四月:御師匠様との出逢い

 わたくしが彼の人――師匠せんせいに初めて御対面したのは、わたくしが丁度二十に成るか成らないかの頃。物書きのいろはを教わりたいと願ったわたくしに、妹が友人を通して膳立てして呉れた場でのことであった。


「――御初に御目にかかります。奈津なつ、と申します」

 緊張の余り声が震えるのを自覚しながら、わたくしはおずおずと三つ指をつく。目の前に鎮座する男性を直視することが只々恐ろしくてならず、其のまま暫し顔を上げることが出来ずにいた。

 ――最初の挨拶は丁寧に、決して粗相をしては成りませぬ。

 此処に来るまで、何度も心の中で繰り返した。其の所為だろうか、斯うして実際に御対面してからというもの、顔中……其れこそ耳まで火照り、僅かに紅をさした唇さえもからからに乾いているのが自分でもわかる。

 わたくしの緊張を察したのか、頭上から柔らかな声が降ってきた。

如何どうか、顔をお上げください」

 従わねば失礼だと自らに言い聞かせ、固まって動き辛くなっている身体をゆっくりと持ち上げるようにして起こす。目に飛び込んできた光景に、わたくしは知らず息を呑んだ。

 年の頃は、三十に成られて少し経ったくらいと御見受けした。

 肌色は非常に白い。穏やかな顔つきに少しばかりの笑みを浮かべており、其の様はまこと三歳ほどの幼子でさえも容易く懐くのではないかと思ってしまう程に優しげで……年上の、しかも男の方に対して失礼かもしれぬが、何だか可愛らしくもあった。

 座っているが故、座高と太腿の長さから予想することしか出来ないが、背の丈は恐らく世の男性よりひときわ優れて高いのではなかろうか。体格もしっかりしていらっしゃり、実に堂々とされた御立派な方のようである。

 ――そう、此の時点でわたくしは、在る種予感のようなものを既に抱いていた。甘いような、苦いような、至極不可思議な予感を。

「貴女が此れから物書きにて生計を立てたいと思うていらっしゃる……ということは、既に伺っております」

「……は、い」

「既に御聞き及びのこととは存じますが、物書きとは実に世知辛い職業です。苦しきこと幾つも御座いましょう……然し、其れも短き節の間のことと御忍びください。私などとても師匠と呼ばれるような器ではありませんが、貴女さえ良ければ何時でも相談の御相手に成りましょう。如何か、身体の力を御抜きに為って。気兼ねなく、私のもとへいらしてください」

 彼に頂いた言葉たちが、星の瞬くように一つずつきらきらと存在感を示しているかのようで……じんわりと、わたくしの心を温めていく。お恥ずかしいことではあるが、余りの嬉しさに感極まって思わず涙を零しそうに為ってしまった程だ。

「……宜しく、御願い申し上げます」

 漸く其れだけを口にして、わたくしはもう一度頭を下げた。

 そっと頭を上げると、彼――師匠はもう一度、柔らかなあの笑みを浮かべて……「御食事でも如何いかが」と、此の近くに在るという喫茶店カフエへお誘いくださった。

 当初の予想通り、立ち上がった師匠の背丈は高い。父や兄といった男家族と早くに離れていたわたくしにとって、此のように長身の男の方と並んで歩くのは非常に新鮮であり、また心をいたづらに擽られるようであった。

 其処で軽食を御馳走になる間、わたくしは師匠から小説家としての抱負のようなものを伺った。

「私は自分で書いている小説に満足したことはありません。家族の衣食の為に書いておりますが故、勿論非難されることも御座いましょう。しかし、いずれ自らの心のままに小説を書く時が来ましたら、其の時は如何なる批判をも受け付けぬ覚悟で居るのです」

 此の言葉についても、わたくしはやはり感動を禁じ得なかった。

 抑々そもそもわたくしは、自らの生活の為に文を書こうと決めてきた身であるから、物書きとしての理想ビジョンなど殆どないに等しかった。師匠はわたくしと同じ境遇に在るというのに、此のように御立派な御考えを御持ちでいらっしゃる。

 自らの抱いていた余りに浅ましき考えに、穴があれば入りたい程の羞恥が全身を襲った。

「……奈津さん?」

 名を呼ばれ、はっと我に返る。向かいの椅子チェアに腰かけていた師匠が、わたくしを心配そうに眺めていた。

「何処か、御具合でも?」

「……いいえ、何でも御座いません。御気遣い、感謝致します」

 気を取り直し一礼すると、わたくしは早速持参した小説の草稿を師匠に御渡しした。そして後日添削したものを御返し頂くという約束を交わし、参考にと師匠自らが御書きに為られたという作品を数点頂いた。

