明治四十五年十一月:遺された日記

「半井先生」

 樋口家の墓前に佇む着流し姿に、声を掛ける。ゆるりと振り返った老紳士は、其の声の主である婦人の姿を認め、ふんわりと微笑んだ。

「嗚呼、邦子さん。こんにちは」

 右手に花、左手に紙袋を抱えた婦人――邦子は、歩く速度を変えぬまま、粗足音を立てることもなく彼の許へ近づいた。

 紙袋から線香を取り出すため、右手が塞がっている原因である花をいったん下ろそうとすると、「持ちますよ」とさり気なく受け取って呉れる。其の大人というか、紳士的な振る舞いに少し戸惑いつつも、邦子は「有難う存じます」と礼を言った。

「もう、十六年に為りますか」

 線香に火をつける邦子を通して、墓石を眺めながら、半井はふと遠い目をした。線香の束で揺らめく灯火を手で払い、邦子は答える。

「そうで御座いますわね」

 時の流れとは、真実に早いものです。

 俯きがちにぽつりと告げた其の横顔は、何処となくあの娘に似ていた。もう少し長く生きていれば、あの娘も此のような年の取り方をしていたであろうという確信に、自分自身でも納得する。やはり姉妹、血は争えぬものであると半井は妙な処で感服してしまった。

「時に、邦子さんは御幾つに為られましたかな」

「余り、女子に歳を訊くものでは御座いませんわ」

「おや、此れは失礼」

「……今年で、三十八に為りました」

「奈津さんとは、幾つ離れていたのでしたっけ」

「二つですわ。ですから、姉様は今年で四十に為っていた筈です」

「四十、ですか」

「……生きていらっしゃれば、姉様も今のわたしのように、身を固めて家族を持っていたことでしょう」

 邦子の瞳が翳る。半井の胸も、ちくりと痛んだ。

「今日は、御家族は」

「何時も、姉の処へはわたし一人で参るので御座います。夫も、子供達も、揃って御留守番ですわ」

「そうですか……」

 近況を聞きながら、彼女の姉である元弟子――奈津を想う。

 二十四で其の生涯を閉じた奈津は、半井の門下の中でも一際熱心な弟子であった。若くして一家を支える立場だったというだけあって、大変な芯の強さを持っておったと、十六年経った今でも半井は鮮明に記憶している。

 然し……其れ故に、寧ろ内側は脆かったのかもしれぬ。

 身体を壊し、不治の病と診断され、あんなにあっさり儚くなってしまうなどと、一体誰が予想しただろう。

 きっと、今目の前にいる彼女の妹――邦子でさえも、まさか此のようなことに為るとは想定していなかったに違いない。

「毎年、姉の命日に斯うして参ってくださいますこと、わたくしも親族も、非常に有難く思っております」

 灯の点いた線香を半井に手渡しながら、邦子が微笑む。落ち着き払った打ち笑み方も又、奈津がよく浮かべていた其れに能く似ていた。

「姉もきっと、喜んで御出でですわ」

「そうであれば、嬉しいですが」

 寧ろ、迷惑と思われているかもしれませんねぇ。

 冗談交じりに笑って言いながら、半井は線香を手向ける。邦子の持って来た新しい花と墓前の花を替えようと手を伸ばしたところで、其の動きを阻むようにぱしり、と邦子の手が半井の手を軽く叩いた。

 驚いて見れば、邦子が赤い顔できっ、と半井を睨んでいた。紙袋を持っている方の手が、ふるふると小刻みに震えている。

 如何やら怒っているらしいが、其の怒りの原因に皆目心当たりがない半井は、ただぽかんとしながら、突如豹変した彼女を眺めるしか出来なかった。

「……あの、邦子さん?」

「御戯れを、仰るのは其処までにして頂けますか」

 絞り出すような、低い声。何がですか、と言い募ろうとした半井が口を開きかける前に、怒りに満ちた声は淡々と続けた。

「姉が、どれ程貴方を想っていたか。貴方は御存じないのです……」

 怒りと絶望の混じった、独り言のような言葉の羅列。

「奥様が、いらっしゃる身であるのは分かっています」

「奥様?」

 其の言葉に、ぴくり、と半井は反応した。怪訝そうに眉を顰め、首を傾げながら心底不可思議そうに呟く。

「私は、最初の妻を亡くして以来ずっと一人ですが」

「えっ」

 怒りに満ちていた空気が、霧散される。心の底から驚いたというように、目を丸くした邦子は手で口を押さえた。

「でも、御子様を妊娠為されたと」

「民子さんのことでしょうか。あの方が身籠られたのは、私ではなく弟の子です。口外すると都合が悪いので、ずっと隠しておりましたが」

「否、あの時。長屋には妹君の幸さんと、民子様と……もう御一方、女性がいらしたでしょう。わたし、見たんですよ」

「何時のことを仰っているのか見当が付きませんが……長屋に幸と民子さん以外の女人がいらしたのなら、きっと其れは従妹の千賀ちかでしょう。時折、遊びに来ることがありましたから」

 力が抜けたように、がくり、と邦子はうなだれた。然し直ぐに顔を上げ、再び強気に半井を睨みつける。

 おもむろにごそごそと紙袋を漁った邦子は、古びた帳面を数冊取り出した。其れを、感情のまま半井の胸の辺りへと押し付ける。

「兎に角……丁度よう御座いますわ。わたし、墓参りが終わったら貴方の家を訪ねるつもりでしたの。相談事が、ありましたから」

「相談事?」

「是」

 邦子の返事を聞き、半井は押し付けられた帳面を見る。『若葉かげ』と表題の付けられた一冊を開くと、見慣れた奈津の几帳面な……けれど普段より感情の込められた字が幾つも並んでいた。

「此れは……」

「姉の日記ですわ。今や名の売れた作家である樋口一葉の日記。……此れを、随筆として世に出しては如何かと思いまして、本日は其のことを半井先生に相談しようと思っていたのです」

 ――でも、其の前に。

「貴方の来訪が、姉にとって迷惑であったと、貴方が本気で思っていらっしゃるのなら……姉にとって貴方がどのような存在であったか、御存じないと仰るのなら。此の日記を、読んでください」

 姉を想うが故の迫力に圧されるがまま、半井は帳面を開く。其の日記は、奈津と出逢う少し前――明治二十四年の、四月上旬より始まっていた。

 春の始まりに胸を高鳴らせる様子、学問所での歌会……。

 そして、其のことが至極当然であるかのように、奈津と半井が初めて出逢った日のこともきちんと綴られていた。

『彼の年の頃は、三十に為られた頃と御見受けした。姿形など取り立てて書きつけることは大層無礼なことであるけれど、わたくしが思ったままのことを書く。……肌色はとても白い。穏やかな顔つきに少しばかりの笑みを浮かべており、其の様はまこと三歳ほどの幼子でさえも容易く懐くのではないかと思ってしまう程に優しげで……』

 自分の第一印象について、此のように事細かに書き記されていることに、半井はまず驚いた。当時、奈津は非常に緊張している様子であったので、まさか其処まで自分を見られているとは思いも因らなかったのだ。

『限りなき嬉しさに、まず涙が零れた』

 更に、半井に関する日記は続く。

 半井が自らの理想について語った時のこと。奈津が初めて提出した原稿に、半井が助言した時のこと。

 雪の日に、隠れ家で汁粉を馳走したこと。

 自らの軽率な行動のために、立てられてしまったあられもない噂に苦しみ悩む様子。縁を切らなければと、覚悟を決めるまでの葛藤。

 貧乏な家庭を支える苦悩や、小説を書くことへの探究心を募らせると同時に、半井との逢瀬を楽しみ、彼の一挙手一投足に一々心を弾ませ、翻弄されていたと思われる奈津の日記。