 帰途へ着いたのは八時頃。師匠はわたくしの為に、くるままでも手配くださった。文字通り、至れり尽せりだ。

 帰り道は雨で、慢性的な頭痛持ちである普段のわたくしには非常に辛い天候だったものの、其の日のわたくしの気持ちは、今時のうら若き乙女の如く弾んでいた。


    ◆◆◆


 そして翌週、わたくしは再び師匠の許を訪ねた。

 昨週御渡しした草稿について、忌憚なく御意見を、と申し上げたところ、師匠は初めて御師匠様らしい厳しげな顔つきになり、きっぱりと此のようにおっしゃった。

「新聞に載せるには、ちと長い。そして、少しばかり文体が硬いように御見受けしました。……有り体に申すならば、貴女の書かれた此の文章は、大衆向けとは呼べません」

「大衆向きでは、ない……ですか」

ええ……言い方は悪かったかも知れませんが。私と同様、貴女も物書きという職業で生活を支えたいと、其のように御考えなのでしょう? 名を馳せる迄のうちは、たとえ本意でなくとも、読者に需要のある、通俗的な文章の書き方をしなければ成りません。此のように文体が硬いと、少々小難しい印象に為ってしまって、世の人には手に取って貰えない」

「……」

「貴女の文章が、悪いとは言いません。ただ、新聞に載せるには向かないというだけです。貴女らしい其の文章が、より活きる場を此れから私も考えていこうと思っておりますので……如何か、御気を落とされることのないように」

 身に余る助言と御約束を頂き、其の日は師匠の許を後にした。


    ◆◆◆


 其の後もわたくしは、度々師匠の許を訪ねた。

 文章の添削や助言、書き方などについて御指導頂く折、師匠御自身の御話を御聞かせ頂く機会もあった。

 わたくしと同じ目的で物を書いている師匠は、やはりわたくしと同じく貧乏な家庭であるようだ。数々の逸話エピソオドを耳にする度に、嗚呼……わたくしが抱えている貧しさなど取るに足りぬことなのであろうな、としみじみ感じずにはいられないのだった。


 そんな折――忘れもせぬ、六月のあの日。

 わたくしは師匠から、非常に厳しい御言葉を頂いた。以前に頂いた、『大衆向けではない』という助言に関することだ。

 詰まる所、『今のままでは原稿料を頂くことすら叶わぬであろう』ということ。現実の厳しさを、まざまざと見せつけられた。

 今の状況のままでは、一家の長として家計を支えていくだけの収入を得ることなど夢のまた夢。家族を支えることが出来ればと、僅かな希望に賭けて物書きの修業を始めた筈なのに……自らの生き甲斐を、真っ向から否定されたような気がした。

 其の日は見るもの聞くものすべてが断腸の思いだと、いっそ此の身を投げてしまえればと、思わずそんな風に思い詰めながら帰路へ着いた。

 世に生を受け、此れ迄二十年程度生きてきたが、此の時程自害について真剣に、現実味を帯びつつ考えたことは未だかつてなかった。

 然し、わたくしが抱いていた本来の志を――家族のことを思うと、決して我が身一つではないのだと自らを奮い立たせることが出来た。

 また、お優しい師匠のことを思っても――此方こちらから押しかけるような形で無理に弟子にして頂き、熱心に御教え頂いているというのに、此のような弱音を吐くなど申し訳ないと思うのだった。


 結局、わたくしは近世だったり今様だったりの小説について勉強が足りていないのであろう。師匠にも御教え頂いているが、わたくし自身も知識を取り入れねばならぬ。

 わたくしは気を取り直すと、翌日より上野の図書館へと通い始めた。

 図書館で今様の小説を読み漁っては勉強し、参考にしつつ自らも文章を綴り、出来上がった文章を傍らに師匠の許へ通い――……気づけば、わたくしの日常は物書きを中心に回るように為っていた。


 其れ故に、此の時は未だ気づいていなかった。……と云うより、考える余裕がなかった、と言った方が正しいのかもしれない。

 兎に角、わたくしは知らなかったのだ。


 わたくしが彼の人に対して抱いていた気持ちの、本当の形が一体どのようなものであるのかということも。

 わたくしが此れ程迄に彼の人を想い、其の気持ちについて生涯懸けて悩み苦しむことに為るということも。

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