 彼女が数年後に書いた作品を幾らか読んだ時にも感じた、感情移入からくる甘い胸の疼きが、半井を包み込んだ。

 ページを捲る手が早まり、どんどん其の内容に惹きこまれていく。

『わたくしは初めからあの方へ心を許したこともなく、恋をしているなどと思ったことも決してなかった』

 邦子は、そんな半井が熱い視線を帳面へ注ぐ様子を、黙ったままひっそりと眺めている。

『或る時は厭い、或る時は慕い、他の処で話を聞いては胸を轟かせ、届いた手紙を見て涙を流し、心を乱し迷い夢に見て……彼是四十日余り、わたくしは闇の中にいた。七月の十二日に別れて以来一度も思い出さぬ日はなく、忘れる暇など一時もなかった……』

 半井の瞳が、熱に侵され潤んでいく。胸の高鳴りが煩い。此のような思いをしたのは、何年振りであろうか。

 ――まさか、こんなにも想われていたなんて。

 最後まで読むに堪えず、ぱたり、と帳面を閉じる。

 其の少し前に、頁の間からはらり、と何かが落ちた。屈んで拾ってみると、其れはひどくくたびれた布切れのようなものであった。

「此れは……」

 何年も前のものであろう、其れはよくよく見ると巾着袋のように見えた。ふと、二十年も近く前の出来事が半井の脳裏を過ぎる。

 初めて半井が出した文芸書の、まさに雀の涙ばかりの原稿料を、奈津の宅へと届けた時。確か……僅かな小銭を纏めて入れたのは、此のような巾着袋ではなかったか。

 其のようなものまで、彼女は大切に持っていて呉れたのか。

 棄ててしまえば良かったものを……彼女は一体、どれ程の想いで?

 何とも言えぬ気分に為りながら、ぺらぺらの布切れを元のように挟み直し、邦子に返す。半井は自らの情けない表情を見られたくないがばかりに、す、と彼女から視線を逸らした。

「御分かり、頂けましたか」

 邦子の問いかけは、淡々としている。彼女もまた、此の日記を読んだのだろうか。

 口調も其のままに、邦子は続けた。

「姉が、最期に……こと切れる瞬間まで、何度も呼んでいた名が、貴方にはわかりますか」

「……さぁ」

「冽さん、」

 びくり、と半井の肩が震える。

「貴方の名前ですよ、先生」

 そう。其れは余程のことがない限りは呼ばれることのない筈の、半井の下の名――真実の、名であった。

「此れほどまでに、貴方は姉に思われていたので御座います。……如何、御思いに為って?」

「……光栄、ですね」

 けれど、同時に絶望でもあります。

「彼女のまっすぐで純粋な想いに、私は気付き、応えてあげられれば良かったのでしょうか。……そうすれば、此のように彼女が思い悩み、傷つくこともなかったのでしょうか」

 今更、何を言っても遅いのだけれど。

「今からでも、せめてもの償いに……何か、出来ることはあるのでしょうか」

 返事をするように淡く微笑みながら、邦子は半井が替えようとしていた花を半分抱える。片側の花瓶に水を汲み、若々しくしゃきっとした茎を差し込みながら、邦子は独り言のように答えた。

「先程も言いました通り、毎年命日に斯うして来てくださる……其れだけで、姉にとっては十分で御座いましょう」

 姉の願いは、貴方にずっと自分を覚えていて貰うことでしたから。

「……そう、でしょうか」

「そうですわ。だから、此の先何があっても決して、姉を――奈津を、忘れないでやってください」

 もう片方の花瓶に、水を流し入れる。見計らったかのように、半井が抱えていたもう半分の花を其処へと挿しこんだ。

「其れならば、御安い御用です」

 絶対に、忘れない。

 忘れて呉れと頼まれても、無理な話だ。

 誰よりも芯が通っていて、責任感が強くて、勉強熱心で、意地っ張りで……誰よりも強く、此の私を想って呉れた。

 そんな愛すべき女人の存在を此の心に焼き付け、私は今後も生き続けていくことであろう。

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若葉かげ~或る恋の譚(はなし)~ @shion1327

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